#566 多様性を履き違える教育現場〜教育困難校の実態〜
恋愛に関してよく言われることとして
というものがあります。好きや嫌いという感覚は相手に対する心の反応であり、そこには「動き」が存在します。その動きは(時として非常に危険なこともあるけれど)、その人自身の中のエネルギーがあることの証明だと言えます。
『底辺高校の教師が激白】「したいことも、したくないことも全くない…」親ガチャより深刻な「子供たちの現状」』という記事を見つけました。
記事の中では、いわゆる「底辺校」と呼ばれる学校に通う生徒たちは、「生きるエネルギー」が不足していると教員は語っています。
今彼らの心の中で育っているのは「無関心」ではないかと考える。自分ではコントロールできないハンディによって、自分の生きる居場所を見失った彼らは、いつしか社会、他者、大人そして自分自身に「諦め」を感じ、それが「無関心の状態」を生み出しているのだと個人的には考えています。
どのような環境で生まれ育とうとも、ある一定水準の学びを担保することが公教育の役割です。しかし記事の中でも言及されているように、その実態は学びの機会均等を保障するどころか、かつての日本に比べ、格差は拡大し続けていく一方のように思えることもまた事実でしょう。
今、教育業界では「多様性」という言葉が生まれ、多様な尺度による様々な「学び」が必要とされています。その結果、学校以外の学びを重視する傾向になりつつあり、経済的に裕福な家庭や教育熱心の家庭の方が経験値を積みやすくなるという構図を生み出すのです。
今、学校は「多様性」という言葉を間違って認識していると個人的に感じています。様々な体験を増やす(それ自体が悪いわけではないのですが)ことに注視した結果、学びに必要なその「根本」をないがしろにしているのではないだろうか。
学びを進めていく中で大切なのは、自分と他者を大切し信頼し信頼する感覚や、学びによって自分自身を定義していくことです。今学校は学びによる「成果」にしか焦点を当てず、児童・生徒の「学びに向かう心のありかた」を蔑ろにしている気がする。
無関心とは最終的には「自分という存在の否定」、つまり自分を大切にする感覚の欠如に繋がります。そのような状態では決して「学び」に向かうことはできないし、そこに学校教育の輪切りシステムが発動すれば、自ずと今回の記事に書かれている学校の状態になってしまうのです。
当たり前の話ですが、学校はこの世の全ての学びを決して担保できるわけではないし、する必要もありません。この世には様々な学びがあること。学びは人を必ず幸せにすること。学びには自分と他者の尊厳を守る必要があること。そのような感覚を児童・生徒自身が持つことができる支援をすることです。
間違った多様性による教育によって、私たち自身の中の「無関心」を生み出し、結果誰も大切にできない人たちになってしまう可能性があるのです。