桜梅的芸術論#1 『墓標』

 ついに携帯電話が壊れたので、タイピングの練習も兼ねてこんな連載を始めてみた。高校生になって初めてスマホを持って、それから耐用年数以上の間、喜怒哀楽すべてを共に過ごしたのだから、機能性すべて失った姿はあまりにも悲しかった。

 この頃はさっぱり絵を描いていなかったが、あらゆる面で便利な文明の利器を失ってしまったが故に生まれた時間を潰そうと、渋々といった感じで白紙を置き頬杖をついた。
 描きたいものはあるが、描き方も分からないのだ。
いきなり鉛を滑らせるのは今の自分には無理なので、スケッチブックとカメラを持ってきてまた思案。…そういえばTwitterのアイコンが無かったな。
 というわけで、予めPCに移しておいたデータから自身の依代としてデザインしたキャラクターの資料を表示し、モデルとして鏡写しの自分を撮影し、なんとなくをスケッチブック上でなぞった。
 偶然気付いたことなのだが、キャラクターのしているガスマスクの目元のレンズの円と、カメラのレンズの円がおおよそ同じ大きさなのだ。
人間は規則性のある部分に目が行きやすいそうだ。画面中央に真円が並んでいれば、その形状によって視線を顔の方へ誘導できるのではないか?
いつでもそうだが、俺の成すことはいつも実験の側面がある。忘れていたことだが。
 楽しかったかもしれないし、そんな余裕は無かったかもしれない。
音楽が思い通りに出来上がってくると、絵の未完成さを不甲斐なく思い、誰かの曲を聴いた後にDAWを開くと傲慢不遜の作品と態度の恥ずかしさに気付く。結局のところ、自分はまだ何も成しえては無いのだから、タイピングの練習などしていていいのだろうか?
 少なくとも、誰の目にでも触れるところにこの身を置くことで、常に一種の緊張感を持つことができる。
 早い話、将来が不安で、まああらゆる事が嫌で、無責任に死にてーなとか思う。知的好奇心よりも、偉大なる功績よりも、俺なんかまあいいか、とか思うけど、実際生きるよりも死ぬ方が迷惑かかる訳で。
 俺は人類のメシアであるから生きていなければならないのだと、そうとでも思ってなきゃ正気を保っていられないんだよ!
 メシアに相応しい墓標をデザインできるようになるまでは、新品のまま背負って生きていく。
 おやすみなさい。


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