出来たことより、出来ていることに目を向ける


結果ばかり気にして
ついつい、出来たか出来なかったか。
という視点で物事を見る癖は
変わりづらさがある。

子供が10年前に発達障害と診断されて
頭をバッドで殴られたような衝撃。

もがきながら色々な方々からのアドバイスで
教わった子供の関わり方の一つに、
出来たことを認めて褒め褒めシャワー
するというもの。

出来たことを認める、褒めるで
長い間上手くいっていたと思ってたけど
それは結果次第で自分の評価を
上げ下げするものになっていて
余計に結果を気にして
元々の性格とあるけど
緊張しやすい子供に
してしまったかなと反省している。


自分自身もそうだ。


生きていくにはどうしようかと
考えたとき、

出来ていることに目を向け認めることは
力になると感じることが増えた。

落ち込んで、自己肯定感が低くなった時に

とっくに死んでてもおかしくない
くらい大変な状況の中、耐えて
一歩一歩頑張ってきた自分は
生きているだけでよくやっていると思う。

中途半端で途中でやめてしまったり
継続することが難しい私だけど

子供達を育てることは何とか
やってきたこと。

人の愛し方がわからない母親に
諦めず、そういう大変な母親なんだと
理解し続けてきていること、

学校に行かない、行けない子供でも
いいと思い続けていること、

生きている、ということを
自分によくやってるじゃないか、と思う。

自分だけじゃない。

隣の家の人も、顔見知りのお付き合いの人も
みんな生きている、ということを
頑張っている。

そこまでわかっているのに

自分の出来ているところを
わからなくなってしまうのは
自分への求めるものが大きすぎる。
私に厳しすぎる。

私の一番恐れていて、不安を感じる人は
自分なんだ。

一番のライバルであり
一番傷つけるのも自分自身。

今日くらいは
自分に優しく
今日という時間を
後悔ないように
したいことをして過ごそう

そう思っても
今日もひと目を気にし
お財布の中身を気にし
自分の世界にこもったり
占いを見ては
絶望してみたり
希望を見出してみたり
一喜一憂する1日。

こんなことばっかりやっている
自分も周りに生かしてもらっているし
私もどこか何か人を生かしていて
おかげさまで生きているんだろう。

特別な何かを出来ることは
ないかもしれないし

出来た!という成功体験は
あまりわからないけど

出来なかった、
という経験談だけは妙に自信を持っている。



できなかったという経験をすることは
出来ているし、
貴重な経験を出来ているのかもしれない。

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