機動戦士ガンダム水星の魔女 最終回を見ました。

 最終話を見ました。

 水星の魔女シーズン2、文句なしの0点でした。テーマだけを抽出したときでも、この醜悪な家族観の描き方は批判されて当然のものであるとさえ思う。

 本来、ぼくはマイナス方面で単一の作品に言及することはあまりないのだけど、こういう作劇を絶賛する意見ばかりがあるというのは耐えられないし、傾向や風潮としてもよくないと思うので、はっきり思うことを書きます。

 シーズン2、気が遠くなるレベルでつまらなかった。あの途中の難航を見るに、おそらく脚本を筆頭に製作陣も自覚していただろうと思うが、それでも最後に出したのがこれであるのなら、不憫とは言えない。とくに脚本の詰まりを感じたのはグエルの回の前後だったが、それも理屈にかんしては納得がいく。インターネット人気に引きずられたグエルというキャラクターを無駄に引っ張った挙句、突然に憑き物が落ちたことにして人格を虚無に帰し、便利な操り人形に作りかえたあたりは醜悪とさえいえた。

(脱線だけど、あのごく適当な文脈となると、もはやガンダムにおいてフェンシングをやることの烏滸がましさまで感じた。1stガンダムの最終話と、すべてのガンダムの終わりであるターンエーガンダム最終話が剣戟だぞ。あまり安易にレイピアを取り出すんじゃないよ)

 シーズン2は気が遠くなる、というかなんなら気分が悪くなるほどだった。ぼくは人間のドラマを舐め切ったような話が書かれると本当にイライラするからやめてほしい。いやなら見るなという話もあるし(まあ、これも一種の詭弁ではあるのだけど)、たしかに本来なら気分が悪くなるくらいの作品は途中でみるのをやめるから自衛できるんだけど、ガンダムという冠でこれをやられるとガー不の技になる。

 シーズン1の11話まではよかったと思う。そこまではこれからの広がりと散りばめまくったモチーフの回収に向かうんだろうなという期待で毎回楽しく見ることができた。実態はなにひとつやらないまま(水星の魔女は誇張抜きでなにもしていないアニメだ)、最後に祝福を流して終わったことにした。

 話の流れが明確におかしくなったのはシーズン1の最終話からだと思う。スレッタがプロスペラに対し、反抗したり疑念を覚えたりする描写がところどころに描かれたシーズン1の最後に、プロスペラのごく簡単な言葉でスレッタが人間を叩き潰すことにして幕を引いたわけだけど、まずそれがおかしい。そういう洗脳教育を受けているのならば途中でそうとわかるように描けばよかったものを、わざわざそうではないように描写しながら、最後にはキャラクターの人格を殺して、話題性のためだけにああいった行動を取らせた。

 その病理はおおよそ見当がつく。水星の魔女の総集編でさんざナレーションが言っていたように、このアニメはセンセーショナルな反応を求めて、いうならばただ一時のバズを求めて、個々のキャラクターに無理な行動をさせている。ようは、この話にはクリフハンガーしか存在していないのだ。「なんとこのキャラクターがこんな意外な行動を!」の連続で話題性を作ってどうにかしようとしていたが、それは話の一貫性を乱すどころか、尊重されるべきキャラクターの人格をみずから破壊する行為にほかならない。そうした一時の話題性に手を伸ばし続けた結果が、このシーズン2のバカのように取っ散らかったキャラクターたちの行動原理だ。まかり間違っても、キャラクターというのは作家が好きに動かしていい所有物ではない。
 もちろん、話を終盤に向けようというときに、急激にキャラクターのIQを70に落として無理やり解決を図るというのも許されることではない。お前のことだよ、シャディク・ゼネリ。

 大きなテーマでいうなら、作中で唯一ちゃんとやろうとしていた親子というお題を見たときに「どんな毒親だろうとも親が親である以上は子に愛される」という最悪な結論を叩き出したのが本当に気色悪いと思う。もともとぼくがサーガを筆頭に家族譚が好きだからこそ、こんな依存をすばらしいものかのように扱っている最終話の気持ち悪さには閉口した。あれだけのことをやったプロスペラの最後はまっとうに罪を雪ぐではなく、気の抜けた表情で車に乗る姑として余生を過ごすことである。

 このアニメは親がみずからの意思で大量殺人をし、殺人を超えた犯罪の未遂を犯そうとしていたにもかかわらず、「それでもお母さんのことが大好きなんです」とDVを受けている娘が言えばすべてまかり通ると思っているのか? それを本当にうつくしいものだと? 殺人云々はおいておいたとしても、DVを働く親は、子どもから親に対する感情の善悪はともかくとして、第三者の手によって正当に判断され、行政的に処理されるべきものだ。それを身内だからという理由でなぁなぁに済ませることさえもよしとしているという、なにひとつ賛同できない終わり方を迎えてしまった。
 親の呪いを解くどころか、大人たちの責任をかぶるのは子どもたちという救いようのない結末。クワイエットゼロの罪をこどものシャディクが背負ったことについて「当人が決めたことだから」と納得する人間は、ひとの親にならないほうがいい。

 それともプロスペラが地球で好き勝手やって大量に人が死ぬ抗争を引き起こしていたのって視聴者の幻覚だったのか? ぼくの幻覚だったのかもしれない。だって幻覚じゃないとおかしいしな。

 ぼくはこれほど不愉快に思っているのは、ガンダムという大きなタイトルを借りたうえでやっていることが、おとなの無責任さと、不利な立場にある子どもたちに責任を押し付けることを容認したアニメだからなのだと思う。とくに本家本元の富野監督が、劇場版Gのレコンギスタという名作を撮ったあとなので、この対比がきつい。

 ともあれ、個別のテーマを見ていっても気が遠くなる水星の魔女だが、ともあれぼくがいちばん嫌だったのは、その徹底的な「小ささ」だった。世界観の矮小ぶり。これは歴代のガンダム作品でいっても、ほかに例がないほどの小ささだと思う。

 プレイステーション時代のアドベンチャーゲームかというほどにステージ数が少ない。学園と、地球のレジスタンスたちの基地と、いくつかの宇宙船。水星の魔女が描いたのはこれだけだ。なんとおどろくべきことに水星さえ出てこない。プレステのゲームのほうがまだステージ数が多いくらいだ。

 これがなにを意味するかというと、サイエンスフィクションが描くべき、この世界の人々の文化的な生活や奥行きといったものがほとんどまったく現れなかったということだ。結局ベネリットグループの外がどうなっているのかわからず、地球以外の惑星がどうなっているのかもわからず、クワイエットゼロの計画が実現していたとして、それがのちにどのような変革をもたらし、どの程度の強度で安定させられたのかさえも、なにひとつわからない。ベネリットグループ以外の軍組織、行政、警察機構がどうなっているのかもわからない。最終話まで見ても、あの世界についてはほとんどなにもわからないままだった。

 こんな適当な話を書いてもおもしろがってもらえるならわざわざ人間が苦悩して劇を書こうとする意味はなんだ?

 アーシアンとスペーシアンという概念があって、その両者が対立しています、という設定だけ呈示すればなんとなくガンダムっぽいものとして捉えてもらえるだろうと製作陣があぐらを掻き、その中身が信じられないほど描かれなかったとしても、大半の視聴者が主人公とヒロインが最後に指輪をはめていたら笑顔になるんだとしたら、はやくすべての脚本はAIが書いたほうがいい。

 安心しろ、ヒロインには人格がなくても大丈夫だ。自分を騙し、自分の目の前で基地内の構想を引き起こして大事件に変えた人間が義理の母親になっても、その嫁(婿か?)が「でもお母さんが大好きなんです」とひとこと言えば丸くおさまってスーパーチャットが投げてもらえるなら、脚本家の仕事は近いうちにすべて取って代わられる。

 ちなみに、ぼくは水星の魔女シーズン2最終回は最終話ではないという読みに全ベットをしていた。なぜならこんなガンダムがありえるはずがないから、サプライズでSEASON3に繋げるものだと信じ切っていた。

 ただしそうだとしても、ぼくたちが第1話や第2話の時点で幻視していた、学園編からはじまって企業戦争に移行し、世界を広げていきながら、最後には地球でうつくしくテーマを回収していく水星の魔女の姿は、もうすでに跡形もなかったわけだけど。魔女という強いことばをタイトルに選び、わざわざ決闘の文化がある学園を用意したにもかかわらず(無論、未来の宇宙に生きる彼らがどうしてそのような文化を獲得するに至ったのかはいっさい説明されない)、ただ単に元ネタをテンペストから引っ張ってきただけで、なにひとつモチーフとして反映させられない話であるとわかっていたのなら、そうした幻想も持たなかっただろう。

 まさか魔女要素の回収が「箒みたいに見えるビームライフルを持っているMSが出てきます」だけで済まされるとはだれも思わないだろ。ぼくは思わなかったよ。

 というか、令和の時代に合った視聴コンテンツを作る気なのだったら、はじめから「※この話にはモチーフも意味も存在しません」とタイトルの下に但し書きしておいてほしかった。そうしたらさすがのぼくもガンダムといえど視聴せずに済んだというのに。

 ちなみに、ガンダムというのは評価軸の多いシリーズで、これだけ文句を書いておきながら、それでも「このMSがめちゃくちゃよかった」「この戦闘宙域の書き方がよかった」という点があれば溜飲が下がろうものなんだけど、それさえも基準に満たなかったのがつらい。水星の魔女でかっこいいと思えたのはファラクト戦で初めてエアリアルのなかに人格があると明かされた、こどもたちが笑っているシーンだけでした。あそこはぶきみで本当によかった。

 キャリバーンもデザインじたいは好きだけど、それ以外のデカすぎる黒ずみを消せるほどのクリーナーにはなれません。ガンダムバルバトスルプスレクスとは違うよ。水星の魔女でいうなら「プロスペラが最後にどんなグロいモビルアーマーに乗るのか」というのは1話時点で話していたから、そういう部分次第だったけど、もちろんこれもなにもありませんでしたね。

 なお、ガンダムシリーズに新たな血を採りいれようという水星の魔女の試みじたいはもちろん評価している。ガンダムってむずかしそうだけど見てみようかな、と高校生たちに思わせるパッケージにしたというのはとても偉い。問題は中身がゼロキロカロリーの寒天ゼリーだったことだ。

 水星の魔女の最終話を見ることがこわくて、昨夜はガンダムサンダーボルト DECEMBER SKYを再視聴した。10回目くらいの視聴だったけど、心の底からおもしろかった。

 サンダーボルトの間口がもっと広くなっていたらどうなっていたのだろう。プロスペラがろくに裁かれず、まわりの人物もそれをよしとしている世界を見せられても、これがハッピーエンドなのだと納得できる視聴者たちなのだったら、最後にア・バオア・クーの戦闘宙域が映ったときのBGMが、ダリルのものでもイオのものでもなく、アシッドの入った独特のジャズになっていたことの意味も、その価値も、だれも気づかないのかもしれない。

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