【短編小説】雪解け
久しぶり、なんだよ真っ黒に焼けてさ。
なんだか雑誌に出てくるモデルみたいじゃん。
今度はどこの国に行ってきたんだよ、なんて、インスタ見てたから本当は知ってるんだけどな。
俺の方は相変わらずのひきこもり生活ですよ。
ガリガリに痩せて生っ白い肌で。
ひたすら人の目を避けるようにして、自ら影の中に溶け込んだ気になってる。
そんな事はどうでもよくてさ、みんな、お前のことを心配してたんだぜ。俺が言うなって話だけれども、お前、定住場所決めずにふらっといなくなるから。
今日の飲み会には誰も来れなかったみたいだけど……きっとみんな忙しいんだろうな。
まあ、この年になると「いつものメンバー」が突然変わることだってあるけどさ。
何も言わずに急にいなくなるのは、やっぱちょっと寂しいかな。
それにしてもすげー吹雪だ。帰りの電車、止まったりしないよな。
――なんだよ、そんな怖い顔すんなよ。
わかってる、こんな雪の日は「あの日の事」を思い出すよな。
俺だってそうだよ。
あれからもう十五年も経つのに、いつまでもあの日のことを消化できないでいる。そうじゃなかったらひきこもりなんてやってねー。
……うるせーな、そんな目で哀れんでんじゃねーよ。
殺されかけたあの子、今、元気だと思うか?
そう、今日お前と二人っきりになれたなら、あの子の話をしたかったんだ。
***
高校生の時、俺はとにかくやる気ってもんが無くてさ。周りが皆、受験勉強に邁進する中で、浪人するか就職するかの二択しか無い俺は、大人しくしておきゃいいのにお前とつるんで、馬鹿な事ばっかりやってた。
あの日は今日ほどでは無いけれど、それなりに雪の降る成人式で、近所の市民体育館には新成人の先輩方が続々と集まってた。
その中にはヤンキーみたいなやんちゃしてる奴らもいてさ、乗り付けた車にでかでかと「人生最後の悪あがき」だなんて書いて、気合入れまくった格好して成人式に出てんの。
あの位の年齢になると自分がどんな人生を過ごすのか、朧気ながらもわかってくるから、それに抵抗したかったんだろう。なんて、したり顔で分析してみせたっけ。
あの頃の俺は、根拠も無いのに何にでもなれる気がして、辛気くさい落書きをするヤンキー先輩のこと、ダッセェなって見下してた。
笑っちまうよな、将来ニートのひきこもりになるなんて、これっぽっちも考えやしなかったお気楽な俺の事も。ハタチそこそこで最後の悪あがきだなんて思ってるヤンキーの事も。
ひたむきに努力すれば何にだってなれたかも知れないし、二十歳なんてまだまだこれからだ。
そんな光景を横目に、俺とお前は雪の中ひたすら歩いて暇つぶし。 お前も志望校には到底受からない成績しか残せなくて、自棄になって俺の馬鹿に付き合ってた。本当、どうしようもない二人だった。
いつもの通学路が雪化粧で真っ白で、何か特別な事が起こる予感がした。それは自分たちのどうしようもなさを直視したくなくて、雪化粧の施された幻想的な風景に、何かを見出したかっただけかも知れない。
待っていたって奇跡なんて起こらない……そんなことはわかっていたつもりだった。それでも俺達は、何かが迎えに来てくれるのを待ってた。町中を覆いつくす雪の白さを、奇跡のはじまりの色だと信じたかった。
そんな地に足のついていない状態だったからかな、普段だったら立ち寄りもしない、「ヴェネチア公園」なんかに立ち寄ったのは。
その名の通り、イタリアのヴェネチアの雰囲気を意識して建設されたと言われるその公園には、一般的な公園にある、ブランコやすべり台のような遊具は一切無くて。赤いレンガの壁だの裸の女性の彫刻だのが、設置してある場所だった。
どこらへんがどうヴェネチアなのか、真面目に世界史の授業を受けて無かった俺にはさっぱりだったけど、公園の中央にある豪奢な作りの噴水は、一目見て気に入ったよ。
噴水を囲むようにして雪に埋もれた花壇があって、雪解けの季節に来たらどんなに幻想的な光景が見れるんだろうと思ったけれど、男二人でぐだぐだ駄弁りあうような場所じゃなかったな。
教室に居場所が無いから外へ出たというのに、公園ですらお呼びでないと被害妄想に陥りながら周囲を見回して――噴水の裏側に、“あの人”を見つけた。
ダッフルコートを着ていてもわかるくらい細い女の人だった。でもそれは、モデルのように魅力的だったという意味ではなくて、風が吹いたらぽっきりと体が折れてしまいそうだという意味で。年恰好は先程見た、新成人の先輩方とさして変わらないように思えた。
その人は子猫位の大きさの、タオルにくるまれた荷物を大事そうに抱えていた。長い髪の毛がその表情を隠してその表情はよくわからない。
何の気も無しにその人を見つめていると、彼女は突然しゃがみ込み、花壇にその荷物を置いた。
雪が視界を掻き消すように吹きすさび、女の人の姿を覆い隠す。
俺はその人になんの興味も持てなかったから、とっとと帰ろうとしたんだよ。だからお前が、
「どうかしましたか」
と声をかけた時は心底驚いたね。
お前に呼びかけられたあの人は、感電したみたいにびくりとはねて、こちらを振り返った。
顔が紙みたいに真っ白で、唇からは赤みが引いていた。これ以上ないくらい両目をかっ開いていて、鈍感な俺にも、彼女が尋常じゃない状態なのはすぐにわかった。
お前はあの人にゆっくりと近づいてゆく。
俺はどうすりゃいいのかわかんなくなって、情けない事にただただ狼狽える。
三人の間にぴんと張りつめた糸みたいな緊張感が走った。
そんな緊迫した空気を切り裂いたのは「ふえええ」という赤ん坊のか細い泣き声だった。
――こんな寒い所に赤ん坊⁉――
頬をはられたような衝撃が脳味噌を駆け巡ったよ。だってどう考えたってあの日の骨身に染みる寒さは、命を授かって間もない、か弱いうにゃうにゃした生き物には悪影響だろう?
あわててぐるりを見渡すも、赤ん坊の声がするのはどう考えても、あの女の人の居る方向からで。
「来ないで!」
なんて泣き叫ばれても、流石に放っておけなかった。
俺達が駆け寄るのを見ると、あの人は地面に置いてあった荷物を慌てて拾い上げ、おどおどと俺達から目を反らした。
子猫程の大きさの荷物だと思ったそれは、タオルにくるまれた赤ん坊だったんだ。
そこからはもう、大騒ぎで。
だってそうだろう? あの人は故意に、雪の上に乳児を横たえたんだから。例え育児ノイローゼだったとしても、こどもの命に危険が及ぶような真似は、絶対にやっちゃいけない。
虐待としては”未遂”だったかもしれない。でも、そのまま見過ごすには、あの人の情緒は不安定すぎた。何せ、あの人は俺たちが厳しい目を向けた途端、うずくまって泣き喚くだけで、動かなくなってしまったんだから。
「なんて親だ」と俺は思ったね。
その感情をそのまま視線に乗せて、あの人の事を睨みつけた。
隣にいるお前も――親関係で苦労していた事もあってか――燃えるような憎悪を双眼にくゆらせていたな。
あの人はそんな俺達を見て涙ぐみ、
「だって、だってどうすればいいのかわからないんだもん‼ 彼とは連絡が取れないし、親だって頼れない。それならいっその事……」
と言って、再び泣き崩れてしまった。
――いっその事――? 何だ? この人は何を言おうとしたんだ?――
その一言が、彼女の胸中に蠢く殺意を示すのだと気づくまで、俺たちはその場から動けなかった。
深々と降り積もる雪が容赦なく、母子の上に積み重なってゆく。まるで彼女らの存在を掻き消してゆくような白を、今でも忘れられないでいる。
「それでも母親かよ! きちんと育てられもしなければ責任も取れないんなら、こどもなんか産むんじゃねぇ!」
お前はそう言って怒鳴り、すぐに警察に通報した。
その後はどんなに声をかけても、その人は蹲って泣きじゃくるばかりで話にならなくて。
正直、当時の俺はとんだ親が居たもんだと、怒りを通り越して心底あの人を軽蔑していた。
知らなかったんだよ、人にはいろんな事情があるって事を。
普通の人間が当たり前に理解する事を、生まれつき脳の発達が偏っているせいで、理解出来ない人が居るなんて、想像だにしなかった。
そう、あの人にはあの人の事情があった。「どうすればいいのかわからない」というのは、比喩表現でも感情的になった末での泣き言でもなくて。本当に、どうすればいいのかわからなかった――それだけだったんだ。
わかってる、だからって何をしても良い訳じゃない。
それでも、今は思うよ。
世の中にはいろんな人がいる。だから正義の名の下に、簡単に他者を断罪しちゃいけないんだって。
そう、当時の無知な俺達は、あの人に石を投げたんだ。
あっという間に噂は広がって、事件を未然に防いだ俺達は周囲の連中から随分褒められ、有頂天になっていた。
受験には失敗したし、学歴社会からはドロップアウトしたも同然だった俺が、なんと人一人の命を救ったんだから。
コップの中に勢いよく水を注いだら、あふれてしまった時みたいに、すっからかんの自己肯定感は極限まで満たされた。
「人生最後の悪あがき」に、成功したのだとすら思った。
ざまぁ見やがれヤンキーども、俺はお前達とは違うんだってね。
その後、あの赤ちゃんは母親から引き離され、施設で育てられる事になると風の噂で聞いても、心は変わらなかった。むしろ、俺達は碌でもない親達からこどもを守ったのだと、誇らしい位だった。
まさか、あの人が自ら命を絶つなんて思っていなかったから。
遺書には、こどもへの謝罪の言葉がびっしりと書き連ねてあったそうだ。それに加えて、
「普通の人が理解できることが、私には理解できません。こんな私には生きている資格なんてありません。私は母親どころか、人間としても失格です」
――文章の最後はそう、結ばれていたらしい。
俺達が、薄っぺらい正義感を振りかざしたせいで、あの人を追い詰めてしまった。
俺があの人を殺したんだ。
そりゃさ、皆は、お前のせいじゃないって励ましてくれたし、こどもの命を守ったことには違いないって言ってくれたよ。
でもな、俺――警察の到着を待っている間、蹲って泣きじゃくるだけのあの人の事、
(こんな愚かな大人なんて、居なくなればいいのに)
って思ったんだよね。いや、もしかしたら
(赤ん坊じゃなくって、お前の方が死ねよ)
ぐらい思ったかもしれない。
「親になるのも免許制にした方がいいんじゃないか、そうすりゃ、ちっとは世の中良くなるはずだ」
そう言ったお前の意見に、俺、心から賛同したんだよ。
自分が切り捨てられる側にまわるなんて夢にも想像していなかったから。
いろんな問題を抱えていたあの人の事情も汲み取らないで、心を踏みつけにして、
したり顔で英雄のふりをしてさ。
人間として失格だったのは、俺の方だった。
それ以降、俺は家から出られなくなってしまったし、お前は誰にも告げず、世界中を放浪するようになった。
雪の日の思い出は、俺達の心を氷漬けにした。
***
自分の殻に籠って過去から身を守っているうちに、気が付いたら十五年の年月が経過していた。
それに本当の意味で気が付いたのは、一通の手紙がきっかけだったんだ。
……ああ、持ってきている。読んでみてくれ。
そうだ。差出人はあの時の赤ん坊だ。といっても、今は十五歳の中学生。女の子だったんだな。
彼女は大きくなって、自分のルーツを探しはじめた。――当然、母親が死んだ理由を調べるよな。それで、俺達の存在に行き着いた。
「あの時は命を助けてくれて、ありがとう。命の恩人のあなた達に、是非一度会ってお礼がしたい」――手紙にはそう書いてある。
ん? 消印が随分前じゃないかって? そうだよ、ちょうどお前が南国で肌を焼いている時に、その手紙が届いたんだ。
教えてくれりゃよかったのにって?
……そうだな、お前に連絡をしなかったのは、俺の勝手だった。悪かったよ。
――耐えられなかったんだ。これ以上罪を背負ったまま生きる事に。だから、お前の帰国を待たずに、彼女と会う事にした。
――は? そんなわけないだろ?
確かにこの手紙には、俺たちに対する感謝の言葉がずらりと並んでいるけれど。まさか、俺がそれを額面通りに受け取ったと思ったのか?
お前にとって俺は、「命の恩人だ」と賞賛されるために、犠牲者のあの子と会うような人間に見えるのか?
――お前だけは俺の事を理解してくれると思ったんだけど――違ったんだな。残念だよ。
俺は、謝りたかったんだ。
ああそうだ、謝ったってどうにもならないさ。何をしたって彼女から母親を奪った事実は変わらないし、償う事だって出来ない。
それでも……いつかはちゃんと向き会わないといけない。
いつまでも穴蔵に引きこもって、現実から逃げ続けるわけにはいかないんだ。
特に、事件の当事者であるあの子が「会いたい」と望むなら、断る権利なんて俺には無いように思えたんだ。
***
今にも泣き出しそうな空の色だった。
その日は今日みたいに、午後から雪が降るって天気予報だったから、あまり長居をさせたら申し訳ないなと思いながら、俺は待ち合わせ場所である駅のロータリーで、あの子を待った。
しばらくすると、ダウンジャケットを身にまとい、チェック柄のパンツをはいたやせっぽちの女の子が、まっすぐこちらにやってきた。
賢そうな子だったよ。アーモンド型の目があの人にそっくりだったけど、背筋をぴんと伸ばして堂々と歩いているせいか、あの人とは真逆の雰囲気を持つ子だって思ったな。
「はじめまして」
思ったより低い声が耳に届くと同時に、俺は頭を下げた。
「お母様の事、大変申し訳ございませんでした」
そう言ったきり頭を上げない俺に驚いたのか、彼女は少しの間、押し黙っていた。
本当は、近くにあるファミレスかどこかへ行って、飯でも食べながら話をするつもりだったのに。彼女の姿を見たら、記憶の奥底に沈めたはずのあの日の事とか、忘れられやしない後悔の念やらがぶわっと湧き上がってきて、動けなくなっちまったんだ。
「顔をあげてください、とりあえず、ファミレスにでも入りませんか?」
それはとても、十五歳とは思えない落ち着いた声だった。
***
「実は今日、本当はあなたの事をぶん殴るため、ここに来ました」
ドリンクバー用のティーカップに口をつけた後、彼女は静かな声でそう言った。
天候のせいか店内の客の姿はまばらで、彼女の静かな決意を聞き逃さずにすんだ。
――手紙に書かれていた感謝の言葉は、俺をおびき寄せるための嘘だったか――
その可能性は既に考えていた。胃のあたりがずっしりと、鉛を飲んだように重くなる。
殴って彼女の気が済むなら、喜んで殴られようと決意を固めた。いっその事、殴られて詰られた方が気も晴れると思った。でも、彼女は意外な言葉を口にした。
「あなたが自分の事を、英雄だと思ってくれていたならば、心置きなく殴れたのに。あの日の事を武勇伝として語って、私に感謝を強要するような人だったなら、私は……。それなのに――」
カップをおろし、宙を見ながら言葉を探す彼女の姿はまぎれもなく十五歳のこどもで。俺は、出合い頭に謝罪したことを後悔した。自分の中の罪悪感をあの子に押し付けたせいで、彼女は大人として振舞わなければならなくなってしまったからだ。またしても、己の浅はかさを顔面に叩きつけられた気がした。
「――あなたは今にも死んでしまいそうな顔をしている。幸福を追い払って、自ら闇の中へ突き進んでいるように見えます。
そんなあなたは、殴れない。
もっともっと――高慢不遜でいてくれませんか? 仕事に就いて、毎日を充実させて――幸せになって。
そんなあなただったら、私は心置きなくあなたに罵声を浴びせられる。あんたのせいで、私の家族は奪われた! って言いながら、殴りかかれるかも知れない」
目を丸くして絶句した俺に向かって、彼女は続ける。
「施設暮らしは――色々、あります。こんな辛い思いをするなら、あの時母に殺されていた方が良かった――そう思った日も、ありました。そして、私をそんな環境に追い込んだ要因であるあなた達を恨んだ事もありました。
でも、あなたは私の命を助けてくれた。それは確かな事実ですし、それに対する感謝の気持ちを憎しみで塗りつぶせるほど、私はこどもではいられなかった」
そう言い終えると、彼女の美麗な瞳が強い光を湛え、俺を射た。その強い意志の力に、気圧されたよ。
「私は、生きていて良かったと思っています。理想を言えばきりがないけれど、これから叶えてゆける事だってあるはず。それには最低限、命がなきゃね」
照れくさそうに微笑んだかと思うと、彼女は姿勢を正して、ゆっくりと頭を下げて。
「あの日は助けてくださって、ありがとうございました。
これからは、過去の後悔に目を向けるのではなく、あなた自身の幸せを追い求めてくださいませんか。
あなたが幸せになった時。いつの日かきっと、私はあなたを殴りに行きます。
そのためにも――どうか」
そう言ったんだ。
俺は、人目を気にせずぼたぼたと両目から涙が出るのをそのままに、何度も何度も謝罪したよ。
彼女が何と言おうとも、犯してしまったことは決して赦されないと思う。
じゃあ俺に何ができるかって言えば、俺の人生を必死で生きるしかないんだよな。
そう心に刻みながら、無様に涙の海で溺れていたよ。
***
もちろん、お前の事も彼女には話してある。
お前はどうだ? 彼女に会う気はあるか?
――そうだろうとも、相棒よ。
いつかあの子にとって、最高のサンドバッグになれるよう、俺達、まだまだ生きてみようぜ。
あの雪の日以来、俺の心は氷漬けになっていたけれど。必死に生きると決めてからはなんだか、雪解けをむかえつつあるかのように、息がしやすくなったんだ。