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「さわる」と「ふれる」『手の倫理』伊藤亜紗


伊藤亜紗『手の倫理』、講談社選書メチエ、2020年

「さわる」と「ふれる」は英語だとどちらもtouchなのに、ニュアンスは微妙にちがう。
傷口にはふれる、だけど、虫にはさわらない。触覚に関するふたつのあいまいな動詞を、人はその都度、状況に応じて(あるいはほとんど無意識的に)使いわけている。

でも日本語を母語とする私には、touchという単語それ自体にも特別なイメージがあって、それはひらりと表面をこするような、あるいは、つんと指先で小突くような、ささやかな動作を連想させるのだ。きっと「タッチ」という言葉の短さや、「タ」の音を鳴らすときの舌の跳ねる感覚がそうさせるのだと思う。

これまでも身体をめぐる多くの著書を世に送り出してきた伊藤亜紗さんが、今回テーマとして選んだのは、手。
私はこの人の書くものがほんとうに好きで、ぜひいつかお会いしてみたいと本気で思っている。この方の語る、ごくごく個人的な身体経験を、文章ではなく言葉でいつか聞いてみたい。でも、まずは本の内容について。

人が人にさわる行為はじつはとても繊細だ。触れかたや力加減、リズムの「程度」をまちがえると、接触はいとも簡単に暴力になってしまう。目には見えにくいこの感覚を、私たちは人間同士の共鳴と信頼、関係の形成、情報伝達の手段として利用している。

「忘れがちなのは、『受け入れる』用意があるからこそ、『伝わっていく』ということです。意図的に伝えられるメッセージなら、どんな相手にも一応は届くでしょう。もちろん理解されない可能性はありますが、とりあえず届けることはできる。けれども、『伝わっていく』メッセージは、それを受け入れる隙があるところにだけしか届いていきません」

見ること、聴くこと、話すことすら、その最中には匿名の感情が響き合っている。五感で体験されることはほとんど個人的な経験だから、人に伝えるのはとても難しいはずなのに、この人は押しつけるのでも説くのでもなく、そういえばこんな話があるのだけど、ちょっと聞いてみない? とまるで世間話のような身軽さで話してしまう。だからたちまち文章がはいってくる。

この本を読んだ人はすべからく、もう乱暴にはふるまえない。それはとても優しい変化だと思う。


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