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外国をルーツに持つ生徒に向き合う

 都立高校で、外国をルーツに持つ生徒の学習支援を行っている。主にネパール、フィリピン、中国をルーツに持つ高校生が相手である。私の場合、二つの経験が、仕事に向き合う原動力になっている。一つは、生まれてから高校を卒業するまで18年間、アメリカで育った子どもの英語・日本語教育を行った経験、そして二つ目は、米国の首都ワシントンDC郊外のメリーランド州でも、教育環境がばらばらの6つの現地高校を渡り歩き、もみくちゃにされながら臨時教員をした経験、である。この二つが今の私の基盤となっている。
 
 2年前に日本に帰って来たが、大学時代のバックパッカー旅行から始めると、四半世紀以上も海外を拠点にしていた。アフリカでは開発援助の仕事を、そしてアメリカでは子育てや高校業務を通じて、深く地域コミュニティにかかわった。その間、足を使って見て聞いて情報を集め、実践してきた経験と言う名の「引き出し」の数は、相当なものになっている。そのたくさんの引き出しを開けて使って行かねばもったいないと思う。

 しかし、日本では当然、私は日本人として扱われる。日本社会が持つ、文化や論理、年齢やジェンダーなど社会の序列、各組織の伝統文化、が整然とあり、それを暗黙の了解で従うことが求められる。なので、とても気を遣い、慎重になるがあまり、「引き出し」を開けるどころか閉めたままひた隠し、気づけば開かなくなってしまっていた。

 でも、日本の高校で、外国をルーツに持つ生徒と、日本語学習や高校生活、日本での暮らしについて話をすると、複雑な家庭・文化背景とその環境がどんなか、簡単に想像がつく。すると気づけば、日本に帰って来て以来、開ける機会のなかった「引き出し」が自然と開き、彼らとコミュニケーションをとり、悩みを聞いている。

 昨日は、高校卒業生で現在、大学に通う中国出身の同僚(日本語学習支援)が、来月、5年ぶりに国に里帰りするという。聞けば、瀋陽出身だというではないか。私は大学時代、朝鮮地域研究をしていた。当時、中朝国境に興味を持って、ひとり吉林省延吉を目指して旅をした。そして、吉林大学日本語学科の教員や学生と仲良くなり、一か月近く大学寮にお世話になった。その延吉に、北京から瀋陽乗り換えで向かったのである。当時はネットなどなく、情報を集めるのにとても苦労したため、今でも、瀋陽駅構内の様子や、瀋陽の空気の匂いを思い出せる。なので、時間軸がかなり違っても、瀋陽や吉林大学の話で盛り上がった。その上で、彼が中国・瀋陽から両親に連れられて来日し、苦労した中学・高校時代の話を聞くと、どう接したらよいか想像がおよぶ。

 アメリカに暮らしていた頃は、ラテン・アメリカや、アフリカン・アメリカン、アフリカの学生が対象だったが、どうしても直接的なつながりを作れず、最後までお腹に力を入れて向き合うことができなかった。しかし、活動の土俵がアジア、しかも母国ニッポンに変わることで、当事者意識がわき、力の入れ方が変わる自分がいる。

 私の付加価値は何か。どこにあるのか。

 小学生と違い、高校生など学年が上がるほど、テクニカルな学習指導以外で、教師が直接果たす影響力は減って来る。それより、彼らが社会の中で、どんな友人関係を築き、そこからどのような刺激を受けるかの方が重要だ。そうした限られた役割の中、彼らと接する時は、「引き出し」の数が多ければ多いほど、柔軟に接することができる。そして、その開け閉めを存分にできる。少しでも彼らの日本での暮らしが豊かなものになり、高校を卒業しても路頭に迷うことなく、世界に向けて羽ばたいてもらいたい。


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