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「雑感」を記す —コンビーニングに参加して/メンタルヘルスについて考える/生きて在ることについて考える

篠原 史生(看護師・日本学術振興会特別研究員)
撮影:冨田了平

他者との関係としての私と「こころ」

メンタルヘルスとは何か? メンタルヘルスクリニックとは? その言葉で、私/わたしたちは何について語ろうとしているのか?

コンビーニングのテーマ「ミュージアムやアートプロジェクトは、メンタルヘルスクリニックになりえるのか?」について考えはじめると、そんな疑問が浮かんできます。コンビーニングの最初にわたしたち参加者へ投げかけられたのが、「あなたにとってメンタルヘルスとは?」という問いかけだったことも思い出されます。

私がコンビーニングをとおして改めて感じているのは、わたしたち一人ひとりの生・生活・存在は、個で完結しているのではなく、家族・友人・ご近所さんはもとより、その地域の自然や様々なコト・モノ、土地の記憶や歴史までも含めた、無数の「他者」との関係のなかにある(というか、関係そのもの)という感覚です。さらに、この感覚は、人の「こころ」とは「その人を取り巻く(治療者も含む)無数の人や物と交流のなかで息づいているもの」である(*1)、と語った精神科医・中井久夫の言葉とも重なりあうように感じられます。

「こころ」は、現在だけでなく過去や未来をも含めた無数の他者との関係のなかにある。そのように語るとき、私は「こころ」や「精神」を、科学的、客観的にあらわせる数値や指標によって分類・体系化して語るのとは異なる語り方で、人の「こころ」を語ろうとしているのだと思います。そして、人が生きて在ることや人の「こころ」をそのように捉える感覚は、メンタルヘルスという言葉で何を語るのかということにも関わっています。

わたしたち一人ひとりを取り巻く無数の人や物と交流のなかで息づいているものとして、人の生存や「こころ」、メンタルヘルスを語ること。それはつまり、ある人の精神的な変調はその人自身をも含む無数の他者との関係のなかにあるものと捉え、その関係のあり様が変容していくことで精神のあり様も変化していくと捉えること、なのだと思います。また、このようにメンタルヘルスを捉えると、それはわたしたちの日々の生活に普(あまね)く浸透したこの社会のあり様(わたしたちが内面化している社会構造・制度・価値規範)と切り離して考えることはできない、ということにも思い至ります。

そして、メンタルヘルスをそのようにイメージするとき、そこで語られるメンタルヘルスクリニックとは、わたしたち一人ひとりを取り巻く無数の他者との関係やこの社会のあり様に目を向けて、それらに対して何らかの働きかけをする(他者との関係/社会のあり様の変化を促す)場、というふうに言えるのではないかと思うのです。それは、街中に開業しているメンタルヘルスクリニック―精神的な変調をそのひと個人の問題として捉え、専門家がそれへの対処法を提供する(個人の変化を促す)場―とは異なる役割を担える場所なのだと思います(*2)。


異質な他者と出会い交わることができる場

では、そうした役割を果たすために、ミュージアムやアートプロジェクトはどのようにあることが必要なのか。これに関わって、思い出される2つのエピソードがあります。ひとつは、コンビーニング#1で「ミュージアムがメンタルヘルスクリニックになるのは可能なのか?」について話し合った時、“作品を鑑賞して感じたことを表現する場があるといい”という趣旨の意見が出ていたこと。もうひとつは、「芸術祭をメンタルヘルスの回復の機会と考えるにはどうしたらいいか?」という問いをめぐるやりとりのなかで、“対話の場が必要”と語られていたことです。

これらの話を思い出しながら、私がいまイメージしているのは、ミュージアムやアートプロジェクトがメンタルヘルスクリニックとしての役割を果たすためには、それらが、固定化された一方向的な関係性だけがある場ではなく、双方向的もしくは混淆的な関係性がうまれる場であることが必要なのではないか、ということです。異なる文脈、異なる経験、異なる身体を生きている人と人が、対話的に出会うことができる場、とも表現できるかもしれません(*3)。たとえば、このコンビーニングも、そういう場の一つといえると思うのですが、もっといろいろな形で、いろいろな人が入り乱れて、恒常的に、対話的に出会うことができる場であることが必要なのではないか、ということを思います。


自分自身や他者の脆弱さを顧みることでみえてくるもの

あともう一つ、ここしばらく私は「ケアの倫理」という考え方に影響され、「ケア」という言葉/概念が気になっています。「ケア」には多様な意味合いが含まれていて、その定義もさまざま議論のあるところですが、たとえばそれは「他者との関係性のなかで、他者(あるいは自己)の脆弱性に対する応答責任を果たそうとすること」(*4)と表現されます。「ケア」をひとまずそのように捉えるとすれば、ミュージアムやアートプロジェクトがメンタルヘルスクリニックになりえる、というとき、そこには何らかの形で「ケア」の視点が織り込まれている必要があるのではないかと思うのです。また同時に、私はこうも感じています。いまわたしたちが生きている社会は、「ケアを顧みないこと[無関心、無配慮、不注意、ぞんざいさ]」(*5)―すなわち、ケアの軽視や周縁化、ケア責任の不平等な配分など―によって成り立っている側面があるのではないか。そして、ミュージアムやアートプロジェクトも、そのことから免れていない側面があるのではないか。

「ケア」という視点を中心に据えて考えるとき、わたしたちはミュージアムやアートプロジェクトに、どのようにあってほしいのか。たとえば、こうした問いについて考えてみることも、ミュージアムやアートプロジェクトがメンタルヘルスクリニックになりえるためのヒントを探る手掛かりになるのではないかと考えています。

さいごに。こうして、あぁでもない、こうでもないと考え、言葉にして、他者に投げかけ、他者からの言葉をうけとって、また考えて…。ミュージアムやアートプロジェクトはメンタルヘルスクリニックになりえるか、なりえるためにはどうすればいいのか、について、これから先も、いろいろな場面で、いろいろな形で、対話を続けていかなければならないのではないか、と思い始めています。対話を続けること、対話の場を設定し続けること、そのこと自体がミュージアムやアートプロジェクトがメンタルヘルスクリニックになりえるための一つの具体的な行動であるような。そんなことも感じ始めています。

*1──村澤真保呂・村澤知多里『中井久夫との対話:生命、こころ、世界』(河出書房新社、2018年)17頁。
*2──たとえば、富岡町でのhumunusさんのツアー演劇《うつほの襞/漂流の景》や、《影のかたち:親密なパートナーシップ間で起こる力と支配について》をはじめとする飯山由貴さんの作品は、アートが関係/社会の変容を促す場としてのメンタルヘルスクリニックとなりえることを物語っていると思います。
*3──「対話的に出会う」という表現は、ロシアの哲学者ミハイル・バフチンの「対話」の思想を取り入れた「オープンダイアローグ」という精神医療の方法を紹介した次の本から借用しました。高木俊介『対人支援のダイアローグ:オープンダイアローグ、未来語りのダイアローグ、そして民主主義』(金剛出版、2022年)67頁。
*4──冨岡薫「道徳判断のその先へ。『ケアの倫理』がひらく“問い直しの倫理学”」『De-Silo』(https://desilo.substack.com/p/kaoru-tomioka-care 最終アクセス2023年1月19日)
*5──ケア・コレクティヴ著(岡野八代ほか訳・解説)『ケア宣言:相互依存の政治へ』(大月書店、2021年)1頁。

PROFILE
しのはら ふみお/精神病や精神障害とされるものについて、歴史学、哲学、社会学などの視点から関心を持ち、それらについて考えることは人間や社会について考えることだと感じるようになり、30歳で看護師免許を取得。その後は精神科病院や訪問看護ステーションに看護師という立場で身を置く。現在は、日本学術振興会特別研究員(DC2)として、精神保健医療福祉に関する歴史研究も行う。

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