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【初投稿】読みたいように書いてみる


 元電通のコピーライターであった田中泰延さんの書かれた「読みたいことを、書けばいい。」を読んだため、感想と気になったポイントの引用を投稿します。
 改めてNoteに投稿するにあたって、文章を書くとはどういうことなのかを考えるためにこの本を読んでみました。文章スキルという話はほとんど出てこない代わりに物書きとしてのマインドセットや文章を書き続けてきたプロである著者の考えの一部に触れられる良書でした。

全体を通じた感想

 もともと電通のコピーライターの方だから、短くまとめることにおいては日本で指折りの人でですが、本の体裁上、必要な肉付け一つ一つがユーモアに溢れており読んでて退屈にならない本です。
 描くためのHOW本ではないが文章を綴る全ての人に読んでもらいたい本。文章をうまく描くには、まず書いた文章をまず自分で面白いと思わないと、誰も読まないという考えで一貫しています。評価は他人が決めるものなので、狙いすぎずにまずは自分が面白いという目線で書く、この点は「嫌われる勇気」にも出てくる課題の分離にも通じる部分であり、面白いという事や幸せの定義を他人任せにしないという自分の最近の生き方のポリシーにも通ずる部分がありました。唐突に話が逸れてしまいますが、言葉の定義・使い方に責任を持つという考え方は、鬼滅の刃出てきた冨岡義勇さんが主人公の炭治郎に言った「生殺与奪の権を他人に預けるな」という言葉にも通じていました。
 この生きづらい世の中をサバイブするためにとても大事な考えとして共感できる点を再発見できた本でした。ありがとうございました。

気になったポイントの引用とそれぞれに対する感想

随筆の定義:「事象と文章が交わるところに生まれる文章」

P54

 今まで随筆とは、徒然なるままに書かれた文章くらいの定義にしか考えられていませんでしたが、事実を感想という両方が成り立って初めて成立するという言葉の定義の丁寧さに感銘を受けました。

趣味とは、「手段が目的にすり替わったこと」

P62

 趣味の定義についても同様です。その定義に関しては考え尽くしたことがなかったです。 ただ、一部本当?という目線で考えてみます。例えば、スポーツ、テニスなどはそれ自体が目的になっており、手段が目的にすり替わったこととなるのか少し疑問でした。
 これに対しては、スポーツを勝敗が決まるもの、それを突き詰めるものとするならば、勝敗を気にせずに楽しんでいる時点で勝敗が決まる過程である手段を目的化しているといえるではないかと考えました。

人々の目に入るのは1秒以内 15文字くらいでまとまらないと長すぎる。

P72

 この点は、パワポのリード文や説明における一言の長さに通じるため、自分にとって参考になりました。

 良い広告コピーとは、わかりやすい言葉で書かれているがちょっと発見があるもの 商品とはあまり関係ないが、製作者自身が面白いと感じることを広告にしてしまう、これも一つのやり方だ。〜〜
 例えば近年では通信キャリアの「au」桃太郎、浦島太郎、金太郎などを主人公に展開したCMなどは記憶に新しい。
 大ヒットしたCMだが、あの発想は「au」の通信料金プランやサービスを伝えるコピーをいちいち考えるという手法ではない。プランニングした人間が個人的に「面白い」と感じる世界をまず作り、それをエンタテインメントして成立させ、その世界観の中でのブランド訴求を続け、成功した。
 まず自分が面白くなければ、他人も面白くないだろう、という考えである。

P81

 情報が溢れている中で、情報の集積とも言えるCMは録画のスキップ機能やそもそもの基盤であるテレビの存在意義という観点で転換を迫られているのではないかと考えました。情報が溢れる中、もう情報はいらないという受けての気持ちを汲み取って、まずは面白いと感じてもらう、興味を持って話を聞いてもらうのは二の次というCMに芸能人を使う原点に立ち返ったアクションとも言えるのかもしれないと考えました。

 書いた文章を読んで喜ぶのは、まず自分自身であると言うのがこの本の趣旨だ。満足かどうか、楽しいかどうかは自分で決めればいい。しかし評価は他人が決める。他人がどう思うかはあなたが決められることではない。 〜〜 褒めてくれる人に、「また次も褒められよう」と思って書くと、だんだん自分が面白く無くなってくる。いずれにせよ、評価の奴隷になった時点で、書くことが嫌になってしまう。

 他人の人生を生きてはいけない。書くのは自分だ。誰も代わりに書いてくれない。あなたはあなたの人生を生きる。その方法の一つが「書く」という事なのだ。

P112

 改めて、嫌われる勇気、課題の分離の重要性を再確認したポイントでした。 鬼滅の刃にて、柱の一人である冨岡義勇さんが主人公の炭治郎に対して「生殺与奪の権を他人に預けるな」と怒鳴ったシーンが印象的で、ずっと心に残っているのですが、その考えに通じるものがあると考えています。この点は、現代における人間の幸せにも通じる部分ではないかと考えます。

 エントリーシートはキャッチコピー。 〜〜 相手に訊ねさせることが大事なのだ。 説明会にて200人が一つのホールに入れられ「ここにいる皆さんのうち、弊社の仲間になるのは、確率的にはお一人か、ゼロでございます」と言われた。集まった学生は爆笑した。

P124

 ESで興味を引いて、詳しく話すから面接に呼んでくれ。
 →りんご飴の記録的な売り上げを作ったならば、ESにはりんご飴の古田と呼ばれていましたと書く。
 プノンペンのジョー理論:情景が相手の目に浮かぶくらいに具体的に、人の名前や地名を織り交ぜながら説明する。

P124

 就活は劇場ではなく、対話であることを再確認した部分でした。自己紹介しか求めていないのに、延々と自分を演じ始める学生に対する違和感はまさにここにあると考えました。これは求めている企業側も悪いですが、入社後にこんなことしだす学生に対してはイライラするにもかかわらず、就活という異様な場面においては相手に求めてしまっている異様な空気感のようなものを感じました。

 得意不得意をしれば社会があなたを振り分ける 得意不得意を最低限、自分で見極めることさえできれば、あとは自動だ。私も向いていそうな分野を選び、入社面接を経て、入社してからは、人事担当が適性を判断して、コピーライターとして就労した。 人はいずれ、自分がいるべきところに導かれる。出なければ、社会にこんなに多様な職業があって、みんなが納得してそれぞれの職業についていない。だから就活生には、最低限向いている方向を見定めたら、あとは心配しないで、社会の振り分け機能に身を任せてもいいということを知ってもらいたい。

P135

 今はジョブ型の号令の下で、皆が自分を知らないにもかかわらず、何者かになりたがっている気持ち悪さがありましたが、この文章を読むことですっきりしました。心配しなくても一定会社に身を委ねたらいいのではないでしょうか。なぜなら、あなたは会社員を選んだのだから。自分の意思を込めるのは、給料以上の働きをできるようになってきてからでも遅くないと思います。ちなみに給料以上の働きとは、その一瞬において、上司が選択肢うるメンバー候補のうち、その仕事をするのはあなたが最善手だと上司に思わせることができるないしできた仕事と考えています。

労働には3つの側面がある。 ①経済性:収入を得て生計を支える。 ②社会性:役割を担うことで社会に貢献する。 ③個人性:個人の人生の目標や生き甲斐を充実させる。

P135

 改めて労働の定義を頭の中で整理するきっかけになった文章です。 特に自分は②③の側面が強いため、①を中心に考えている人より、自由に労働している実感が強いです。

第3章 「つまらない人間」のあなたへどう書くか
 ライターの考えなど全体の1%以下で良いし、その1%以下を伝えるために後の99%以上がいる。「物書きは調べることが9割9分5厘6毛」なのである。
〜〜
調べたことを並べれば、読む人が主役になれる。

P148

 「調べる」とはどういうことか?どうすればいいのか? →1次資料に当たる。ネットの情報は、また聞きのまた聞きが文字になっていると思って間違いない。ムックや新書の類も、たとえ専門家が監修していても、「俗にいう明智光秀のエピソード」を強化するためのもので、ほとんどの情報は載っていない。新発見があれば新聞記者になっている。
〜〜
 「好きなことを書いていても、この書き手は一次資料に立脚している」という理由があったため、著者の文章は社会から受け入れられた。

P151

 どこで調べるか。
 →図書館を利用する。東京都立中央図書館(開架式)。
  司書に相談する。
  国立国会図書館(閉架式)。

P159

 インターネット上では、恋愛に関する人間模様やそれに対するオピニオンを書いて多くのページビューを得る若いライターは多い。交際してみたらこうとか、同棲とかしてみたらこう思ったとか、結婚してみたらこう思ったとか、別れてみたらこうおもったとか。 それ、夏目漱石が、百何十年も前にほとんどやっている。 漱石は封建時代だった日本に突如、海外から個人主義とか自由恋愛と、それぞれが急に「自我ってなんだ?」「恋愛ってなんだ?」ということを意識せざるを得なくなって、明治の何十年かで考えたことを、大量に文字にした。 大学に入りたてで初めての恋愛感情に戸惑う「三四郎」から、もはや人を信じられなくなって、嘘をついて他人の行動を試してしまう「それから」や「こゝろ」に至るまで、直接的な性描写こそないものの、そこには今と変わらない恋愛の諸相がある。大正、昭和と日本の文学者たちは、漱石がいきなり偉大すぎたので、なんとかその先を書こうと挑戦し続けてきたのだ。

P175

 「巨人の肩に乗る」 12世紀のフランスの哲学者、ベルナールの言葉。 歴史のことの積み重ねが巨人みたいなものだから、我々は物事を見渡さない限り、進歩は望めない、という意味だ。一から地面に立っていては、遭難した少年と同じになってしまう。 「巨人の方の上」は、アイザック・ニュートンが1676年にロバート・フックに宛てた書簡で、ベルナールの言葉を引用したことで有名になった。 「私が彼方を見渡せたのだとしたら、それは単に巨人の方の上に乗っていたからです」 〜〜 すべて過去を引用を引用しながらちょっとずつ新しくなっている。 〜〜 巨人の肩に乗る、というのは「ここまでは議論の余地がありませんね。ここから先の話をしますけど」という姿勢なのだ。

P175

 感動が中心になければ書く意味がない。 〜〜 お題を与えられたら、調べる過程で「どこかを愛する」という作業をしないといけない。それができないと辛いままだ。 対象を愛する方法には2つある。 A:資料をあたっていくうちに「ここは愛せる」というポイントがみつかる B:ざっとみて「ここが愛せそうだ」と思ったポイントの資料を掘る。持論を強化するためにいい材料を揃える。 「私が愛した部分を、全力で伝える」という気持ちで書く必要があるのだ。

P181


 文章を書くときに絶対に失ってはいけないのが「敬意」だ。 自称に触れて生じる心象が。その事象は常にあなたの外部にある。自分の外にある「外部」の存在に敬意を払わなければ、あなたもあなたの外部から敬意を払われない。
 調べることは、愛することだ。自分の感動を探り、根拠を明らかにし、感動に根を張り、枝を生やすために調べる。 愛と敬意。これが文章の中心にあれば、あなたが書くものには意味がある。

P181

 ここまで読みたいことを書けばいいと言ってきた著者が改めて、独りよがりにならず読み手に価値のある文章を書くためにはという観点で書かれた章であり、この部分が同一の主張をする他の著者と本書の著者の差を分ける真髄なのではないかと考えました。これはのちに出てくる図書館利用という奥義を公開した際の著者の後悔にもあらわれているように感じました。

 起承転結の構造
 起:実際の経験だという前置き → 発見
 承:具体的に何があったか   → 帰納
 転:その意味は何か、テーゼ化 → 演繹
 結:感想と提言、ちょっとだけ → 詠嘆

P198

 起承転結の承ってなんだ?とよくある話ですが、それは本質がわかっていないだけだったことを理解しました。具体的に展開しながら読者を引き込みながら帰納して一般論にして、転へつなげる非常に重要なステップとして認識し直しました。

 貨幣と言語は同じもの。 貨幣とは、通常次の3つの機能を果たすものと定義される。 すなわち、 ⑴決済手段(支払手段)としての機能 ⑵価値尺度としての機能 ⑶価値貯蔵手段としての機能 である。これはそのまま言語に置き換えられる。

P227

 この点は、貨幣も言語もサピエンス全史に出てきたフィクションの産物の代表格であることとリンクしました。また、ゼロサムではなく、プラスサムという前提についても非常に明快に頭に入ってきました。


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