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大江健三郎『セブンティーン』(1961)

 若き日の大江健三郎が上梓した問題作『セブンティーン』について考えを深めていきます。
 当時1959年から1960年にかけて安保闘争が激化し、日本社会が混迷を極めた時代を背景にした短編小説です。


あらすじ

 17歳の誕生日を迎えた「おれ」は、過剰な自意識を抱え、常日頃他人の目に怯えながら生きている。人生のすべてがオルガズムであったら……そんな夢想を抱いて自瀆に耽けることが唯一の慰めだった。「おれ」は左翼的な立場として、孤独に政治思想を深めていくが、それさえも自衛隊の看護婦をしている姉に論駁されコンプレックスが募っていくばかり。そしてある日、クラスメートに《右》のサクラをやらないかと誘われ、右翼の演説現場に足を運ぶ。夕暮れた街中でぼんやり演説を聴いているかれの中で、不意にある強烈な観念が目覚めるのだった。


 『セブンティーン』は過激な右翼活動家に目覚める主人公「おれ」の内面を、前衛的な語り口で描いた短編小説です。
 まずこの作品には実際のモデルとなった人物がいます。
 1960年10月12日に浅沼稲次郎暗殺事件を起こした右翼活動家・山口二矢です。若干17歳のかれは、当時日本社会党書記長・委員長を歴任していた浅沼稲次郎の演説中に同氏を刃物で殺害しました。そのわずかひと月後、東京少年鑑別所にて縊死します。(この事件は沢木耕太郎のノンフィクション『テロルの決算』で細かく語られています)。

 ……と一般的には言われていますが、長年大江健三郎を取材してきた文芸評論家・尾崎麻里子氏の『大江健三郎全小説全解説』では、次のような新たな事実が書かれています。

 『セブンティーン』の初出は1961年の『文學界』1月号であり、執筆の締切は11月後半でした。日付から考えても、事件によって着想を得て、そこから執筆を間に合わせるのは無理があります。これに気付いた尾崎氏が大江健三郎本人に訊ねると、明確な返答がありました。”そうです。経過だけ読むとモデル小説のようですけど、直接のモデルというのはありません。右翼的な宣伝、テロみたいなことを考えたり、書いたりしていた時に、そういう事件が起こってしまった。事件が起きたから小説ができたというのではなかった”(『大江健三郎全小説全解説』P68より)

 後に「地下鉄サリン事件」が起きる以前の1993年から1995年にかけて一年毎に発表された『燃えあがる緑の木 三部作』では新興宗教の危険性や暴力性が書かれていたりと、大江健三郎の社会の空気をかぎとる鋭敏な嗅覚、それを先取りして小説を書き上げてしまう先見性には凄まじいものがあります。しかもただ先取りするだけでなく、いずれも事件と小説発表とのタイミングはニアミスです。かれがいかに同時代的な作家であったかがうかがえます。

 『セブンティーン』もまた、先に述べたとおり同時代の社会を直接反映させながら、氏のもつ豊かな文学的想像力によって、ひとりの若者の内面を克明に照らし出しています。

 また本作は、短編でありながら様々な要素が広範かつ重層的に入り組んでいて、どこから語るか判断が難しいところです。とはいえ面白味に欠ける政治用語の羅列はなるべく避け、専ら小説を構成している諸要素に光を当てていきます。そして大江健三郎の特性とそれらの要素、他作品との間を自在に横断しながら、本質的な作品世界の読解を試みていきましょう。

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 それではここからは本編の内容について具体的に見ていきます。


 まず冒頭、「おれ」は孤独にひっそりと17歳の誕生日を迎えています。今日が誕生日であることは、家族からは忘れられています。そして「おれ」は浴室に閉じこもり、自瀆について延々と語っているという、哀愁すら感じられる場面から物語がはじまります。
 一見下卑た内容に感じられるかもしれませんが、大江健三郎の諸作品で描かれるそうした行為には、単に性的なものと片付けることのできない象徴が含まれています。

 一先ず、自瀆によって「おれ」が求めているオルガズムの果たす役割について見ていきます。

“おれは明日にたいして漠然とした怯えを感じた。しかし恐怖の夜からせめてほんの短い間でものがれるためには自瀆するほかにみちがないのだ。”

『大江健三郎全小説3』P22より

ああ、生きているあいだいつもオルガズムだったらどんなに幸福だろう、ああ、ああ、ああ、いつもいつもオルガズムだったら、ああ、ああ、ああああ、おれは射精し股座を濡らし、みじめな哀しいセブンティーンの誕生日をふたたび暗闇の物置のなかに見出して無気力に泣きむせびはじめた。

『大江健三郎全小説3』P22より


 かれの明日に対する恐怖は、死に対する恐怖に根ざしています。

“ああ、どうすればこの恐怖から逃れられるのだろう、とおれは考えた。おれが死んだあとも、おれは滅びず、大きな樹木の一分枝が枯れたというだけで、おれをふくむ大きな樹木はいつまでも存在しつづけるのだったらいいのに、とおれは不意に気づいた。それならおれは死の恐怖を感じなくていいのだ。しかしおれは、この世界で独りぼっちだった、不安に怯えて、この世界のなにもかもが疑わしく思え、充分には理解できず、なにひとつ自分の手につかめるという気がしないのを感じている。”

『大江健三郎全小説3』P21より


 樹木と枝葉との関係とは異なり、人間の肉体にとって死とは絶対的に孤独なものである。そういった強迫観念がかれを追い詰めているのがわかります。裏を返せば、死さえ克服するほどの、まさに大樹木のような絶対的な存在の一部になりたいという願望が見て取れます。

 ざっくりと「おれ」にとっての自瀆とオルガズムの役割を見てきました。ですがそれらがこの文学作品全体においてなにを象徴しているのかはまだ明らかになっていません。つまり「おれ」ではなく、大江健三郎がなにを意図しているのかついて……

 先ほど私は、「おれ」の行為が単に性的な枠組みに当てはまるだけのものではないとお話ししました。大江健三郎の作品には、自瀆に関する言及が度々なされています。
 代表的なところでは『叫び声』(1962)に登場する呉鷹男という人物(小松川事件がモデル)からも、「おれ」との共通点を見出すことができます。かれは社会から孤立した存在として描かれ「オナニイ魔」(文学的な意味づけを考慮して、敢えて伏字は用いず原文ママにしました)と呼ばれています。詳しい内容は今後の機会に譲ることにしますが、『セブンティーン』の「おれ」もまた、社会や学校、それどころか家族からも孤立しています。

 また後の『万延元年のフットボール』(1967)では、主人公・蜜三郎が深夜の暗闇でベッドに身を横たえながら、自瀆に関してこう語っている場面があります。

“しかし二十七歳、既婚、養護施設にいれた子供までいる現在では、手淫をする自分を考えると恥かしさが湧きおこってたちまち欲望の胚子をひねりつぶす。“

講談社文芸文庫 P8より


「おれ」や呉鷹男とは逆に、既に妻子のある蜜三郎という、社会の枠組みに身をうずめている者からは、自瀆という行為が取り除かれています(他の作品でも妻子もちの人物が自瀆に耽ける場面が描かれたものは、私の記憶の及ぶ範囲では見当たりません)。

 つまり自瀆が象徴するものは、〝社会から孤立した存在〟そして〝自己閉鎖的なオルガズムの状態にある存在〟であると言えるでしょう。

 この行為は社会との対比を象徴したものとして用いられていますが、場合によっては性的なテーマにも変換しうるため、大江健三郎にとっては非常に使い勝手のいい表現手段だったのかもしれません(ちなみにかれが性的なテーマを表現する場合、ほぼ必ず他者の存在が登場します)。

 このように私が高い蓋然性をもって考察しうるのも、作家自身が語るように、かれの小説群が〝語り直し〟の連続だからです。一度書き上げた作品テーマを、次の執筆へと引き継ぐのがかれのスタイルですから、何気ない描写の一つであっても作品の変遷を辿っていくと、そこから体系的な変化を読み取ることができるのが大江健三郎作品の大きな特徴なのです。

 次に、かれがオルガズムに象徴させたものは何であるのでしょう。

 まずは本編の物語を追っていきます。

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「おれ」は独りぼっちで庭の物置の中で一夜を過ごします。

 典型的な左翼の父は、〝アメリカ流自由主義〟を気取り、息子である「おれ」のことを放任しています。アメリカから輸入しただけの思想を盾に、出来の悪い息子の教育を放棄しているのです。
 母もまたアメリカ流の専業主婦像の典型であり、夫の意向に抑圧され、息子に対して心の奥までは干渉せず、表面的な振る舞いを見せるだけです。
自衛隊で看護婦をしている姉には論駁され、心の拠り所であった兄は、企業に勤めてから心を病み、話の通じない弱々しい人間に変わってしまいました。
 それでも唯一友と認める存在は、かれが「ギャング」と呼んでいる野良猫です。野良猫は気まぐれに小屋に訪れては、立ち去るときも忖度しません。他人の目を気にせず自由に生きるその姿は、かれのアイデンティティとは真逆であり、かれのもっとも憧れる存在です。

 みじめな哀しいセブンティーンの誕生日を暗闇の物置で自瀆に費やし、夜に独り泣いて過ごした翌朝、重い足を引きずって高校へ登校します。
 その日の体育の授業では、苦手な徒競走が行なわれ、当然の如くビリになりました。それだけならまだ救いがあったのですが、かれはゴールを目前にして小便を漏らしてしまい、みなから哄笑の的にされる始末。誰よりも自意識過剰で他人の目に怯えるかれの精神状態は、絶望的なほど追い詰められます。

 そこへ密かに「おれ」の思想的な性格を見抜いていたクラスメートから〝《右》のサクラをやらないか〟と誘われます。その男は「新東宝」というあだ名で呼ばれていて、学校の誰とでも仲良くなるような存在です。

 新東宝とはウマが合いました。《右》の演説会場に足を運び、サクラとして適当に場を盛り上げます。そして陽が赤らんできたころ、いつのまにか「おれ」は演説に聴き入っていました(右翼よりも左翼のテロのほうが多いことや、全体主義を統率するソ連のレーニン、中国の毛沢東らを批判し、赤軍連合をアカの豚◯郎と罵るなど、かなり過激な表現で語られています)。

 突然世界が沈黙したような感覚に捉えられた「おれ」は、急激に《右》に目覚めていきます。一切の恐怖が取り除かれ、堂々とした振る舞いを見せるようになり、(山口二矢さながら)若き天才として右翼団体グループに加入するに至ります。

 新東宝に対しても滔々と思想を語り、かれの尊敬を勝ち得ることになります。そして新東宝は、学校での「おれ」の体たらくは、すべて演技であったというふうに吹聴してまわり、これまでの惨めな事実はすべて英雄譚にすり替えられることになります。

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 少し長くなりましたが、ここまでの物語からオルガズムの定義を紐解いていきましょう。

 今見てきた物語の中に、オルガズムの瞬間が描かれています。

 そう、「おれ」が突然《右》目覚める瞬間です。この目覚めは本編でも唐突に書かれ、急激な「おれ」の内面変化に多くの読者は戸惑うことでしょう。

 ちなみに作中での《右》と《左》の対立は、それぞれ天皇制と安保闘争、超国家主義と民主主義の対比の文脈で語られています。殊に『セブンティーン』においては天皇制を崇拝する者としての《右》の思想が中心軸であり、ここを深く読み込んでいくとオルガズムの定義に到達する道がひらけます。

 かれらにとって天皇は絶対であり、神であり、超越的な存在です。そして《右》の人々は、その絶対的な存在の身体の一部に過ぎません。そのようにして戦時中、多くの若者が天皇の名の下に自らの生命を捧げました。

 この「天皇の身体の一部である国民」という感覚は、先ほど引用した「おれ」の願望とのあいだに繋がりを見出すことができます。つまり天皇の身体の一部という価値観は、大樹木とその枝葉との関係に置き換えることができるのです。

”おれは不意に、死の恐怖からまぬがれているのをさとった、おれはあれほど絶望的に恐れおののいた死をいまやまったく無意味に感じ、恐怖をよびさまされなかった。おれは死んでもおれが滅びることはないのだ、おれは天皇陛下という永遠の大樹木の若い葉にすぎないからだ。”

『大江健三郎全小説3』P44より


 上記の引用では、天皇が大樹木であるために ”おれ死んでもおれ滅びることはない”という副助詞から格助詞への飛躍というレトリック用いて、「おれ」と天皇との関係を見事に表現し、死を乗り越えたことが鮮烈に伝わってきます。

 家族の影響などで自覚の上では左翼だったかれが、《右》の演説に刺戟され、それまで眠っていた本性に目覚めたとき、まさにその瞬間、天皇とひとつになったという直観的な感覚に捉えられたのでしょう。性的な意味合いで捉えられがちなオルガズムが、ここでは〝天皇との合一〟という換喩的表現として描かれているのです。

”おれの男根が日の光だった、おれの男根が花だった、おれは激烈なオルガズムの快感におそわれ、また暗黒の空にうかぶ黄金の人間を見た、ああ、おお、天皇陛下! 燦然たる太陽の天皇陛下、ああ、ああ、おお!”

『大江健三郎全小説3』P43より


 「おれ」は自瀆による自己閉鎖的なオルガズムから、天皇=神との合一によるオルガズムへと移行しました。つまり本作においての真のオルガズムとは、絶対的、超越的な存在との合一であり、それまでの自瀆は漠然とした存在との合一を求めての〝ごまかし〟に過ぎなかっために、「おれ」はいつまでも孤独で死の恐怖から逃れることができなかったのです。

"おれは情熱をもえあがらせて考えた、そうだ、忠とは私心があってはならないのだ! おれが不安に怯え死を恐れ、この現実世界が把握できなくて無力感にとらえられていたのは、おれに私心があったからなのだ。私心のあるおれは、自分を奇怪で矛盾だらけで支離滅裂で複雑で猥雑ではみだしていると感じ不安でたまらなかった。なにかをするたびに、これはまちがったほうを選んだのではないかと疑い、不安で不安でたまらなかった。しかし、忠とは私心があってはならないのだ。そうだ、私心を棄てて天皇陛下に精神も肉体もささげつくすのだ。〔…〕おれは私心を殺戮した瞬間に、おれ個人を地下牢に閉じこめた瞬間に、新しく不安なき天皇の子として生まれ、解放されるのを感じたのだ。おれにはもう、どちらを選ばねばならぬ者の不安はない、天皇陛下が選ぶからだ。"

『大江健三郎全小説3』P43より


 「おれ」は過激な右翼少年へと変貌し、本編の文体もまさに本物の右翼少年によって書かれたかのように力強く、主観的な世界が展開されることになります。
 まさに右の右による右のための小説のような本作ですが、興味深いことに大江健三郎自身はどちらかというと左寄りのアイデンティティの作家として知られています。
 氏は、”自分の頭の中で、どんなに深く入り込んでいっても見つけることができないような人間を空想することから『セブンティーン』を書いたんです”(『文學界』1967年7月号)と語っています。

 ……と、ここからは、さらに深く入りんこんでいきます。

 それでは大江健三郎は、どのようにして自分とアイデンティティを全く異にする人物を、これほど鮮明に描き出すことができたのでしょうか。

 当然この疑問には、作家としての想像力にその答えを見出したくなるでしょう。しかし想像力にはまず、想像力を生み出す種、つまりイメージが必要です。想像力とイメージ……両者の区別について、氏が多大な影響を受けた哲学者・ガストン・バシュラールはこう唱えています。

”いまでも人々は想像力とはイメージを形成する能力だとしている。ところが想像力とはむしろ知覚によって提供されたイメージを歪形する能力であり、それはわけても基本的イメージからわれわれを解放し、イメージを変える能力なのだ。”

ガストン・バシュラール『夢と空』P1 序論 想像力と動性より


 そしてイメージとは、

”イメージとはわれわれの見解からすれば心的現実である。”

ガストン・バシュラール『夢と空』P20 序論 想像力と動性より


 これらのわかりづらい表現を、大江健三郎は次のように要約しています。

〝想像力というのは、自分が認識しているもの、知っているものを作り変えていき、変形していく力が想像力であって、そこから文学も現実のすべての活動も始まる〟(『大江健三郎 作家自身を語る』p78)

 つまりかれの話す、認識しているもの、知っているものという、すでに自分の中に備わっている原初的なものがイメージであり、それを発展させていく働きが想像力なのです(ちなみに大江は”サルトルの小説におけるイメージ”と題した卒論を発表しましたが、後にバシュラールの想像力論へ転向したと語っています)。


 ここで先ほどの、大江健三郎はどのようにして自分とアイデンティティを全く異にする人物を、これほど鮮明に描き出すことができたのか? という問題に戻ってみます。

 かれは文学の世界においても類稀な想像力を有する作家として認知されていますから、つまりその基となるイメージがあれば、そこから想像力を使ってそれを広げていくことができるといえます。

 そうなると作品を執筆する上でのかれのイメージが一番重要になりますが、ではそのイメージとは具体的に何でしょうか。
結論から述べますと、それは「超越的な存在との合一」であり、またそれに対する大江自身の憧憬ではないかと考えます。

 大江自身死の恐怖に強く囚われ、永年、生と死について問うてきた作家でありますが、その想像力豊かな死生観の根源には、かれの生まれ育った四国の森(愛媛県喜多郡大瀬村(現:内子町))に伝わる伝承が大きな位置を占めています。この伝承こそ、かれの合一観に密接に結びついています。

 かれは幼少の頃から森の伝承について祖母に聴かされて育ちました。その伝承は、多くの町や村でもそうであるように、しだいに語る者がいなくなり、時代の流れのなかで忘れ去られようとしていました。そんななか大江は、伝承を後世に残すために、それを基にした一本の長編小説『M/Tと森のフシギの物語』(1986)を発表しました。
 その作品のなかで、死後の魂について、次のように語られています。

”ここで人が死んだらば、魂になって森の高みに登って、樹木の根方にとどまる。それも「森のフシギ」が、この森の樹木を特別なものにしておるからでしょうが! そしてやはり「森のフシギ」に励まされて、魂は新しい赤んぼうの身体に入るのでしょう……
それは確かに同じことの繰りかえしであるけれども、なぜそのような繰りかえしがあるかといいますならばな、それは魂がみがかれて、「森のフシギ」のなかにあった、もとのいのちに戻れるまで、清らかになるためだと思いますが!”

岩波文庫 P403より


 この死生観は仏教の輪廻転生の構造とよく似ていますが、「森のフシギ」と呼ばれる神のような存在の息づく森の樹木へ、死んだ人間の魂が還っていくという点においては、この伝承は輪廻転生とは異なります。そして人の魂がそこへ還るとき、まるでそこから生まれてきたかような、とても懐かしい感情に満たされるのだともいわれています。

 つまりこの伝承は、死の恐怖を励ますものであり、やがて死んだ者は森へと還り、「森のフシギ」という超越的な存在とひとつになることが示されているのです。

 すでに『セブンティーン』における天皇との合一と、それによるオルガズムの感覚とに通ずるところが垣間見れますが、もう一つの作品を見ていき、さらにこの考察に磨きをかけ、より精確なものを目指していきます。


 序盤に少し触れた三部作の大長編『燃えあがる緑の木』においても、また別の形で超越的な存在との合一を象徴させたエピソードが出てきます。
その物語の主人公は、性転換により両性具有になったサッチャンです(両性具有ですが精神的は女性寄りです)。
 そしてもう一人が本作のキーパーソンである、ギー兄さんと呼ばれる思想家で、後に教会・燃えあがる緑の木を根拠地とする宗教組織の指導者です。

 第一部の終盤で二人は結ばれるのですが、その夜にギー兄さんは涙声でこう語ります。

”──僕ハ、ズット、コノヨウナ性交ヲ夢見テイタヨ、コレマデズット、ズット…… スバラシイ男トスバラシイ女ガ性交シテイテ、僕ガソコニ迎エイレラレル。ソレモ性ノ三位一体ヲ実現スル者トシテ…… ソノヨウナ性交ハアリエナイト知ッテイナガラ、ズット、夢見テイタンダ。コノヨウナ性交ヲ……”

新潮文庫 P362-363より


 なぜギー兄さんが感動しているのか。それはギー兄さんにとってサッチャンがスバラシイ人間であり、なにより両性具有者だからです。両性具有ということは、男でもあり女でもあり、そこに普通の人間とはちがう性の完全性、延いてはその完全性によってサッチャンに神を象徴させているのです。超越的な神は、性別で区別され得ないからです。

 つまりギー兄さんは、その夜の交わりによって、神との合一の歓びを見出したのです。


 他作品でも合一の場面は見られますが、これ以上挙げる必要はないかと思います。

 今見てきたところから、大江には一貫した「超越的な存在との合一」という死生観・宗教観が備わっているのを発見できます。何度も繰り返し〝語り直される〟そのイメージは、大江の根源的な観念であり憧憬であることは容易に読み取れるでしょう。

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 つまり結論として、左寄りの大江健三郎が右翼少年の内面をリアルに文体に反映させて『セブンティーン』を書き上げることができたのは、「超越的な存在との合一」というかれ自身の内面に深く根付いているイメージを基に、想像力によってそれ作り変え、変形させていたのだと考えることができます。

 同作品を読んだ三島由紀夫は強い関心を示し、「大江っていう小説家は、じつは国家主義的なものに情念的に引きつけられている人間じゃないだろうか」と色々な人に訊いてまわったらしく、実際に本人から大江宛に手紙が届いたそうです。そして大江は三島のその読み取りを正しいと認める旨の発言をしています。

 私の推測ですが、そうした国家主義的なものに引きつけられる由縁は、自分と故郷の森(子供にとってそこは世界のすべて)とが初めは一つであり、一時的に分かれているけれど、死後また一つになるという、その感覚が深く根を下ろしているために、国家主義的なものへの無意識の憧れとなって作品に表出したのではないでしょうか。


あとがき

 大変長くなりましたが、ともあれ『セブンティーン』は”自分の頭の中で、どんなに深く入り込んでいっても見つけることができないような人間”としての《右》の少年を、尖った文体で過激に表現したことから、かれの作品群の中でも異質であるとされています。しかし、このように作品群の変遷をたどり、またかれの作家としての性質を理解していくと、幾重にも折り重なった細い糸を束ねる、大きな一本のパラダイムの上でこの短編を読むことができます。

 1961年に書かれたとは思えないハードロックな文体。問題作にして名作、唸りながら読まざるを得ない凄まじい小説ですが、その過激さゆえ大江自身の代償は大きく、文壇の知り合いからは距離を置かれ、以降孤独な生活がしばらく続いたらしいです。

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