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 例えば、「ある変化」が起こった時、その変化に対する肯定と否定が共存する「過渡期」なるものが必ず存在します。

 現代における変化の象徴の1つに「技術革新」があると言えるでしょう。私の祖母は大正生まれの98歳。その時代の人には、今の時代を想像することはまず不可能。彼女が生きている間に様々な技術の発展があり、今では私と月1回スマホでやりとりをしています。それは様々な過渡期を経て、その技術革新が世界に浸透してきた証拠だと言えます。

 今教育現場ではChatGPTに代表される生成AIとの向き合い方に関して様々な論争が巻き起こっています。教員側からすれば、児童・生徒の学習の質を下げるという懸念がある一方、彼らにとっては非常に便利な技術。最近では卒業式の冬至の文面もChatGPTが考えてくれる。生成AIは学校現場に浸透するのかどうかの「過渡期」を迎えていると言えます。

 『ChatGPTがもたらすのは、教育の「終わり」ではなく、教育の「始まり」。教育現場での禁止が一転、使用可能に』という記事を見つけました。

 記事の中ではまず教育者側の生成AIに対する懸念を紹介。剽窃、情報の信憑性などをあげ、ある国や地域では、その使用自体を禁止し、利用できないようにブロックしているそう。

 一方では今年の初めからChatGPTなどのAIを禁止していたニューヨーク市教育局が、管轄の公立校での使用を認め、教師と学生が共にAIを探求することを奨励・サポートすると発表。またロサンゼルス統一学区も、AIを学習に取り入れ始めるように、少しずつ教育界や社会が、教育の向上に役立つ可能性に目を向けるようになってきていると記事では書かれています。

 私はChatGPTは「学びの本質」を炙り出してくれるのではないかと期待してます。今まで大切だとされていたことが生成AIにとって変わることで、その危機感があるのかもしれませんが、本当はその逆。生成AIにとって替わったことは実はそこまで大切なことではなかったのではないかと。

 私たちは何かを行う上での「意図」と「目的」を把握する必要がある。その意図や目的は私たち一人ひとりの人間が主体となって行うこと。その意図と目的を明らかにして初めて、生成AIは機能するはずなのです。

 記事では、バージニア州ノーフォークにあるオールド・ドミニオン大学教育工学部の准教授、ヘレン・コロンプトン氏の言葉、

チャットボットによって学習に双方向性を持たせることに力を入れる。創造力を使ったり、ロールプレイをしたり、批判的に考えたりするように学生を導けば、学習は丸暗記よりはるかに意義あるものになるというのが、氏の考え方だ。例えば、ChatGPTに学生のディベートの相手役をさせる。ChatGPTから繰り出される無限の反論に、学生は自分の論点の弱い部分を見つけることができるというわけだ。

が紹介されています。

 ChatGPTに支配されるのではなく、その技術を使って、自分たちがやりたいことを手助けしてもらうという非常にシンプルな考え方が今こそ大事にされているのだと思います。

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