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 言葉とは面白いもので、例え自分が何気なく使った言葉でも、それが使う人の思想や考えを表すことがあります。

 生徒を伸ばすために良い授業をする

 これは、熱意を持った学校や塾の先生が思うことであり、その言葉の中に違和感も覚える部分はなさそうです。以前の私も、この言葉を常日頃意識して、自身の授業改善を繰り返していました。

 しかし、前職を辞し、今の仕事を通して様々な学びを得ることができた今の私にとって、「生徒を伸ばす」という表現が少し気になってしまう。

 勿論、その言葉は正しいとは思う。授業は児童・生徒の教科・科目の学びにとって、非常に大切で、その出来次第によっては、彼らの可能性を広げることも、逆に狭めることにもなる。授業者がより良い授業をすることは、彼らが学びを進めるための、必要条件であるという、職業的義務と責任を負わなければなりません。

 一方、「生徒を伸ばす」という表現は、授業の主体が、(無意識的にでも)教える側にあることを示唆するものでもある。授業者は「児童・生徒が伸びる」手助けをすることにその本質があり、また「生徒を伸ばす」なんてある意味傲慢であるという認識を、今の私は持っていたりします。

 プロ野球、中日ドラゴンズの監督、立浪和義氏が、成績不振を理由に辞任することになりました。同氏は、選手へのミーティングで

「3年間、ありがとう。勝たせてあげられなくて申し訳ない」

と述べたそうです。

「勝たせてあげる」という言葉には、「生徒を伸ばす」というのとなにか同じ感覚が見受けられる。彼自身の気持ちとしてはもちろん理解できるわけですが、彼の中にある、ちょっとした旧態依然の思想が現れている言葉とも捉えることができるのかも。

 全体の文脈を無視して、ある1つの言葉を切り抜くことは、意味のあることではありません。「生徒を伸ばす」にしても「勝たせてやる」にしても、その中に含まれる気持ち自体は、その職に対して真っ直ぐに取り組んでいるからこそだと思います。ただ、無意識的に使う言葉の裏に潜む思想が、実は、自分が達成したいことを阻む要素として機能していることもある。

 「生徒を伸ばす」と思っていた私は、決して生徒を伸ばすことはできませんでした。

 そこには、自分の奢りや傲慢さが存在していたからでしょう。

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