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「雑感」を記す —コンビーニングに参加して/ミュージアムやアートプロジェクトがメンタルヘルスクリニックになりえるのか

菊池 綾子(精神保健福祉士)
撮影:冨田了平


精神疾患を抱えている人の多くは、定期的に精神科やクリニックに通院し、服薬をしながら生活をしている。クリニックでは、診断を下し、症状を抑えるための薬を処方する。当たり前のことだが、クリニックは基本的に「治療」をする。ミュージアムやアートプロジェクトは、鑑賞する人の心理的状況にかかわらず、「何らかのエネルギーが伝わってほしい」という信念の下にコンテンツを提供している。極端なことを言えば、作品によっては、メンタル不調者の症状を悪化させ、絶望を突きつける場合もあるだろう。当然クリニックや精神科医と患者の相性次第では同様なことが起きる。しかし、クリニックにあってミュージアムやアートプロジェクトにないものは、「症状に合わせて処方する」という視点である。鑑賞者は、一方的に提供される芸術を自ら選んで鑑賞している。クリニックにたとえるならば、自ら処方箋を選んで服薬しているのである。「治療」という観点からすると、「クリニックになりえるか」と問われれば、「非常に危うい」と答えざるを得ない。

 一方で、精神疾患には西洋医学的「治療」だけでなく、「回復」や「エンパワメント」の観点が大切である。この「回復」「エンパワメント」については、ミュージアムやアートプロジェクトが絶大な効果をもたらす。当然これは芸術に限らず、大自然や恋人、家族、食事など、その人の嗜好によるが、ミュージアムやアートプロジェクトには単なる「喜び」「楽しみ」「感動」「癒し」というような言葉を超えた「エンパワメント」がある。

近年は精神疾患の概念が大きく変わっていると感じる。以前は、ハローワークに相談に来る精神障害者のほとんどが「統合失調症」「てんかん」などの疾病、または「うつ病」「躁鬱病」などの気分障害を抱えていたが、近年は「パニック障害」「強迫神経症」「解離性障害」「人格障害」などいわゆる神経症(ノイローゼ)が急増している。神経症はストレス社会を生きる誰もが罹(かか)る可能性のある疾患であり、予防や初期の症状には「回復」「エンパワメント」がかなり効果的である。精神疾患が身近なものとなり、クリニックに足を運びやすくなっている現代では、「回復」「エンパワメント」の観点からすれば、「ミュージアムやアートイベントはクリニックになりえる」と言えるだろう。

芸術に再びエンパワメントされる時

 自分にとっての「回復」「エンパワメント」を振り返ってみる。

 高校生の頃、学校が嫌いでよくサボっていた。理由は色々あったが、総じて思春期特有の「自分自身は何者なのか」という問いにうまく答えられないイライラだったのだろう。自意識過剰というやつである。進学校に通っており、頭は良いが裏表のある友人に裏切られ、いじめにあった。他校の「うちら仲間じゃん!」という温かい友人達と過ごす方がずっと気持ちが楽だったし、勉強は出来なくてもいつも優しく迎えてくれる仲間の方がずっと尊いと思っていた。しかし学校には行かなくてはならない。学校に行くと、優秀な同級生の嫌な面ばかりが目につき、ストレスを抱える日々。また次第に勉強に追いつかなくなってきた自分への焦りや言い訳など、さまざまな感情に振り回されて疲れ果てていた私は、通学途中のターミナル駅でほぼ毎朝途中下車していた。朝早くから開店するのは、某大手書店の地図コーナーだった。まずはそこで、一通り地図を眺め、時間を潰し、小説コーナーがオープンしたらそこへ移動。10時を過ぎると百貨店の美術展コーナーが開くので絵画や彫刻を鑑賞し、重い足取りで学校へ向かうというのが日課だった。当時、私にとっては小説やアートが日々の心の傷や言葉にならないイライラを「回復」させ「エンパワメント」していたのだ。これらがなければ確実に、学校へ行かなくなり、引きこもりになり、親を困らせ、社会と接点のない自分に焦り、精神を病んで、メンタルクリニックに行っていたと思う。下手したら、その後の長い時間を療養に費やすことになったかもしれない。

 そこまで助けられたミュージアムや小説と、ここ何年か距離を置いていた。それは直接人の心に触れる仕事をしていたからかもしれない。精神障害者の現実、世の中の不公平、人の悪意、心の傷の深さや深刻さと日々格闘しているうちに、芸術全般に対して「そんなものに触れる余裕のない人が沢山いるんだ」という小さな反発があった。その頑(かたく)なな気持ちを和らげ、距離を縮めてくれたのが富岡への旅だった。

 富岡で被災された秋元菜々美さんのお話をまなびの森の和室でお聞きした。彼女は「表現する」ということが「エンパワメント」になっていたようだった。座布団に座り、真っ直ぐな瞳で両手を一生懸命に動かしながら、舞台という芸術と出会って「回復」されていく姿を語ってくれた。その時素直に「ああ、やっぱり芸術には人を『回復』させる力があるんだ。芸術を好きで良いんだ」という思いが込み上げてきたのを覚えている。それが精神障害者のサポートをしてきた私が「エンパワメント」された瞬間だったのかもしれない。

 最後に、大切な年下の友人の話をしたい。出会った当時、はにかんだ笑顔が印象的な彼女は幻聴を聴きながら、フルートを演奏し、淡い色彩の繊細な水彩画を描いていた。彼女には大切な夢があったが、精神疾患により療養を余儀なくされ、それでも前を向いて自立を目指していた。症状の波が彼女を苦しめることもあったようだが、月日は流れ、長年温めていた男性との関係に区切りをつけ、昨年、婚姻届を提出し二人だけの生活を始めた。新居で料理に奮闘する彼女に、冒頭の「治療」うんぬんをメールしたところ返信があった。本人の許可を得て掲載し、エッセイの締めくくりとしたい。

 「私はアートは治療になると思います。菊池さんの意見とは違くなってしまうかもしれませんが、当事者としてはアートのお陰で私の病気は回復したと思っています。私はもともと芸術が好きではいましたが、脳を鍛えるにはうってつけのツールだと思います。私の病気も脳疾患ではあるのかなと思いますが、失った機能を回復したり、それ以上の力をもたらすのはやはりアートではないかなと思います。病気で身体が動かなくなったり、認知症みたいになって大変でしたが、ぬり絵をしたりうたを歌ったりして過ごしていました。好きだったからというのもあったかもしれませんが、それが身体の回復には良かったことだったなと思っています。今もフルートをしたり、絵を描いたりしてますが、表現したり創造することはリハビリでもあり、それ以上の力を与えてくれる素敵なギフトです。きっとアートに触れることで、今まで観たことのない世界に出会えると思います。美術館も、メンタルクリニックの役割を担えると思いますよ」


PROFILE

菊池 綾子/行政機関における精神障害者を対象とした相談業務、就労・就職支援業務を経て、現在は多くの障がい者が働く特例子会社に勤務。社員の環境調整や相談業務、他社や特別支援学校や関係機関との連絡調整や社内外での研修の実施などを行っている。

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