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CCD時代を生きたNikon D200で遊ぶ

Nikon D200 (D610で撮影)

チョートクさん(田中長徳氏)の言葉。

過ぎ去るモノとしてのデジカメ。
留まるモノとしてのライカ。
どちらがより愛着のわく機械か。それはいうまでもありません。
『カメラに訊け』田中長徳著(ちくま新書)・あとがき

一理あるが、全くそうだともいいきれない。「過ぎ去るモノとしてのデジカメ」はたくさんある。しかし、過去のデジカメでも魅力的なものがまだ存在する。そのひとつが Nikon D200 である。2005年の発売から17年経過しているが、写真を楽しむのに相応しいデジタル一眼としての価値は色あせていない。手にしたときに伝わる「モノとしての良さ」に魅力を感じる人は少なくない。noteやWeb上の記事において、D200ユーザーの熱い思いや愛着が語られている。「留まるモノとしてのD200」がここにあるではないか。

写真はNikon D200、MFレンズNIKKOR-O Auto 35mm f2(Ai改)を主に使用し、D200のAF動作チェックのためAF-S NIKKOR 50mm F1.8Gも使用した。RAW現像では露光量のみを微調整し、色温度・彩度・コントラスト等は調整していない。NIKKOR-O Auto 35mm f2の写りは適度にシャープで、派手さのない自然な発色だと思う。古いデジカメとレンズの組み合わせだが、レトロ調な色の雰囲気というほどでもないようだ。AF-S NIKKOR 50mm F1.8Gは参考程度です。

NIKKOR-O Auto 35mm f2
AF-S NIKKOR 50mm F1.8G ピンクは照明の色
NIKKOR-O Auto 35mm f2
NIKKOR-O Auto 35mm f2
AF-S NIKKOR 50mm F1.8G
NIKKOR-O Auto 35mm f2
AF-S NIKKOR 50mm F1.8G
NIKKOR-O Auto 35mm f2
AF-S NIKKOR 50mm F1.8G
NIKKOR-O Auto 35mm f2
AF-S NIKKOR 50mm F1.8G 小学2年生の版画作品
NIKKOR-O Auto 35mm f2

【Nikon D200雑感】
1)現代のデジカメのイメージセンサーのほとんどはCMOSで、とてもよく写る。一方D200のイメージセンサーはCCDで、「原色CCD」とも言われる。実は、「原色CCD」という言葉は以前から気になっていた。CCDの発色は「濃い」とか「こってり」というイメージだが、実際に撮ってみると被写体や使用レンズによっては淡泊な色合いになることもある。また、CCDが光をとらえる状況によっても違いがある。CCDの写真はフィルムライクとか、フィルムとCMOSの中間のようであるといわれる。その位置づけが適切であれば、デジタル臭いフォトジェニックなものに対する軽い嫌悪感とも受けとれる。別の言い方をすると、写りすぎるとかえって面白くないということではないだろうか。ライカであれデジタルであれ、人間の心にはクラシカルなもの、あるいはノスタルジックなものへの回帰本能があり、カメラ遊びと写真の本質につながると考えられる。

(参考)CMOSとCCDの違い

ここで述べているのは、CMOSに対するCCDの優位性ではなく、CCDの特性についてなので、誤解がないようにしてほしい。

2)ずいぶん以前になるが、ニコンフィルム機F5を借りたことがある。堅牢なボディ、信頼性の高い露出計やAE、フィルム給装やシャッターのスムーズな動作等完璧なカメラだが、唯一の欠点は重くて気軽に持ち出せないことだった。大げさだが鉄アレイを構えて写真を撮っているようなものだ。結局、私にはオーバースペックであったが、小気味よいシャッター音はよく覚えている。F5に匹敵する音とはいわないが、D200はF5に近い小気味よいシャッター音がする。シャッターを切った後の軽やかで硬質な音の余韻は次のショットに向かう気持ちを引き出す。

3)D200はAi NikkorのMFレンズが装着できる(非Aiレンズは使用できない)。しかも、露出計が作動し絞り優先で使える。単にMFレンズが装着できるということではなく、いろんなシチュエーションで絞り値を変えながら撮影できる。オールドニッコールファンは、まるでフィルムカメラで撮っているような楽しさを実感するだろう。フィルムライクな写真が撮れるならなおさらのことである。これがD200の大きなアドバンテージである。

4)オールドデジタルゆえの欠点もある。
①CCDは消費電力が多くバッテリーの減りが早い。散歩カメラ用ならあまり気にすることはないが、連写で多くの枚数を撮るならマルチパワーバッテリーパックMB-D200が必須だろう。
②D610の3.2型液晶モニター(92万画素)と比較するとD200の2.5型(23万画素)は使いづらい。私がモニターを見るのはメニュー画面で設定を変更する時だけである。画像は自宅のPCモニターで確認する。撮影時はどう写っているかわからないので、ほとんどフィルカメラに近い。ライカデジタルには液晶モニターを意図的に装備していない機種があるようで、フィルムカメラ感覚に拘っているのだろうか。
③オールドデジタルD200に高感度性能を期待するのは酷である。私の使用目的では高感度は必要ないのでISO400までの範囲で調整している。
④最近のデジタル一眼に装備されているイメージセンサークリーニング機能がD200にはない。オールドデジタルなのでイメージセンサーにどの程度ダストがついているのか気になるところだ。

5)私はオールドニッコールをよく使う。描写力では最新のレンズに劣るかもしれないが、安価で写りがよい。シャープな写り、穏やかな写り、収差やフレアが目立つもの等、独特のクセや味わいがある。
フィルムカメラ用に設計されたオールドニッコールを、フィルムライクな描写をするオールドデジタルD200で使うとどうなるのか、これがD200を使うきっかけになった。日常の散歩写真がメインの私には写りすぎない写真で十分だからだ。

サッチモ(ルイ・アームストロング)が独特のダミ声で歌う「この素晴らしき世界」はなぜ人々の心に響くのだろうか。もしだみ声ではなく歌手的な美声であれば、もっと人の心に響くであろうか。貧しい地区に生まれ、差別の時代を生きていなければ、これほど人の心に伝わることはなかっただろう。だみ声は美声から少しズレている。貧困と差別の血はありふれた人生の血とは少しズレている。そういうズレは一種の歪み、濁り、矛盾、不条理の象徴であり、人間の存在(生き方)を歪めるものである。だが、そのズレはリアルであればあるほど人を惹きつけるような力を持つ。その力が美的かどうかは別として、人間の心はそういうものの力の作用には敏感である。

そのズレをオールドデジタルにそっくりあてはめることはできない。しかし、CCDという象徴によってデジタル時代を生きてきた「モノとしてのD200」が写真を撮る人を魅了するということは、D200に「モノにおけるズレ」が付随していると考えることができる。書くほどのこともないような「小さなズレ」だが、それに気がつけば別の世界が見えるだろう。

コマーシャルフォトを撮るなら最新のカメラやレンズが必要だが、日常を撮るのであれば安価なフィルムカメラや低画素の中古デジカメで十分ではないだろうか。撮る人の息づかいや撮られる人やモノの存在感が写り込み、却っておもしろい写真が生まれる可能性がある。私のささやかな願いは、最新カメラから少しズレたオールドデジタルで時々日常を撮ることである。そして、ズレたカメラD200で写りすぎない写真を撮ることは写真のひとつの楽しみ方になると思う。

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