10年代を象徴する映画は?(洋画編)

2010年から2019年の10年間が多様性と分断の時代だったということを先週書きました。今週は10年代を象徴する作品を紹介したいと思います。

『ソーシャル・ネットワーク』

デヴィッド・フィンチャー監督の2010年の作品『ソーシャル・ネットワーク』は、かつて彼が『ファイトクラブ』(1999)でゼロ年代の消費社会を予見したように、10年代の分断の時代を予見した作品でした。

Facebookの創業者であるマーク・ザッカーバーグの伝記映画です。この映画を観た時の最初の印象はちょっと風変わりな青春映画という印象でした。僕は当時中学生で、映画の知識もなかったからそう感じたのかしれませんが、大学生になってもう一度観ると全く違った解釈でこの映画を観ることができました。

以前書いたように、Facebookは人間関係を計量可能にし貨幣価値をもたらしました。それは人間関係を永遠に変質させてしまいました。それが決定的になったのは2018年の個人情報流失問題でした。流出した個人情報がケンブリッジ・アナリティカという会社に不正に収集、利用されトランプの当選やブレクジットに関わったとされた問題です。Facebookの利用者にある特定の偏った主張やイデオロギーを刷り込み、選挙を操作したのです。これはまさに社会の分断を煽ったということに他なりません。Facebook を含むソーシャルネットワークサービスは人の思考や人間関係を経済的、政治的な取り引きの材料にしてしまったのです。

デヴィッド・フィンチャーは早い段階でSNSが社会を分断させ、人々の思考を停止させる危険性を孕んでいることを見抜いていたようです。『ソーシャル・ネットワーク』は2010年に観るのと、2020年に観るのでは全く異なる見方が出来るはずです。フィンチャー監督の『ファイト・クラブ』が9.11以前と以後で人々に与えた衝撃が大きく変わったのと同様に。

人々の分断、人間関係の軽薄さ、目的の為に友を欺くザッカーバーグの行動がそのまま10年代後半のFacebookの問題に置き換えられるように、まさに10年代を象徴する作品でした。


『ラブレス』

2017年のロシア映画『ラブレス』は『裁かれるのは善人のみ』(2014)のみなどの作品で知られるアンドレイ・ズビャギンツェフ監督の作品です。『裁かれるのは善人のみ』でロシア政府やプーチン大統領を批判し、ロシア政府にだいぶ怒られたため助成金が出ず、自力で富豪などから資金提供を受けて制作されました。

離婚が決まっている夫婦の12歳の息子が失踪し、その息子を探す夫婦の姿を描いた作品です。しかし、両親が失踪した息子を探すという書き方は語弊があるかもしれません。なぜなら両親は息子を真剣に「探さない」からです。

この両親にとって息子は邪魔者でしかありません。お互い新しいパートナーがいるので息子が邪魔で仕方がない。失踪したのはまるで天の恵みです。自分たちのことしか考えていない夫婦はそのままロシア政府の隠喩です。ナショナリズムという自己中心的な愛を称揚し、兄弟国家のウクライナに侵攻し、警察や政治家やロシア正教会は腐敗し、指摘すれば暗殺される国家に対する批判を一つの家族の中に隠して描いているのです。

従来の家族の崩壊、大衆の右傾化、そしてSNS。『ソーシャル・ネットワーク』とは別の角度から現代に切り込んだ秀作です。


『パラサイト 半地下の家族』**

2019年制作、ポン・ジュノ監督の韓国映画です。主演はポン・ジュノと言えばこいつ、ソン・ガンホ。

韓国社会は日本社会と同じくらい先行きが暗く、根の深い問題があります。格差問題です。日本も韓国も急速に西洋化を果たした国です。西洋が自分たちの文化と合致するように作った資本主義というシステムに、元々の国民性や文化が違うのにうまく機能するわけがないのです。日本人は島国的性質からか、外のことに無頓着で、この状況でも日本は先進国で豊かな国であると思い込んでいるようですが、日本も韓国もアメリカ級の格差があります。富豪の社長がTwitterで1億円をばら撒いてそこに平民が群がるという目も当てらない酷い格差が存在しています。

前置きが長くなりましたが『パラサイト 半地下の家族』は貧困問題、格差問題がテーマになっています。ボロボロの狭い家に住み、wi-fiすら入らない貧困家族が一級住宅地に住む富豪の家に「寄生」します。

この作品は、豊かな者がどんどん豊かになり、貧しい者はどんどん貧しくなるという資本主義の構造をシニカルな笑いを込めて描いています。貧困は貧困を再生産するというのが社会学における定説です。貧しい者は大学に行けず、大学に行けなければ高収入の仕事にもつけません。更に不思議なことに多くの人は階層移動を志向しないことも知られています。イギリスなどを例にとってもらえば分かるように、多くの人は意識的、もしくは無意識的に生まれた階層に誇りを持ち、階層を自ら固定化してしまうと言われています。

韓国という国は比較的階層移動への意思が強い国民性であり、それゆえアジアでも特に強い受験戦争が行われています。しかし、通貨危機や解消されない財閥への富の集中によって、韓国の若者の間に一種の諦観が広まっている現実があるのです。人生の「プラン」を立てて、努力しても無意味であるという日本の若者にも共通する諦観です。この作品の家族も、努力してこの貧しい状況から抜け出そうという意識に欠けており、上流家庭に寄生して利益を得ようと企むのです。

ポン・ジュノ監督はこの作品について、インタビューでこう答えています。

「彼らは見えない線を引いていて、その線を越えた外の世界にはまったく関心を持っていません。たとえ目に見えていたとしても、線の外にいる貧しい人たちのことは、まるで見えていないかのように行動するのです。幽霊のように、いないものとして扱っているんです。この作品は、その見えない一線が越えられた時に起きてしまう悲劇を描いています」(Huffpost)

「努力した者には成功が待っている」「チャンスを掴めば幸せになれる」資本主義が唱えていた幻想です。ですが現実はどうでしょうか?貧しい人間には最初からチャンスがないかもしれません。努力をする者を嘲笑う人間が世の中に溢れ、自分たちより「地下」の生活を営む人間への差別や偏見が溢れています。見えない線は確かに存在し、越えようとする人間をお互い蹴落とし合い、それをうまく利用する1%の勝者が存在する、それが資本主義の現実なのでしょう。1%が線を引き「地下」の人間がお互い分断し合う現実。資本主義において弱者から搾取するのは1%の人間なのに、貧困へのルサンチマンは自分と同じ階層の者、より下の階層に向けられています。先程述べた1億円ばら撒き企画にしてもそうです。大企業は非正規雇用で安く労働者を雇い搾取しているのに、彼らに施しを貰おうと我先にと群がります。自分が上の階層に上ろうとか、社会の不均衡を正そうという意識は向かないのです。パラサイトは韓国だけの問題ではなく、日本にも溢れているのです。この映画は確かにコメディ的要素が強いのですが、僕は全然笑えませんでした。笑えない現実ですよ。

抽象的な話になってしまい申し訳ありません。この映画は現在公開中でネタバレ禁止令が敷かれているので抽象的な話に終始するしかなかったです...


いかがだったでしょうか、また分かりづらい駄文長文になってしまいました(汗)。オタクの悪い癖で話始めると止まらないのが出てしまいました...。本当は邦画についても述べたかったのですが、それはまた来週ということで!読んでいただけると恐悦至極でございます!!


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