#587 国家のための教育か、国民のための教育か
富山県教育委員である牧田和樹氏の発言がニュースとなっています。
同氏は、2023年の欧州視察中に、同行した現役教員に向けて「社会の役に立つ人材、つまり子どもという商品の価値を高めて輩出するのが学校」と述べたとされています。この発言に対して県議会で共産党の火爪弘子県議が牧田和樹教育委員による発言を問題し、任命した新田知事に見解を問い質したとのことでした。新田知事は、「発言内容に問題はない」と返答したそうです。
明治維新を経て近代国家としての歩みを始めた日本は、日本という国を欧米列強から守るため、国力をあげることが必須でした。そのためには、いわゆる国家を支える「優秀な人材」を育てることが必要不可欠であり、だからこそ明治政府は教育に大きな投資をしました。その当時は、教育制度を作った日本の中枢には、「個人」よりも「国家」のための教育がその思想の根幹にあったように思います。
時代が進み、ある一定の豊かさが保証された私たちは、組織や集団という全体としての価値観に徐々に違和感を感じてきている。それは、社会が成熟した証であると共に、逆に組織や集団の価値基準が揺らぎつつあるからだと思っています。
そういう意味において個人的には、牧田氏の発言内容自体は、「ある意味正しく、ある意味間違っている」と考えています。
過去を振り返れば、教育は国家のためにあり、国家のための教育が結果人の幸せに繋がると言う価値観が実際にありました(今でも勿論存在するでしょう)。だからこそ、同氏が述べる内容自体が間違っているとは思いません。一方、教育は何のためにあるのかと言うのは思想の問題であり、2024年の現在に、彼の思想がどこまで通用するかどうかが、ポイントとなりうるでしょう。
国家のために国民が存在するのではなく、国民が安心して暮らすために国家があると言うのが私の考えです。国民がより良い暮らしをする上で、国家が必要ならば、その国家を守るためのことをしなければならないし、逆に国家がなくとも、私たちがより安心・安全で自由に暮らせるならば、国家の存続価値というのは必然的に低くなります。
教育の目的が「国家の繁栄」であるならば牧田氏の発言は合理的だし、その目的が「国民一人ひとりの幸せ」であるならば、やはり異論が出てくるだろうと。
そしてその二つは思想であるからこそ、客観性はない。
私は後者をとるけれども、、、、
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