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【長期インターンシップ】京都のBaseconnectという会社で、僕が得たもの【1万字】

(この記事はすべて無料で読めます)

2020/08/15追記
僕のBaseconnectでの取り組みを、インタビューして頂きました!こちらもぜひご覧ください!


あれから、1年が経った。

早い、早すぎる。

Baseconnectでのインターン経験が、2年目を迎えようとしている。

このnoteを書いたときのことを、今でも鮮明に覚えている。

天気のいい、春の日差しが気持ちいい日だった。

桜は遅咲きで、4月7日なのに見頃を迎えていなかった。

船岡山のベンチに座って、京都市内を見渡しながら、小さい子たちがわいわい遊ぶのに囲まれながら、このnoteを書いていた。


あれから1年、何をして、何を得たのか。


Baseconnectにいる、一個人の「告白」として、読んで欲しい。

1万字とちょと長いですが、これまでの人生で最も気合を入れて書いたので、ぜひ。


0.はじめに

僕(大島伊織)は、Baseconnect株式会社のDMFという部署で長期インターンをしている。現在は同志社大学を休学して、ここで働いている。

Baseconnectについてはこちらを参照して欲しい。現在のメインサービスは、法人営業を支援する「Musubu」。

DMFはData ManuFactuaringの略で、Musubuに使われるデータの製造を行う部署にいる。部署の詳細については、同じ部署の高木さんが書いたノートを参照して欲しい。

世間一般的なインターンシップで経験するのは、セールスやマーケティング、エンジニア職だと思う。

しかし、自分は「データを製造する」という一見何をしているのかよくわからない部署にいる。
また、社員4名、アルバイト300名、在宅のワーカーが1,000名といった少し?かなり?特殊な構造をしている。

そんなDMFで、自分が何をして、何を学んだのか、(会社に不利益が被らない範囲で)出来るだけリアルに伝わるように書いてみたい。
僕が話を聞く限り、おそらく、ここまでの経験を出来る会社は関西にはきっと無いと思う。

じゃ、書いていきます。

1.鬱になりました、2回も


「いきなり何を言い出すんだお前は」


と思われるかもしれないが、この1年で2回、僕は精神を病んだ。世間一般に言う、「適応障害」というやつだと思う。(僕は過去の経験から精神科を信用していないから、本当にそうだったかは知らない)

この記事の冒頭に、1年前に書いたNoteを載せた。このとき僕は、次控えているプロジェクトに対してこう思っていた。

「僕の経験からして、出来ないことなんてあるはずがない」
「過去作ってきたデータと比べれば、今回のデータなんて簡単」
「さくっとプロジェクトを成功させて、次々新データを立ち上げていく」
「Baseconnectで最も優秀なインターン生として名を馳せる」


(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)(笑)


青かった。あまりに青かった。何も知らなかった。
ビジネスの厳しさを何も分かっていなかった僕は、4月半ばから2週間ほどプロジェクトのオーナーとして参加した結果、GWで精神的に病んだ。

お酒に例えるなら、ほろ酔いしかまだ飲んだことがない女子大生が、いきなりウォッカのボトルイッキを始めるようなものだったのだろう。

実際、僕は過去自分が発揮したリーダーシップで、失敗した経験の方が少ない。ほとんどのリーダーシップで成功してきたし、周囲からも称賛されてきた。そういう自分が当たり前だと思っていた。


しかし、この「ビジネス」という場所は完全にフィールドが違った。
厳しい。あまりに厳しすぎた。僕にとっては難しすぎた。


潰れた理由は、大きく分けて3つある。
- 1.マネージャーと言う言葉に潰された
- 2.未知部分が多すぎた
- 3.優秀なメンバーを全く巻き込めなかった。

「プロジェクトマネージャー」という、聞こえの良い響きに潰された。これはもう、そのかっこいい名前と響きに酔っていただけだ。
実態の伴わない役職名ほど、自分にとって空虚なものはないと感じた。

また、本当に知らないことが多すぎた。前提知識として抑えておくレベルのことで躓きすぎた。
それなのに、聞いても、調べても、全く頭に入ってこない。知識が血肉にならない。アウトプットが積み上がらない。
そんな悪循環のループだった。

さらに、優秀な周囲の巻き込むべきメンバーを、全く巻き込むことが出来なかった。
「マネージャー」としての立ち振舞が分からず、一つもタスクを振らず、自分で抱え込みまくっていた。


何も手が付かない。

思考が回らない。

5月なのに異常に体が寒い。

オフィスに行くのが怖い。

行っても出来ないやつと思われる。


その結果、勝手に一人で抱え込んで死んだ。そこから1ヶ月、ニート生活だった。
ずーっと家で寝て、ほとんどご飯も食べないで、気分が良ければ夜ふらっと散歩に行って、家に戻る。そんな生活を1ヶ月続けた。

「自分をこんなふうにした会社が悪いんだー!」などと会社批判がしたいわけでは決してない。

むしろ、この後きちんと復活しているので、会社とDMFのメンバーにはとっても感謝している。

僕は、本気でこの一連の全てを「自分のせい」だと思っている。
本当に自分の悪いところばかり出た、そんな初のプロジェクトマネージャー経験だった。

はい、これが1回目。

次、2回目。


「お前また病むんか」


はい、そうです。
前回病んだのが、2019年5月。2回目は、2020年2月。

1年も持たなかったことに、自分が1番びっくりしている。

2回目は、正直自分でもよくわかっていない。そんなに大きなプレッシャーがかかっていたわけでもないし、合理的に自分の中でPDCAも回せていた。

その中でもし挙げるとしたら、今回も3つある。
- 1.事業の意思決定に関わっている
- 2.マルチタスクで、優先順位をつけるのがむずい
- 3.前PJの疲れが抜けきっていない

以前と役割が異なって、現在動いているプロジェクトの予算決定やリソース配分と、自分が持っているプロジェクトのマネジメントをしていた。
以前よりはそもそも仕事の質が違うので、ストレスだったのかもしれない。

また、上記と重なるがそれらがマルチタスクで降ってくるので、自分なりに優先順位をつけるのに苦しんだ。
マルチタスクに対するテクニックはいくつか持っていたが、それでも現場で実践するのは難しかった。

さらに、後述するプロジェクトの疲れが抜けきっていなかったのもあると思う。逆に、そこで潰れなかったのになぜその後で潰れたのか、ぶっちゃけよくわからん。

このときは3週間くらい、全く仕事に手がつかなくなった。症状は以前と一緒で、同じように家で伏せるか散歩するかだった。

2回も勝手に居なくなって、2回戻れている自分が逆に怖い。

ただ、確実に言えるのは、周囲の協力のおかげで今の自分があるということだ。
戻ったときは手厚くサポートしてくれるし、次同じことにならないよう、タスクの調整も一緒にしてくれる。

「なら早めに相談せえや。」という話で、もちろん分かってはいるんだけど、なかなか出来ていない自分がいる。
今までよりは、確実に周囲を頼れるようになっているのだけれど。

今は、元気にData Portalを使って可視化したり、後述する人事の仕事をしたりしている。
DMFのインターンでは役割が固定化されていることはあまりなく、常に役割が移り変わっていく。


この「変化」「曖昧さ」に対して、2回自分が病んだ経験は、どちらも自分をアップデート/自己変革させる機会だと捉えている。


限界を超えないと、見えないものがある。
それは、本で読んだり人から聞いたものとは明らかに異なる。

それをこの大学生という期間で経験できたのは、自分にとって大きなプラスだと捉えている。本気でこの2回の経験を「良かった」と感じている。

もしこれが、新卒だったらどうか?
新卒でニート化するのと、学生の間にニート化するのとでは、ハイリスクなのは明らかに前者だろう。

これだけ努力して、高い壁にぶつかる経験は、この会社でないと間違いなく出来なかった経験だと思う。

最後に、こんな僕を認めてくれている会社、DMFのメンバーには本当に感謝している。復帰できたのは皆さんのおかげ。ありがとう。


2.N百万の売上を、君に任せた

1回目の適応障害から復活し、徐々に自分のパフォーマンスが戻ってきたくらいの時期だった。
ちなみに、1ヶ月休むと元のパフォーマンスに戻すには3ヶ月かかるらしく、僕も同じくらいの期間が必要だった。

僕自身、そろそろもう一度アクセルを踏みたい・・・!
そう思っていたとき、DMFのマネージャーから声をかけられた。


「いおりくん、このプロジェクト、やってみない?」
「N百万の売上が上がるプロジェクトで、コストはM百万までで抑えたいんだけど」


ドキッとした。そう思っていた矢先だったからだ。
正直怖かった。またぶっ倒れるんじゃないかと、やはり頭によぎる。


でも僕は、決めた。


「やります。」


理由は2つ。
- 1.なぜ前回ぶっ倒れたか分かっているので、次は大丈夫という自信
- 2.次こそ絶対にプロジェクトオーナーとして成功させたいという強い想い

さすがに1ヶ月ぶっ倒れて、何も学んでいないわけはない。この失敗は再現性のある失敗なので、抑えるところを抑えれば大丈夫だと確信していた。

また、リベンジがどうしてもしたかった。
僕の経験で、最も大きな敗北を刻んだ。あの過去に、どうしてももう一度挑みたかった。


「絶対にこのプロジェクトを成功させてやる」


その強い想いから、僕の3ヶ月間のプロジェクトがスタートした。


プロジェクトのスタートは驚くほどスムーズだった。
何も問題なくデータ製造が進み、進捗もほぼ予定通り。
こんなスムーズに進むなんて、リベンジにしては楽ちんだなーと思っていた。

しかし、プロジェクトとは炎上であるという言葉の通り、やはり炎上した。
ある一点を堺に、突然データ製造の進捗が止まり、データの質も担保できない状況に陥った。


「やばい、このままでは納品に確実に間に合わない」


どれほどやばかったかというと、こんな感じ。

10月進捗:3.0/10 まあ順調!だいたい同じペースでいけば終わるね!
11月進捗:3.5/10 え?やばくね?あと1ヶ月でどうすんの?
12月進捗:     あと6.5を埋めなあかん。。。。。

誰がどう見てもわかる炎上度合い。

例えるなら、夏休みの最終日に「自由研究」と「読書感想文」と「数学のワーク」が残っているくらいやばい。
あ、もちろんまだ研究テーマも決めていないし、何を読むかも決めていないし、数学は苦手科目の状態ね!

つまり、絶望的だった。

その中で、「なんとしても間に合わせる」という意思決定をしたので、マネージャーと相談。

「当初想定コストのL倍にはなりますが、これだけのリソースを投下すれば納品に間に合います。」
「必ず間に合わせるので、よろしくお願いします。」


そしてこの合意から、怒涛の日々が始まった。
僕の12月に、休みなんてものは無かった。寝るか、プロジェクトに関わるかの2択だった。

毎日今出川と市役所前(現在は二条)のオフィスを駆け巡り、それぞれのメンバーと協力しながら、納品に向けて走り続けた。

この12月、僕は3つのことを走りながら意識していた。
- 1.目的を常に伝え、熱いメンバーを巻き込むこと
- 2.60点を意識。優先順位をつけて、死守すべきラインを死守。
- 3.とにかく安心しない。安心=死。

まず、全員に「どれだけ状況がピンチか」「成し遂げたいこと」を共有した。

正直ドン引きしたメンバーもいると思うが、それ以上に「やってやろうじゃん」と燃えるメンバーが居た。

幸いなことに、DMFのメンバーは学生主体なため、ある種「ノリ」で何とかしようと努力してくれるメンバーが多かった。

その中でも、DMFで「チーフ/チーム改善」と呼んでいるマネジメント層のメンバーを特に意識して巻き込んだ。彼らが燃えてくれれば、熱量の伝導効率が遥かに高まる。

厳しすぎる状況の中で、僕だけがやいやい言ってもどうにかなる状況ではなかった。
僕のもつ「熱量」を、誰かに「伝導」し、それをさらに広げていく必要があった。

チーフ/チーム改善とは特に積極的にコミュニケーションを取り、情報共有を積極的に行った。
重ねて、「なんとしてもやってやるんだ」という想いを伝え続けた。

また、常に「優先して解くべき課題は何か」を意識していた。
もう、間に合わせる方が奇跡なんだから、必然的にやれることも限られていた。

日々課題が噴出する中で、解くべき課題に優先順位をつけ、それをメンバーに配分していった。
メンバーの得意分野は、先述したコミュニケーションの中で見えていたので、それをもとに割り振っていった。

そうすることで、何とか常に前に進む状況を作り出す事ができた。
(書いてて思うけど、マジで昔より進歩してるわ。)

さらに、プロジェクトマネージャーとして、プロジェクトに対して「徹底的にネガティブに」見ていた。

先述した流れから、メンバーとの協力が上手くいき、ギリギリではあるがプロジェクトが間に合う見込みが見えてきた。

これはもちろん、メンバーのモチベーションをぶち上げるので、積極的に共有し、称え合った。
実際に、本当にすごいことだから。僕ももちろん嬉しかった。

しかし、前向きに伝える裏腹、僕自身は淡々と、冷静に状況を見ていた。

「上手く行っているように見えて、その反動は起きていないだろうか。」
「絶対に考慮すべきポイントで、抜け漏れはないだろうか。」
「ゴールは本当にここで大丈夫か。確実に納期に間に合うのか。」

下記、僕が今回のプロジェクトマネジメントで参考にした本にも書かれているとおり、プロジェクトはスタートゴールが最も難しい。

例として、飛行機の事故のほとんどはそこで起きているそうだ。フライト中ではなく。

僕もこれを意識して、現場メンバーが熱量を上げていく中、自分はあえて冷静に状況を見ることで、バランスを取っていた。


これらを意識し、走り続けた結果、何とかプロジェクトを完遂、データを納品することが出来た。

人生で最高に濃い、密度の高い1ヶ月だったように思う。

正直何度も、何度も心が折れそうになった。

「何でこんなことしてるんだろう。僕って大学生だよな。」
「納期を遅らせてもらえば、絶対に余裕で間に合うのにな。」
「またしんどい1日がはじまる、ベッドから出たくないな。」

そう思うときもあった。

それでも、結局当初の想いが、僕を支えてくれた。

「絶対にこのプロジェクトを成功させてやる。」
「もう2度と逃げない。絶対にやり遂げる」
「過去の失敗に対して何があってもリベンジを果たす。」

ブレない軸が、強い想いが、自分が逃げようとしたときも、何とか倒れるのを食い止めてくれた。


そんなプロジェクトが終わり、振り返りのドキュメントと次回以降の提案まで書ききった。

なぜかそれでも、終わった感じがしない。不思議な感覚。

「本当に上手く行ったのだろうか。」
「みんなにたくさん負担をかけてしまった。」
「納品後に問題が起きたらどうしよう。」

そんな不安にさいなまれつつ、年を越した。


そして迎えた、年明けの全社イベント。

ここで僕は、このプロジェクトが一旦終わったんだな、という自覚を得た。

全社イベントで、過去1年間の売上を振り返っていた。

そこに、自分が納品した売上が、売上棒グラフのてっぺんにどーんと載っているのを見た。

このとき、僕は初めて、「会社にとって価値のあることをしたんだな」という実感を得た。

不思議だが、僕にとってはそれが「一旦の節目」だった。

2章完。まだ続くで。

3.再来週からリモート移行するから、よろしくな

新型コロナウイルスによって、各社リモートワークへの対応に追われている。
うちも例外なく、リモートワークへ移行体制を整えることになった。

僕が担当したのは、「シフト制実施に対する理解を得てもらう」機能だ。

前提として、DMFのアルバイトは、「08:00~21:45」の間で完全自由シフト。
また、新型コロナウイルスで騒ぎ出す初期の1月末に、1度リモートワークに移行したときがあり、全員がスムーズに移行済み。
(このときもマニュアルを作りまくってめちゃくちゃ大変だったけど)

しかし、このリモートワークによって、以下の問題が発生した。
- 1.生産性の低下 
- 2.トータルコストの増大


前者は、つまりさぼっちゃうってことだけど、正直僕は仕方ないかなあと思う。
やっぱり家だと誘惑も多いし、責任の大きな仕事を任されているわけでもない。

加えて、環境面でオフィスより障害が多いのもあるから、それも半分くらいは影響してたのかな。

ただ、いずれにしても会社として見過ごすわけにはいかないから、オフィスと同じ環境を作るために施策を考え、良い検証結果まで得られた。


また、コストについては、イコール人件費だと考えて欲しい。
通勤時間がなくなる、学業の間でシフト追加しやすい ー> 出勤しやすい(=人件費の増大)
という学生アルバイトの多いDMFならではの現象が発生した。

マクロ経済がしぼむ中、ベンチャー企業である我々がコストを湯水のように使うことなど出来ない。そんな体力は大企業にしかない。

よって、これらをDMFメンバー全員に「理解」してもらって、リモートワークを開始する必要があった。
完全自由シフトからの、上限付きシフト制への移行である。

機械的にやるならば、生産性上位のメンバーをランク付けして、その人のみ出勤OK、で済む話。

しかし、果たしてこれで本当にメンバー全員が納得するだろうか?
例えその人が生産性の高いメンバーであったとしても、この機械的な方針に素直にうなずけるだろうか?

Baseconnectはドキュメントを中心とする文化のため、ドキュメントを配っておわり、という手段も取ることができた。

しかし、DMFとしてそれを選択しなかった。これにあたり、僕がやったのは2つ。

- 1.ドキュメント作成。
- 2.共有会(対話の会)の実施。


前者については、とにかく目線を下げることを意識した。アルバイトのメンバーに、いきなりDMFの予算だの生産性だのと話をしたところでびっくりしてしまう。

過去リモートワークを実施してみて、問題点が見えた。
そのため、リモートワークへの移行を避けてきた。コストについてこれまで触れてこなかったが、DMFの予算内訳はこうなっている。
他にも策を取ることができるが、最もベストな策が今回の策。
今回の策を実施するにあたり、一部アルバイトメンバーにも協力頂いて施策の検証をしている。

という風に、「上から」の共有ではなく、可能な限り「目線を下げて」ドキュメントの作成を行った。

当初のドキュメントは合理的ではあったが、アルバイトメンバーの事情や感情面の配慮にかけていたため、自分なりに上記のようにアレンジすることにした。

また、アルバイトにとって新情報がかなり多かったので、「既知 ー> 未知」の流れで文章を構成するのも強く意識した。
突然知らないことが出てくると、感情的に反応してしまう可能性が高かったからだ。

後者は、今回の施策実施に対する対話の会を行った。ドキュメントへの質問と、今後の方針に対する「レビュー(=助言)」を貰う会だ。

Baseconnectには、「レビュー」という文化が浸透しており、主体者が何かを進めるにあたってレビューを貰うのがルールになっている。その代わり、レビューを貰いさえすれば「承認」というプロセスはない。

そのレビューを、アルバイト主体のDMFならではで、アルバイトメンバーから貰おう、一緒によりよい施策を考えよう、というのが今回の趣旨だ。

もしかすると、もっと効率の良いやり方があったかもしれない。本当にこの共有会という形でなければ、目的達成できなかったかはわからない。数百人を巻き込んで、数十万円のコストをかけて、本当に対面(オンライン)で説明する必要があったのかは、疑問に思う人もいるかもしれない。

ただ、僕は今回の共有会には価値があったと感じている。実際にメンバーの声を聞いて、それに対して真摯に回答する場は、これまでに無く貴重だったと思う。発言者にとっても、それを聞くメンバーにとっても、良い影響を与えたと感じている。

実際、施策に反映させるような助言も貰うことが出来た。
その結果、大きな混乱なくリモートワークに移行することが出来た。

今回のリモートワーク移行からの学びは、大きく3つある。
- 1.大きな変更を伴うときは、直接自分の言葉で説明する。
- 2.「上から」の共有ではなく、「目線を併せた」共有を行う。
- 3.みんなで一緒に考え、助言を貰う。

DMFで働いて最も強く痛感することは、如何に良い施策を考えても、最後はみんなに「動いて」もらわないと話にならない、ということだ。

人は、最終的な意思決定を感情で行う。論理でいくら詰められたドキュメントでも、感覚的に「嫌だ。やりたくない。」と思われてしまうと、誰も自分の施策に乗ってくれない。

そんなときに必要なのは、「目的」や「想い」だと思う。
この船に一緒に乗ってくれるかは、何を言っているかだけでなく、どのように伝えているかが、非常に重要だといつも感じる。

DMFは、データの製造業を行う部署だ。まるで工場のように捉えることも多い。
それでも、やっぱり働くのは「」なんだなと強く想った。

4.Baseconnectが無ければ、今の自分は確実にない

もし、Baseconnectがなかったら。

もし自分が、Baseconnectと出会っていなかったら。

もし自分が、Baseconnect以外のインターン先を選んでいたら。

もし自分が、Baseconnectから逃げ出していたら。

僕はきっと、今頃こんな大人になっていたと思う。

 1.口だけで夢物語な新卒。
2.新卒で適応障害 ー> ニート。
3.外の世界だけ見て自分らしさを無駄にする自分。
4.ビジネスノウハウ・テクニックコレクター。
5.なんちゃって出来る人。

まじでダサいけど、多分こうなってた。


僕はもともと、勘違いした大人になりたくなかった。

肩書や所属に依存し、あなた自身の人生が見えない。

自分自身の仕事や人生を、堂々と周りに語ることが出来ない。

そんな大人に、新卒になりたくなかった。

・Baseconnectに居たために、2回適応障害になった。
・友達と遊ぶ時間を、大幅に削った。
・卒業するのが、2年遅れた。
・なんで遊ぶための大学生なのに、こんなことしてるんだろう。

そうやって、後悔しそうになるときがあった。
本当に自分の選択は正しかったのだろうかと、思うときもあった。


それでも僕は感謝している。
全てにおいてノーリスクな学生という身分で、こんなハイリターンな成長環境を提供してくれていることに。


ここまでを読んで、Baseconnectにおける「インターン」という存在の意味が、少しでも伝わっていたら幸い。

また、「え!?そこまで大学生にさせちゃっていいの!?」と驚きがあれば、それもまた一興。

今後は色々悩んでいるけど、少なくともこの会社でインターン生として働き続けることまで見えている。

何かあなたの心に響いて、明日以降の活力になれば良いな。

毎日牛丼食べているので、牛丼代を支援して頂けると嬉しい。
コロナで毎日テイクアウトなんだ・・・!

この気合と熱量の篭った1万字が、あなたの人生を豊かにしますように。

それでは!

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