文献note: 抵抗の責任

以下のような関心の調べ物の続き・

Sangiovanni (2018)

Sangiovanni, A. (2018). Structural Injustice and Individual Responsibility. Journal of Social Philosophy, 49(3), 461–483. https://doi.org/10.1111/josp.12250

・ロールズ批判の説明がなされる。特に、単に無知のヴェールという想定が過度な理想化だということにとどまらず、それによって手続きがたとえ公正になったとしても、アウトプットが良くない。害の原因になるということを指摘していたのが記憶に残る。
・ヤングの構造的不正義の議論をグローバルな不正義(植民地の歴史・それによって国家や政府の仕組みが構造的不正義を維持するような形になっている)、女性の不正義の経験、障害の不正義の経験(特定の能力を普通にした社会で生きていく)を例に取りながら説明していく。
・最近の議論を取りまとめて、分類するというよりはロールズに対してのヤングの批判という流れがよくわかるという感じ。

Vasanthakumar (2020)

Vasanthakumar, A. (2020). Recent debates on victims’ duties to resist their oppression. Philosophy Compass, 15(2), e12648.
https://compass.onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1111/phc3.12648

 §2被害者の義務に対する2つのアプローチ
1、自己への義務 (自らのrational natureへの尊重や守ること、自らの福利への配慮)
2、他者への義務
・被害者が抑圧に無抵抗であることが、抑圧を継続させる一因となっている可能性がある。
・被害者は抑圧への抵抗の中で必要な役割を担う。
 §3義務の内容
1、内在的(抑圧的規範の否認や自己尊重)
2、外在的(コミュニケーション、証言)
 §4反論
1、要求が高い
note:これへの応答は、義務であるということの規範的な効果を調整するか、義務の内容を調整するかによって試みられている。
2、不公正、または搾取的である。
・抑圧によって既に負担を負っている被害者に対して、殊更に義務を課すのは特権的な人との公正をかく。
・特権的な人たちが、抑圧への抵抗の中で必要な役割を被害者に担うように強いるとしたら、搾取的に働かせている。
 §まとめ
・義務の内容が曖昧だと、行為指導性が導きにくい。
note: これが殊更に問題なのは、次に関わるが、非理想理論だからだろう。
・どう非理想理論なのかを明らかにすることは、議論を進展させる。

Hay (2011)

Hay, C. (2011). The obligation to resist oppression. Journal of Social Philosophy, 42, 21–45.

I. 自らへの抑圧への抵抗の義務
Thomas Hill 「従属と自己尊重」の議論を継承しつつ、若干修正して、カント的な議論から理性的な本性を守る protect rational nature義務が導かれる。
・Thomas Hillからの修正
1、Hillは従属という行為者間の相対的な関係に注目するが、Hayは抑圧に関心があるので個別の行為者の理性的な本性に注目する。
2、理性的な本性の尊重という態度だけでなく、それを保護するという行為の義務があると主張する。

II. 抑圧はどのように理性的な本性に危害を加えるか
私たちの実践的合理性の能力が損なわれる場合を明確性のために二つに分ける。1、damage to one’s rational nature :認識的
2、restriction on one’s rational nature:熟慮的

II.1 抑圧は自己欺瞞を引き起こしうる
・抑圧的な規範との間で自己イメージを維持するという課題が、自己欺瞞のインセンティブになる。
II.2抑圧は理性的な熟慮の能力への危害を引き起こしうる
・トラウマを引き起こすような暴力を引き起こしたり、抑うつの原因になったり、人の熟慮の能力を損なうような身体的な侵襲を引き起こしたり、人を道具化したりする。
note:しんどい話だ。lobotomizedという単語にドキドキした。(事例がビビットで読みにくいというタイプの論文ではないです。安心してください。)
・何かをするときに常に人に頼っている/頼らされていると、目的ー手段の推論の能力が育たない。抑圧が人を幼児化するとき、このようなことは容易に起きる。
・価値ある目的を選択する能力が抑圧によって損なわれることもある。それが生じる一つの場合が内在化された抑圧があるときで、これは抑圧された人がさまざまな選択肢からはじかれた社会的役割を内在化しているとき。また、内在化された抑圧は自己成就的に働くこともある。また、酸っぱい葡萄現象(適応的選好形成)を引き起こすこともある。また、自己価値の感覚を損なうこともあり、これによって自分自身を目的にし損ねたり、自分の将来の福利への配慮に失敗したりする。
note:抑圧の内在化は、実はサブ集合の議論。インシデントとかで書くものではない。
価値ある目的を選択する能力が抑圧によって損なわれる
←because 選択肢を生きたものだと想像したり理解しない
>抑圧された人がさまざまな選択肢からはじかれた社会的役割を内在化している(抑圧の内在化)
because→抑圧的な選択肢の制約(自己成就)・適応的選好・自己価値の損ないbecause→自己配慮の失敗
II.3 抑圧は意志の弱さを引き起こしうる
Lazyなどのステレオタイプを内在化し、それが自己成就した場合
いうべきだと思ってもNOということを内在化した欲求によって妨げられる場合

III スタンドポイント理論からの一つの反論
 抑圧を受けることによって、特定の知識についてはむしろ認識的な優位を得ることがあるというスタンドポイント理論と、ここまでの主張は反対するように見えるかもしれない。しかし、大丈夫。
・Wylieの普遍的な合理性というよりも、もう少し目的と文脈のある場面での合理性についての認識的優位を主張するタイプのスタンドポイント理論とは衝突しない。
・確かに被害者を信用しないという過去の過ちはあるしそれに接近する懸念はあるが、かといって危害を無視すべきではない。認識的な危害を認識しても、その後とることが選択肢は信用しない以外にもあり得る。つまり、そのような危害を無くそうとすることだ。

IV. 不完全義務と要求過剰の反論
 自らへの抑圧への抵抗の義務はあまりに要求過剰で、それは義務以上の行為なのではないかという批判に対して、その義務を不完全義務として考えることによって応答する。
・不完全義務とは、ある一般的格率、すなわち行為の原則を採用する義務である。これらの格率は複数の行為によって満たすことができる。したがって不完全義務には、完全義務にはない選択の幅がある。
・不完全義務には、自由裁量latitudeがあるということには論争がないが、どのような裁量が許容されるかということには論争がある。
・ここで問題となるのは、抑圧に抵抗するという不完全義務が、これら2つの異なる種類の裁量を許すかどうか、またどの程度許すかということである。
1、latitude in which action to take
不完全義務によって要求される格率を満たすために、特定の状況において様々な異なる行動方法の中から決定する裁量
2、latitude in refraining from action
ある特定の場面でその行為を行うか行わないかを選択する裁量

V. どの行為を取るかの裁量
・抑圧に抵抗するためにできることは色々ある。さまざまな運動に参加したり、抑圧的な実践からオプト・アウトしたり。これらは、抑圧への抵抗の外的な形態である。
・抑圧への抵抗は内的なものでもありうる。少なくとも理論的には、抑圧によって理性的本性が傷つけられないような人間になることで、理性的本性を尊重する義務を果たすことができる。
note: 理論的にはという留保が効いている。
・ときに、内的抵抗は被害者にとって可能な唯一の抵抗である。自分の状況について不正なことが起きていることを認識すること以上のことはできないということもあるかもしれない。
・内面的な抵抗には何か重要な自己尊重がある。この種の抵抗の可能性は、外面的な抵抗が熟慮に適わないものであったり不可能であったりする場合でも、抑圧に抵抗する義務を果たすためにできる行動があるという直観を捉えている。
・問題:多くの場合、誰かが内的に抑圧に抵抗しているかどうかを見分けるのは難しい。抑圧は、その内在化されるという特徴から、内的にしか抵抗していない場合に、抵抗の義務を果たしていると確証するのは難しい。義務を果たすことを確実にするためには、外的な抵抗を行う必要がある。
note: これは、本人にとっても確証が難しい。そして、この抵抗の義務が自分の理性的な本性を守ることに根ざしているからこそ、本人にとっても確証が難しいということが問題になる。第三者が義務の履行をチェックするというよりも、自らの義務への配慮に共に迷うようなビジョンで考えてやると、いい感じなのではないか。
・内的抵抗は社会的な抑圧を手付かずで残す。抑圧されている人は、抑圧されている集団の他のメンバーに対して、抑圧的な社会構造を容認しない義務があると考える十分な理由がある。よって、内的抵抗は、たとえ自分自身の理性的な性質を守ることに成功したとしても、抑圧された人が持つあらゆる抵抗の道徳的義務を果たすには通常不十分になる。

VI. 行為しない裁量
行為しない裁量はある。ただし、そんなに大きくない。
・抑圧によって傷つけられないように理性的本性を守る義務は、少なくともたまには抵抗をしないことを許容する。理性的本性は非常に貴重なものであるため、当然ながら慎重に、抑圧の侵食を蓄積させないように注意する必要がある。しかし、抑圧に抵抗しないことを続ければ理性的本性を傷つけてしまうような抑圧に対して、時折抵抗しないことは、理性的本性を守る義務と両立する。私たちは誰も、時折起こる抑圧のストレスに耐えられないほど脆弱な人間ではない。
・要は頻度の問題。抵抗することがあまりにも少なくて、理性的な本性が守れなかったらだめで、理性的な本性が大切で脆弱なものだということを考えると、行為しない裁量の余地はそこまで大きくない

行為しない裁量を支持する議論について。
・カントは、才能を伸ばす不完全義務はすべての才能を伸ばす機会を使おうとすると逆に才能が伸ばせないからというように、その義務を果たすためにこそ全ての機会では行為しない裁量を認めている。抑圧への抵抗の義務はこのようなものなのか?
・抑圧に抵抗する義務は行為をしない裁量を認めるべきだと考えることの魅力を最も強く動機づけているのは、間違った方法で抑圧に抵抗することが危険(あるいは少なくとも逆効果)になりうる状況が存在するという認識だ。しかし、ここで問題になっている裁量は、行為しない裁量ではなく、外的な抵抗ではなく、内的な抵抗を行うというどの行為を取るかの裁量である。この考えは、少なくとも内的な抵抗は裁量の余地がないという考えを示すかもしれない。しかも、内的抵抗をしていると言ってしまえる事例が極めて広範にあることを鑑みるならば、内的な抵抗もしない裁量があるという主張には、立証の責任があるだろう。
・抑圧に抵抗する義務が行動を控える裁量を認めるとすれば、この裁量を行使する人は、抑圧の害から理性的本性を保護する義務の重要性を認識する意思を持たなければならない。自分がこの義務に服し続けていることを認識しなければならない。そして、この義務を果たすために様々な行動が可能であり、たとえ特定の場合にその行動を取らないことを選択したとしても、その行為は良いことであると認識しなければならない。
・抑圧に抵抗する不完全な義務が、実際に行動を控える自由を許すような現実的なケースを見つけるのは極めて困難である。
・最後の可能性を一つ挙げてみよう。まず、誰かが抑圧に抵抗する義務があると主張するためには、彼女が抑圧に気づいていること、そしてそれが彼女の理性的本性に害を及ぼしていることに気づいていることが必要であるように思われる。では、そのような知識がない場合はどうなるのだろうか。そのような場合は義務の不履行が免責されるのであって、義務が消滅するわけではない。




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