とって変わるもの
まなまる(永藤 まな)
(ピアノタレント)
AIというものが認知され活用されるようになった近年,提起されることが増えてきた,「人間の仕事はAIにとって変わられるのか」という問題.スーパーやコンビニのレジはセルフが主流になり,無人の店舗なんかもある.
ファミリーレストランの配膳は陽気な音楽とともに可愛いロボットがテーブルまで来てくれる(可愛いというのは私の主観ですが……笑) .ネット上ではいわゆる”絵師”とよばれる方々がAIに職を奪われる!と嘆いているさまをよく見かけます.AIが描いたキャラクターを採用した企業のCMにさまざまな業界から賛否の声が上がったのも記憶に新しいでしょう.例を挙げればキリがないほどに,技術の進歩と発展は素晴らしく,さらに人の手や思考を脅かすほどになっていることがうかがえます.
そんな現代において,私の身近に強烈にアナログを感じるものがあります.何百年も前の人の手により紙の上に無造作に並べられた黒い玉が,人の手によって残され,それらを人の手によって演奏する「クラシック音楽」です.諸説ありますが,19世紀頃までの西洋音楽を指します.私自身4歳から音楽大学卒業まではクラシックピアノを主に学び今に至るので,切っても切り離せない存在です.
ではクラシック音楽において,AIにとって変わられるものはあるのでしょうか?
「表現」という視点から考えてみましょう.「表現」というのは「演奏する」ということです.クラシック音楽を学び演奏する過程では,楽譜に記されている音符や記号からその何倍もの情報を読み取る必要があり,それらを演奏者一人ひとりが解釈することにより,独特の息遣いや揺らぎが生まれ,聴衆はそこに感嘆の声を漏らすものだと私は考えます.
ホテルのラウンジやレストランで自動演奏を奏でるピアノを見たことはあるでしょうか? 人影もないのに鍵盤が素早く上下するさまは,幼い頃から今になってもソワソワドキドキさせられます.ただ,こと演奏という点においては心を動かされることはあまりありませんでした.鍵盤を押す,離すは再現できても,微妙なニュアンスや熱量までは再現できてない.同じように,今は楽譜を読み込めば完璧に再生してくれる機器やアプリが数多くあります.しかし音の羅列されたデータを読み込まれただけのそれは,息をしないものにとって息遣いを表現するのはやはり難しいのだと感じざるを得ません.
しかしそれらも今は昔の話で,事実,その息遣いや微妙な鍵盤のタッチ,我々が心地いと思えるような揺らぎまでをも再現できるものが完成されようとしています.長くクラシック音楽に触れていた私としては,偉人たちが作曲した音楽が現代まで語り継がれ,演奏され続ける理由は,人が人の手によって,人が再現することで生まれる演奏があってこそのものだと,そう思いたいのですが,それも数年後にはどうなっているか分かりません.
さて,我々アナログな人間はデジタルやAIの進歩とどうお付き合いをしていくべきなのでしょうか.手を取り合っていくべきか,はたまた「迫り来るもの」として対峙しなければならないのか.
私は……できれば共に未来を語り合いたいですね!
(「情報処理」2024年5月号掲載)