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腸からレギオン《iquotlog:天才的一般人の些細な日常》

 感じる。ぼくのおなかの中で、文明化した雪男が、暖かい部屋のソファに寝そべり、テレビの音量を最大にして雪崩の映像を観ている、その音が響いてくる。
 便秘にお悩みの方には申し訳ないが、ぼくは今朝うんちがどっさり出た。畑でとれた野菜をいっぱいに入れたカゴを、よいしょと縁側で下ろしたときのように。その瞬間に「いま痩せた」と思えるくらいに。だから出社後の自分のおなかは、朝牛乳を飲んでそのままシンクに置いてきた空のコップのごとく、中には何もないはずなのだ。それなのに、感じる。こもった音響と出口を求める風の圧力。ことばにならない便意を抱えたまま、仕事が一区切りついたところで、消化器系の出口にある薄いプラスチックのマンホールが外れないよう、従業員用のトイレへのランウェイを歩いていく。しかしこれは下痢というような危急で病的な地獄下りではなく、健康な生という天国への階段をのぼりはじめるリズムなのだ。
 細菌、いや、最近、夫婦で「腸内微生物叢」のことを話題にしている。ぼくはみすず書房から出ている『これからの微生物学』という本を読み、人間やその他の動植物の、細菌との共生に感銘を受けていたところで、そして妻はもともと腸内細菌や発酵食品のことに関心があり、話せる相手を求めていた、そこでようやく二人の波長がシンクロするのである。

 ぼくはもともとサプリとか健康食品とかマイナスイオンなどの話題に懐疑的で、過去に岩波新書で『疑似科学入門』という本も読み、ふむふむ、そうだよな、と、安易に仕入れた科学的知見で人心をたぶらかすような商売には批判的だった。

 とはいえ、妻が疑似科学信者だったというわけではない。ぼくの反省すべきところなのだが、自分が興味をもって自分から情報に接するのでなければ、妻がどんなに科学的根拠を持って話していても、そもそもあまり関心を持てない領域というものがあったのだ。たとえば、その最たるものが「健康」である。からだによい食事、睡眠、姿勢、呼吸、運動、等々。からだとその健康こそ、精神の享受するあらゆる楽しみの基盤にあるはずのものなのに、そこに関心を払ってこなかったのが不思議だ。ぼくは筋金入りの霊肉二元論者だったのかもしれない。
 しかし知的好奇心に突き動かされて(大した知性の持ち合わせはないのだけれど、それでも)一般向けの科学書、特に生物学に関する本をいくつか読むうちに、自分のこころとからだとが、封筒と切手のようにひっつき合うようになった。そして、「こころとからだをひとつに」そう考えてこそ、この自己という郵便物を生へと、果てはやがて来る死に向かって投函する準備が整うのではないかと考えるようになった。
 『生命はデジタルでできている』というブルーバックスでCRISPR-Cas9のことを知り、もう少しよく知りたいということで細菌というものに興味を抱き、

『情動はこうしてつくられる』という本の一節で、腸が「第二の脳」と言われるほど、腸内微生物叢がこころのあり方に影響を与えている可能性についての記述に接し、

また『環境とエピゲノム』を読んでから、大好きだった(というよりただ習慣と化していた)コーラの消費を断ってみてしばらく経っていたこともあって、からだから自分を書き換えるという作業に、ぼくはますますこころを傾けるようになっていたのである。

 そこで生まれる妻とのコラボレーションである。長い間待って、待って、ようやく「からだと健康」に開眼したぼくに、妻は時を得たりと考えた。そしてはじまる納豆やオクラ、キムチに低温の味噌汁、そこに沈むとろろ昆布、大量のキャベツ、たくさんのしめじなど、妻の料理の大盤振る舞い。このタイミングで偶然にも出会う割と近所の生麹の専門店。ネットでサプリも購入され、そして昨日は茶碗に一杯の100パーセント麦ごはんをたいらげた。100パーセント手作り、韓国料理専門店のオモニのキムチとともに、である(神戸にある山下商店という店のキムチ。これを食べるとスーパーやラーメン屋で食べてきたキムチはただの薬品だったとしか思えなくなる)。
 新約聖書に出てくる「レギオン」という悪霊をご存知だろうか。ひとりの男に取り憑いて彼を墓場に住まわせ、我と我が身を傷つけさせていた大勢の悪霊を。そしてそれが追い出されたときに、代わりに乗り移った豚の群れが湖へなだれ込んでいく光景を。
 誰もいない、よかった、そう思って入った、人感センサーで照明のつく職場のトイレ。2つあるうちの1つの個室で、ズボンを下ろし腰掛けて解放されたものが、まさにその湖になだれこむ豚の大群のようだった。品がないので、擬音語では書くまい。照明がいっとき点滅したかと思われるほど、音姫ではとうていかき消すことのできないほどの音量が数秒間鳴り響いた。うんち自体は朝に卸していたのでほぼ出ない。霊は風にたとえられる。だから悪霊も風とみてよかろう。ほとんどが気体の激しい噴出だった。少しは雨やみぞれも混じったかもしれない。人がいなくて本当によかった。でももしかしたら今のガスは手洗い場の鏡に映ったかもしれない。という意味不明な懸念も抱く。だがとりあえず、これで腹部にわだかまっていた圧力は解けたか、よし仕事に戻ろう、と思いきや。
 一呼吸おくと、また次の豚の群れがなだれ落ちる。建物の火災警報の誤発報のように、鳴り止んでほしくても鳴り止まない。自動照明のタイマーが切れてトイレが一度真っ暗になった。誰にともなく手を振ってもう1度照明をつけた。ぼくは自分がこんなにも度量の大きい男だとは思ったことがない。いったい自分のどこにこんなにもたくさんのガスをしまう場所が? ぼくはイメージした。自分の腸の中の細菌達が祭りを楽しむように食物繊維に抱きつき、喰らい、踏みふいごを力いっぱい足で踏むありさまを。彼らの幸せな笑顔やうち震える鞭毛を。真理は人を自由にするという喜びと祭典の映像。少なくともウィルス由来の下痢をしてトイレに籠もらざるを得ないときの悲愴感とは真逆の世界観で、トイレの中の景色を見る。
 結局トイレから出るためには自分でここまでと区切らなければいけなかった。そのための儀式としてウォッシュレットを使う。
 しかしその後も自分のはらわたは活動を休めず、何次にもわたる十字軍のように、ぼくは仕事の区切りのたびにトイレへの遠征を行った。まるで神の導きのように、そのたびトイレには誰もいなかった。ぼくは幸い誰の命も手にかけることなく、安心してガスを解放することができたのである。
 昼休みには妻にラインで知らせた。
「おならの交響曲が鳴ります」
すると、
「おなら良かった!」
との返信。まるで演奏会の感想。その後、
「おならは私がみんなに菌を与えているせいではあるんやけど」
との追伸。そう、ぼくはそう思って腸内の万華鏡を思い描いていた。妻には感謝しかない。
 夕方には、
「私もおなら祭りです」
との便りで、妻とのシンバイオシスを実感。
 20時半ごろ、最後のトイレ入りを済ませて退勤。
「屁をこきながら階段をおりています」
と露悪的に書いて送ると、
「おならの理由は麦ごはんです多分」
と現実的な解答。
 芋を食べるとおならがよく出るという、しずかちゃんの例でよく取り上げられるシンプルな経験則を久しぶりに思い出した。なるほどね、食物繊維を取りすぎたからこんなにガスが出るのか。なんとなく少しがっかりして、家に帰ってから妻に聞くと、
「でも両方やねん。菌を与えてることも関係あるねん」
と妻が力説してくれたので安心した。
 そして再び麦100パーセントのごはんとともに、オクラやキムチやキャベツ、そしてたくさんのきのこの食事をとりながら妻と話をする。
 妻はこれまで長い間、耳を傾けなかった頃のぼくにも、発酵食品や食物繊維を意識してフィードし続けたこと。ぼくはぼくでそれまでの自分のあり方をやめることで、いかに多くの知識やものの見方に出会ったかについて。そして食事の間もおならをするのである。そのときも真剣な顔つきで話し続ける。食事中のうんちの話もおならの話も我が家の団欒においてはご法度ではない。それは健康に関わる話題なのだ。
 なんとなく、この文章は尻すぼみで終わりそうな気がするが、すぼめないといつまでもおならの交響曲がとまらない。おならが下品だと思われるなら、『麦秋』や『東京物語』などの代表作で知られる日本を代表する世界的な映画監督、小津安二郎の『お早よう』を観てほしい。それから『秋刀魚の味』などで小津映画円熟の芸術を味わってほしい。

「生まれ変わりは食事から、」
とぼくがいいかけるとき、妻は
「そう!」
と力強く合いの手を入れる。
 たとえ自分一人で到達したと思った場所でも、そこで既に待っている人を見つけることがある。妻がいなければきっと、ヒントを持たないぼくは道に迷ったまま、人知れず解放できないレギオンを抱えてうずくまっていたかもしれなかった。

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