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「食べるために働く」が取り払われたら

京都の猟師さんに会ってきた。

これは色々やってる仕事の中の一つ、オウンドメディアの取材だ。

このお方は世を捨てて山の中で生きることにした人、とかではなく狩猟採集によって得られる食べ物はそれで得て、それ以外のモノは多少働いてお金を得て購入しているお人。「都会と田舎の境界線に住んでいる」と仰っていたが、なるほど家の前までクルマで難なく行けるしコンビニ近いけどもそこは山の入り口で時期によってはクマが家を覗きに来るらしい。

取材した記事は株式会社インフォマートが運営するnote「Less is More.」に掲載したのでそちらをお読みいただきたい。


私個人のnoteではその取材を通して感じた「食べるために働く」について。

食べるために働くは当たり前のことだと思っていた。
食べていく為にお金が必要ということを疑っていなかった。それがこの取材を通じて考え方が変わった。

何が起きても食べていける自信

これまで家庭菜園や会社で借りている畑で野菜を育てて収穫して食べることはしてきたが、それで得られていた事は「野菜を育てる苦労を知ること」「土をいじる楽しみ」「採れたて野菜の味わい」などだった。

狩猟採集を生活の一部に溶け込ませている千松さんは、何が起きても最低限家族と食べることはできる自信が滲み出ていた(し、実際本人もそう言っていた)。

そういえば妻がいわゆる南国で暮らしていたことがあって、そこでは台風が直撃すると電気も水も何ヶ月もストップすることがよく起きてたそうだ。
でも海辺でBBQして過ごせば何とかなる、魚を獲れるし、朝晩冷えて凍えることもない、そこいらにフルーツもある。そんな「なんくるないさー」が自信、そしてその人たちの性格に表れていたそうだ。

食べていける自信は生き方・人柄に反映されているようだ。

京都の猟師千松さんは縛られるモノが無かった。
イイなと思ったら始めるし、これは自分の生き方として違ってたなと思ったら辞める。じゃあワガママで理不尽な人なのかというとそんな事は微塵もなく、猟師仲間もお金を得る仕事の仲間もいらっしゃるので社会性不要とは考えていないだろう。

そして、動物にしても草木にしても命をいただいて自分たちが生きていく事を日々していて、生かされている実感を強く持ってらっしゃると感じた。

genuine

本物、純粋、誠実を意味する「genuine」という言葉を昔から気に入っている。私が千松さんを一瞬で尊敬し好きになってしまったのは「genuine」の人だと知ったからなんだろう。

私は私の「genuine」を生きていきたいと思う中、狩猟採集生活にはとてもとても刺激を受けた。「率直」をモットーに生きてきてるつもりでもまだまだまだまだ縛られてるなぁ。

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