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yonige『三千世界』批評 晦冥への漂泊

仏教では、須弥山を中心として太陽、月、四大州、六欲天、梵天などを含んだ世界を一世界、一世界が1000個集まったものを小千世界といい、小千世界が1000個集まったものを中千世界、中千世界が1000個集まったものを三千世界という。

そんな仏教用語をタイトルに発表されたガールズバンドyonigeの最新EP(ミニアルバム)は、まさに三千世界を表現するアルバムだと感じた。

『健全な社会』でのバンドとしての転換

yonigeは2013年に結成された牛丸ありさ(Vo & Gt)とごっきん(Ba & Cho)の2人によるロックバンドだ。現在までに2枚のフルアルバムと5枚のEPを発表している。

初期の頃の作風はキャッチーなメロディと歪ませたギターを疾走感よく演奏するポップ・パンクで、牛丸が書く耳に残るキャッチーなメロディーとコミカルでワードセンス溢れる歌詞が若者を中心に人気を集めた。

2020年に発表されたアルバム『健全な社会』はyonigeにとって大きな転換点となった。サウンドはクリーンなものばかりになり、BPMも抑えられた一言で言えば「落ち着いた」作品になった。歌詞も恋愛についての歌詞は減り、日常についての歌詞が多くなった。牛丸本人もインタビューで語っているように「恋愛の歌詞に飽きてしまったため、恋愛を避けて日常のことを歌うようになった」作品が『健全な社会』だった。あくまで個人的な体験を歌いながら社会性を感じさせる歌詞、アルバム全体を通して多様な解釈が可能な深みのあるアルバムである。
アークティック・モンキーズがアルバムを出すたびに、メロウな作風に変わっていったように、yonigeも『健全な社会』以降「大人になった」と捉えることができる。

もう彼氏にアボカドを投げつけるとか顔で虫が死ぬとかいう歌詞を歌うバンドを脱却したと言える。それはそれで好きだけど。

『三千世界』で伝えようとしたこと

『健全な社会』の約1年後に発表されたEPが『三千世界』である。

このEPはアルバム通してのまとまりもよく、どの楽曲も完成度が高い。特筆すべきなのは歌詞の変化だ。恋愛でも日常のことでもなく、抽象的で難解な深層心理についてのものや社会風刺的なものが多くなった。

2曲目の「催眠療法」はケルト的ともオリエント的とも聴こえる民謡的なサウンドとコード進行を持つ楽曲だ。

催眠療法   作詞・作曲:牛丸ありさ

深い夜、怪しい催しにすがるのは
今に起こる悪いことを予知しているみたいだ
晴れ予報、死にたいとすら思えない僕は
好きなものをひとつも言えなくなっていた
途方もなく続く生活
床に置いた洗濯物、生乾き
とうとう人間じゃなくなった!
(以下略)

歌詞は厭世的で死の香りを感じさせるが、極めて難解であり単純な解釈を許さない。歌詞からは「生活」を感じさせる一方で「死」も同時に連想させる。


「催眠療法」の次に流れる曲が「わたしを見つけて」だ。

低音が聞いたクリーンギターのアルペジオから始まる曲であり、サウンド的な盛り上がりはなく、最後まで極めて落ち着いた曲と言える。

わたしを見つけて   作詞・作曲:牛丸ありさ

まさかりかついで山に出かけたら
こんなことするために生まれたんじゃない!
わたしをわたしと思っている間
落っことした骨を探す旅に出る
くだらないことで怒るのはやめて
映画館を開けて
スクリーンに映る誰かの人生に思うことがある

燃えるゴミだけが溜まっていく日常
ここにあるだけの命じゃ足りない!
未来の顔も知らないだれかさんに
わたしの骨を見つけてもらえますように
くだらないことに頭使わないで
劇場を開けて
波の音みたいな誰かの声に耳を澄ませて

この曲の歌詞も「生活」への不満を感じさせる。牛丸は、スクリーンに映る他者の人生に対して「思うことがある」とはっきりと宣言する。「思うこと」とは恐らく他人への憧憬や嫉妬というよりも、自分自身への不満である。

まさかりをギターの象徴だと考えた時に、続く「こんなことするために生まれたんじゃない!」という歌詞は自分自身の音楽への不満と捉えられる。

牛丸は「常に前の歌詞がコンプレックス。なんでこんな歌詞しか書けなかったんだろうって毎回思う。」と語っている。自分が書いてきた過去の歌詞に対して、常に不満を感じているし、音楽的な変遷から考えるに恐らくサウンドやメロディーに対しても「思うことがある」のだろう。

自分の過去の作品に対して「思うこと」があるので、落っことした骨=過去の作品を見つめ直す旅に出る。彼氏と喧嘩してアボカドを投げつけるような「くだらないことで怒る」ことやそれを歌詞にするような「くだらないことに頭を使う」ことに対しての皮肉を込めている。そんなふうに感じられる。

「わたしの骨」は牛丸自身であり、牛丸の作品である。それを「未来の顔も知らないだれかさん」に見つけてもらえるような作品を作りたいというのが願望が読み取れる。


「子どもは見ている」は社会風刺的な歌詞で、マイナーコードを使用した不穏な印象な曲だ。

子どもは見ている   作詞・作曲:牛丸ありさ

強い命が通る音が聞こえた
誰も救わなくても、大人になれた僕らは
二塁打が限界の星のもとに生まれた
森の中、誰かがこちらを覗いている

もうすぐおうちに帰らなきゃ
夕日が落ちたら帰れない

日めくりカレンダー
止まったままの6月
誰も教えないから、子どものままの僕らは
さよならの嗅覚は常にさえているんだ
森の中、街並みが変わるところ見ていた

遠くに響くはだれの声
ここにいるのはふたりなのに
もうすぐおうちに帰らなきゃ
夕日が落ちたら帰れない
のびる影がお化けみたい
ここにあるのは命なのに
夕日が落ちたらまた明日

子供から見た現在の社会のあり様、子供が大人によって消費され、放置されている。子供が大人に正しく導かれず、自らのアイデンティティを確立されずにただ時間のみ経過して大人になっていく社会。具体的に何を意識されて書かれた歌詞なのかは牛丸にしか分からないことではあるが、社会風刺的であることは読み取れる。


yonigeの「時間」と「空間」

『三千世界』を聴いて感じるのは、yonigeの「時間」と「空間」の感覚だ。

新型コロナの影響で、多くのライブが中止になり、多くのアーティストが配信のライブを行ったが、yonigeはライブ生配信をほぼ行っていない。YouTubeで公式で見られるライブ映像も他のアーティストに比べて少ない。

牛丸は「ライブの価値を下げる行為に加担してしまうかもしれないから配信はあまりやりたいと思えない」と語る。その結果「お金が稼げなくてもバイトで(生活費を稼げば)いい」というほどのこだわりようである。

本来、liveとはその名の通り「生」であることを指す、レコーディングされたものとは違う、その空間その時間でしか味わえない感覚がliveである。liveが好きな人間はこの「生」とライブ映像という「複製」の間にある感覚を感じたことがあるかもしれない。

20世紀のドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、複製時代の芸術作品からは「アウラ」が凋落すると論じた。アウラとは「同一の時空間上に存在する主体と客体の相互作用により相互に生じる変化、及び相互に宿るその時間的全蓄積」であり「われわれが芸術文化にたいして抱く一種の共同幻想」である。簡単な例を挙げるならば、オリジナルのモナリザの絵と全く同じコピーを並べられた時、多くの人がオリジナルの方に価値を感じるだろう。もっと身近な例を挙げるならば好きな芸能人に直接書いてもらったサインとそのコピーを並べられたら、たとえ違いが分からないほど似ていてもオリジナルの方に対して価値を感じるはずだ。このオリジナルとコピーの間にある「価値」が「アウラ」なのだ。

牛丸はライブで生じる「アウラ」を重視している。配信や収録された映像というシュミラークル(オリジナルとコピーの間)には存在し得ない「アウラ」を音楽の失われてはいけない価値として位置付けていると言える。

一方で「未来の顔も知らないだれかさんにわたしの骨を見つけてもらえますように」という歌詞から読み取れるように、その時間にはいない未来の誰かに届かせたいという思いもあるように思う。それはライブという表現形態ではなくてあくまでアルバムという表現形態においてであるが。

音は空気を通して伝わって消える。絵画や建築物のように残るものではない。録音技術が発達したことで繰り返し同様の性質の音を再生できるようになったが、それでも空気を振動させて出る音はその瞬間のみである。

音を未来に残すことを意識しているミュージシャンは意外に多くない。

相対性理論のやくしまるえつこは人類滅亡後のポストヒューマンに人類のいた痕跡を伝える「私は人類」という曲を作った。
CDでもレコードでも音声ファイルでもいつかは寿命があり、人類が滅んだらなくなってしまう。やくしまるは微生物シネココッカスの塩基配列を元に楽曲をつくり、それをDNA変換して再度その微生物に組み込んだ曲として「私は人類」を音源と遺伝子組換え微生物で発表した。(文系なので何を言ってるのか分かりません笑)

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やくしまるえつこ

牛丸も同様にポストヒューマンとまでは言わないまでも、自分の死後の人たちのことも考えて音楽を作っている印象を受ける。未来も意識しているから、自分の何げない日常や今の時代の空気を歌詞に盛り込んでいるのだろう。

「空間」と「時間」にここまで真摯に向き合っているアーティストというのはなかなか珍しいと思う。

牛丸が初期の作品で歌詞の題材にしていたのは恋愛や青春のことであり、『健全な社会』で題材にしたのは日常だ。
今回の『三千世界』で描いたものは上述のように「時間」「空間」、そして全体を通して感じさせる「死の香り」や「別れ」だと思う。
今作で牛丸はより自分の深層心理のようなものを表現したかったとインタビューで語っている。

コロナで空間的共有が制限される中で、あくまで三千世界という無限に近い宇宙を表す言葉をタイトルにつけたのは他者との距離や繋がりのあり方を考えたからではないか。
あくまで時間と空間を共有したライブにこだわり、ジャケットに「防ごう自粛化 守ろう若者」という言葉を描いてみせたのは、初期の作品からは考えられない極めて政治的なメッセージである。

そして空間的共有が制限されるからこそ、意識をより自身の内側に向けて、歌詞は難解さを増し、メロディもコード進行もサウンドもより深化していく。牛丸自身の「意識」の変化ではなく、これは牛丸の阿頼耶識に近いのだ。

仏教における8つの識、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識のうちの最下層にある阿頼耶識は7つの識を溜める蔵であって、あるゆるカルマが蓄積される。フロイトの言葉を借りれば末那識が前意識、阿頼耶識が無意識と言えるかもしれない。

自分の阿頼耶識にある社会や時間や空間や自我や他者に対する認識を手探りで探るような印象を『三千世界』からは感じる。

それは孤独で辛く先の見えない瞑想のようなものだ。「アボカド」や「リボルバー」のようなヒットは『三千世界』からは生まれないだろう。自分の中を抉ってそれでも理解できないものを大衆が理解できるわけもないし、しようともしてくれないから。これは多くの芸術家が通る道でもある。
ヘミングウェイやカート・コバーンやイアン・カーティスのように自ら命を絶つ者もいるし、ヒース・レジャーのように「飲まれて」しまうものもいる。ほんのひと握りの人たちだけが阿頼耶識に到達し活躍を続け、その他のたいていの人たちはその旅路をやめてしまう。

yonigeの深層心理への旅路はまだ始まったばかりであり、この先どうしていくのかは分からない。yonigeは真っ暗闇の瞑想の世界へ入っていったのだと思う。「意識」や「煩悩」から逃れて瞑想の世界へと進んでいくまさに「夜逃げ」なのだ。
この「夜逃げ」がなければこの最高なアルバムはできなかったと思う。

あえて陳腐な打ち切り少年漫画のような言葉を使うなら「2人の旅はまだ始まったばかり」なのだ。『三千世界』からはそんな印象を感じた。

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