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#444 他律によって自律を失う私たち

 競争社会で生きる私たちは、常に「比較」の中で生き、その比較の中で自分自身の価値を見出す傾向にあります。

 今社会では「多様化」や「個性の尊重」というキーワードが出現していますが、その本質は、誰かと「比較」することなく、ありのままの自分を他者や社会に受け入れてもらうことを切望しているからなのかもしれません。

 一方、競争は私たちが何かをするエネルギーだと主張する人がいることも理解できる。彼らの論調では、おそらく「ありのまま」を許容することで、人は時に堕落し、努力の大切さを忘れていくことを恐れているのかもしれません。

 確かに、人は誰かと比較されるからこそ、何かを頑張るエネルギーになることもある。そのエネルギーは実は社会の強迫観念からくるものです。恐怖は即効性があるのです。学校現場において体罰などが容認されてきた背景には、その恐怖が人の行動をある一定方向に仕向ける力がある。この感覚は、家庭の中でも、ごくごく自然な形で行われていることも。。権威による「恐怖」による支配は、教育的観点からすれば、最も安易で最も創造性のない行為であると個人的には考えています。

 先が見えない“列”に並び続ける「私」の人間模様を通して、日本社会を風刺した作品『列』(講談社)の著者で作家の中村文則氏(46)がインタビューに答えている記事を見つけました。

 中村氏は、大勢の人が得体の知れない長い列に並んでいるけれど、自分がなぜ並んでいるのか分からない、しかも不思議なことにその列から脱出できないその歪さに着想得て、『列』を執筆。現代社会が持つ様々な「病」に対する彼の見解を記事の中では語っています。

 私の琴線に触れたのは、彼が政治に対して言及する中で述べた、「日本は自律を失い、他律で非常に怖い」という言葉。

 社会やシステムによって強制されたありとあらゆる精神的・物理的行為は全て他律だと言える。他律の中で生きることに慣れた私たちは、いつしか自分のアイデンティティーを失い、自ら考えて行動することができなくなるのです。

 教育現場ではいまだに社会の既存のシステム(=権威)の中に埋もれてしまう人が大勢います。それは教員も子どもたちも一緒。そんな彼らもまた「自律」を失い「他律」の中で生きているのかもしれません。

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