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【雑記】懐疑・省察ー確かなモノとしての「我(cogito)」と「行為(創生)」
誰しもが生きる意味を探している。この人類史において意味ある生をどのように全うしようかと企てる。これは絶対的なるものを打ち立てることができるのか、もしくは全て相対的な差異にすぎないのかという議論に分かれる。そうなるとあらゆるものを包括して絶対的なるもの、確かなるものとは何なのかということへと帰着する。
かつてニーチェのニヒリズムはそれを暴いた。あらゆるものは仮のものに過ぎない。脱構築の流れからあるとされてきたものは暴かれた。社会や経済などだ。そして最近ではハラリが虚構によって人類史を暴き、多くの人々へ強い印象を与えた。
意味を実体もない。全てが虚構であり、仮像である。そんなニヒリズム的世界をどのように生きれば良いのか。そんな人間と世界の問題に関わったのが啓蒙の時代から世界大戦、そして現代においても常に参考される、哲学の根源的命題である。それは懐疑であり、省察である。
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「全てについて疑うべし(De omnibus dubitandum)」と方法的懐疑を展開したデカルト(マルクスの言葉らしい?)。あらゆるものを疑った先に何を見出したのか。それがかの命題である。
我思う、故に我在り(Cogito ergo sum)
人間と世界の問題はここからはじまった。それは確かなものへの探究であった。思うことが根源的なのか。さらに重要なものはないか。ここでは中でも「行為(創生)」を追うことで、創造的懐疑を見渡す。
現象学
主観-客観の図式は永遠の円環構造を生み出す。理性が客観的であるとしても、その理性は主観から生じるものであり、本来はこの主観と客観の一致によって真理を得ようとしていた。しかし客観性というものを保証するものも主観から生じており、では主観とは何かという問題になる。その問題にしようとするものでさえ主観であり、という具合に外にでれば中に戻るという円環構造が成立してしまう。
デカルトは懐疑を徹底し、唯一疑えないものとしてコギト<我>を出した。しかしこれは神によって保証されていることに気をつけなくてはならない。我考える、その理性が神へと到達する。デカルトは主観-客観の図式で考えていたのだとフッサールは考える。
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フッサールは主客の一致を確かめることは意味がないと考えた。なぜなら主観によってでしか正しさをつかめないからだ。客観的なものから主観の正しさを検証する、例えば神がお前が正しいということはない、あったとしても神の正しさをどの客観が示すのか、つまり誰も<外>には立てないのである。こうしてフッサールは以下の問題を設定する(竹田『現象学』)。
主観は外に出て主客の一致を確かめられない(デカルトの方法的懐疑)
問題は一致ではなく、主観の中での確信の条件にある
現象学的観念論は、実在的世界の(そしてまずもっては自然の)現実的存在などを、否定したりするものではない。… 現象学的観念論の唯一の課題と作業は、この世界の意味を解明することにあり、正確に言えば、この世界が万人にとって現実的に存在するものとして妥当しかつ現実的な見地をもって妥当しているゆえんの、ほかならぬその意味を、解明することにあるのである。世界が存在するということ、… このことは、完全に疑いを容れない。けれども、生と実証的学とを支えるこの不可疑性の正当性の根拠を解明することは、これはこれでまた全く別種の事柄であろう。
我々が問題にするのはまさしくこの不可疑性(疑がえなさ)である。現象学に関してはこれ以上踏み入らない。ただこのあと現象学的社会学や現象学的存在論などその影響は広く行き渡り、現在でもなおその影響力を保持していることだけ追記しておく。
実存主義
実存主義を簡単に言えば、人間の自由な存在(実存)を示した哲学潮流とでも言えば良いだろうか。「実存は本質に先立つ」というサルトルの言葉が有名である。その中でも今回のテーマに合うものを抜き出す。
すべての「目的となる何ものか(Wozu, pour quoi)」は、連鎖のすえに、「目的となる何びとか(Worumwillen, pour qui)」に行きつく。この行きつく地点が、人間の「現存在」である。(松浪信三郎『実存主義』)
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行為する。行為することによって自己をつくる(faire et en faisant se faire.)
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サルトルは実存主義の第一原理として以下を挙げる。これが主体性(subjectivite)である。
人間は、彼がみずからつくるところのものより以外の何ものでもない。(L'homme n'est rien d'autre que ce qu'il se fait.)
近世における実存主義の脈絡。
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私は意欲する、ゆえに私は存在する(Volo ergo sum)
「神の死」の時代を宣言したマルロー。
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人間は彼がみずからつくるところのものである
これからの中国とその前の日本
東洋も同様に懐疑と省察により確かなモノ・妥当なモノを導き出そうとしている。
中国における天下主義を推し進める哲学者・赵汀阳(ちょうていよう)は関係の存在論(ontology of relationship)に世界を刷新する。
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いかなるfacio(行為)もすべてcreo(創造)である、これが存在論の始源の問題であり、永遠の問題でもある。… 存在と創造が一致するということは、存在の本源を反省する存在論は同時に創世論でもあることを意味する。これが真正の第一哲学なのである。
運命や歴史を決定する事件は事的世界に属しており、「我思う」ではなく「我行う」が事的世界を創造するのであるから、事的世界の表明する原則は「我行う、ゆえに我あり」(facio ergo sum)である。「我行う」こそが「我あり」の存在論証明である。そして、人間が事的世界の創造者であり、為すこと(facio)は必然的に創生(creo)を意味するのであるから、facio ergo sumは同時に「我創生する、ゆえに我あり」(creo ergo sum)を意味している。
そしてこの点は戦前の京都学派に近いという(福嶋亮太『ハロー、ユーラシア』)。
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ひとつは西田幾多郎が『哲学の根本問題ー行為の世界』(1933)においてデカルト的主知主義を批判した点があたる。
私が考える故に私があるのでなく、私が行為するが故に私があるのである
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また三木清も『哲学入門』(1940)において知識や意識よりも行為に優位性を認めた。
従来の主観・客観の概念は主として知識の立場において形作られている。… しかるに人間と環境との関係はもと行為の関係であり、行為の立場においては、働くものは単なる意識でなく身体を具えた人間である。
如何なる物であろうと、物を作るということが、行為の根本的概念である。人間のあらゆる行為は制作の意味をもっている。
創造的懐疑の時代
デカルト的省察を経て、確かなものを得る時、私たちはつくりあげる。世の中にあるものや目の前にあるもの、これらは単なる像にしか過ぎないのかもしれない。そもそもこの疑いを拭えない。では確かなものとは何か。それは創り上げたもの、つまり創造したものである。創造したことは確かに私の反映である。マルクスはかつてヘーゲルを用いてそれを精神の自己阻害による生産として表現した。想像し(我)創造する(世界)。これらが一致する想像即創造が確かなものへと変わるのである。
創造とは何かと深入りはしない。外的世界に影響を与えればすべてが創造(行為)である。今重要なのはその創造が確かさを生み出すということだけだ。最後にその詩的文章を引用して締めたい。
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What I cannot create, I do not understand.(私が自分で作れないものは、私が本当の意味で理解していないものだ)
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