【雑記】解体の学と技術の学

私は小さい頃から根っこからの科学好きである。しかし高校生の頃、数学と物理の授業が嫌いだった。化学はなおさら嫌いだった。数学も物理も化学も好きなのだが、あの「授業」という形式がとてつもなく嫌いだったのが。教育という名の通り、教え込まれるあの感覚。先生どもは全てを知ったかのように、それを確定した物事として叩き込んでくる。この違和感がとてつもなかったのだ。そういう場所では数学における公式というのは覚えて使うためのものだし、物理ならなおさらその色が強い。化学に関しては暗記だという。科学とは「なぜ?」を問うことではなかったのか。そうやって本物の科学者に教えられてきて、そういうところにワクワクしてきたらから、彼らがやった教育は凄まじいほどの科学への冒涜だと思ったのだ。受験がどうのなんて言い訳できない。恥を知れ。(質問したときに答えるくらいなら良いものの、質問したときにはぐらかす、あるいは受験で必要ない、範囲外だというあの自動人形の言動には大変呆れたものだ)

だから私は数理科学は自分で学んできた。数学は全ての公式を公理・定義・定理に分解し、導出するところから始めた。物理はそれらの数学の武器を用いながら微積によって法則を導出した。化学は実験からわかった内容を知ることから始めた。そうして、本来の科学的精神に則って自分の科学というものをつくってきたわけだ。良くも悪くも。

でも科学というのは明らかに疑うところから始まる。パラダイムなら尚更だ。マッハがニュートンの絶対空間・絶対時間を相対化し、アインシュタインが相対性理論をつくったように、前提を疑うことこそ科学的精神というものであろう。私は数学におけるデカルト座標(直交座標)から斜交座標、極座標への展開やユークリッド幾何学から非クーリッド幾何学などの展開を経て、数学における一般化への志向性と創造性を学んだものだ。そういった発展を楽しむゲーム性が数学にはある。ちょうどヒルベルトが「記号計算のゲーム」と呼んだように(その後、ヒルベルト・プログラムがゲーデルの不完全性定理によって無矛盾性を証明することは不可能に、、、ということも起きるから面白い)。それに対して、教育というのは全てを既知のものとして与えるからどうしようもない。私はデカルトがその発想に至った瞬間に立ち会いたい、追体験したいのだ。学ぶというのはそういうことではないだろうか。

そんな時期を送っていたから、ユークリッドの原論やガリレオの運動論、ニュートンのプリンキピアなどに目を通すわけである。そこでわかるのは、どうやら当時考えられていた数式と我々が扱っている数式に大きな乖離があるということだ。それもそのはずで、我々は義務教育において座標幾何を代数で表すわけだが、ユークリッドの時代にもガリレオの時代にもそういうのはないわけである。このデカルト座標を前提とした数学教育はデカルト座標を既知のものとして我々の経験世界に押し込む。それじゃあ現代の非ユークリッド幾何学は生まれないだろう。なぜなら相対化できないからだ。ニュートンのプリンキピアもそうである。教育上では運動方程式を習い、それをF=maという式で完結してしまう。自分の学習ではそこを微分形式で表現し、積分することで運動量保存則とエネルギー保存則が導かれるわけだが、しかしプリキンピアはそのような整然とした文章ではない。極めて遠回りな文章である。それもそうで、いまだそのときは解析学および微積すら現代に比べて全く発展していなかった。我々は既知の体系の上でそれを表現するが、では「なぜそうなるのか?」と問うと、体系性の中からしか説明できないのである。

このようにして、私は学における二つの側面を述べたい。ひとつは歴史の学、もう一つは体系の学である。歴史の目的はその起源を明らかにすることであり、その物事の本来の意図(本質)を明らかにする意味がある。もう一方の体系の学はその体系性の中で世界は閉じており、説明も発展もその体系の中で完結するものである。ポイントは「なぜ?」と問うたときに、その理由を歴史によって説明されるのが前者で、体系性の中で説明されるのが後者である。運動方程式がどうやって出てくるのかというときに、当時のニュートンの思索と動機から導き出すのが前者で、完結した体系、つまり定義から導き出されるのが後者である。これはどちらも必要な視点だ。どちらかが欠けていてもいけない。特に後者は一般化の次元で話される。前者の歴史という流れからは断絶されたひとつの次元であることに注意しなくてはならい。前者は不可逆的だが、後者は可逆的である。前者は事実を読み取るが(表象的・考古学的)、後者は真理を見つけ出す(極めて工学的・技術的)。

私は前者を「解体の学」、後者を「技術の学」と呼ぼうと思う。解体というのは結局のところ、なぜを突き止めるわけはその権威性を解体することにあると考えるからだ。全てを一度無に返すところから、追体験しようというのが解体の学である。一方で技術の学は全ては体系性の中で完結しており、それら(ルール)を用いたゲームから創造的なことを行おうというものである。これはきわめて技術的であり、ある物事がどうのようにしてできているのかという仕組みを暴くという点でもエンジニアリングの側面が強いと考える。こういった意味では前者は認識的で、後者は実体的とも言えるかも知れない。

科学という言葉もそうだが、普遍的な学問を志向するあまり、我々は既知の体系に実在性を錯覚してしまうことがしばしばあるように思える。エネルギーといえば、いまじゃ誰でもそれが地球規模の問題だと考えるが、そもそもエネルギーとは何かということを考えないといけない。それは蒸気に代表される熱力学と電気に代表される電磁気学という別個のものを力学における仕事というもので統合するところから始まっている。それ以前においてはエネルギーというものは存在しなかったはずだし、エネルギーというものをなしにものを動かす動力などを考える体系(技術の学)があったはずなのだ。科学の現在を見てみると、①無かった時代②類するものの時代③記号になった時代④権威性を帯びた時代という発展を遂げているように思える。②はさまざまな質を帯びていたけど、③になってそれは一意に定義される記号になった。さらにはその意味内容に権威性が帯び、大きな力となって、あたかも今も昔もずっと我々に不可欠なものとしてエネルギーというものがあったように描かれるわけである。これはどう見ても呪縛だし、發明はこれを乗り越えないといけない。そういった意味で、ある時代を切り取る解体の学と、時点での体系性を記述する技術の学が必要なわけだ。

ちなみに解体の学であるが、我々はその当時の経済社会的状況を加味しつつも、原典を読まなくてはならない。というのはプリンキピアの解説を見ても、現代と同じ数学記法で書かれているときがあるわけだ。明らかに現代と当時ではその意味も意図も違うはずである。それを解釈するためにはオリジナルのテクストを読むべきなのだ。最もそれは万人には許されてはいないのだから、できる限り気を付けそこに近い知の構築をしなくてはならないと思う。出来事だけでなく、その意味内容を十分にみるべきだ。

この一連の行為はなぜを起点にした發明の行為の下準備と言えるかも知れない。文献を読むように自然を読む。そういった解釈学的に、あるいは別の言葉で表される新たな学によって自然科学と社会科学が両立した学をつくりたいと常々おもうのだ。

PS.
解体の学は起源の学とも言えるかも知れない。ある時間層における体系を明らかにする行為はフーコーの考古学に近い(エピステーメ)。考古学はあるケオロジーであるが、この意味は「アルケオロジーという言葉は周知のようにギリシア語のアルカイオス(遠い昔)をロゴス(考察)するという意味であり、学問の過去を考察するという意味で用いられている(青柳正規・東京大学文学部教授)」とある。wikiからの引用によると「古典ギリシャ語の ἀρχαιολογία (ἀρχαιο [古い] + λογία [言葉、学問]、arkhaiologia アルカイオロギアー)」を翻訳したものらしい。私はここに古代ギリシャにおける始原を意味する ἀρχή を意味づけてみたいと思う。自然哲学と呼ばれるものにおいて探究されてきた万物の根源的原理(ラテン語:principium)はピタゴラスが数としたように、万物の起源を指し示す。アルケーの学というのは世界のはじまりとしての始原ではなく、<私>からはじまってその世界の起源を遡る意味での始原と言えるかも知れない。これは起源の学を求めたフッサールに強く重なる。

また最後に書いた読むことについては文献学(フィロロジー、Philology)と重なるだろう。「読む」はちょうど今井筒俊彦が原典テクストを虚心坦懐に読めばわかるという話を引用しつつ、鈴木孝夫が当時の人になりきってという注釈をつけた上で、極めて解釈学的な読みであることに注意しなくてはいけない。それは文化的枠組み(ポパー)や不可共役性(クーン)、翻訳理論(ムナン)で言われているように、基本的にあるテキスト群Aを別のテキスト群Bで所々翻訳しても、それはAをBとすり替えた限りでの理解でしかない。あのアラビア語やユダヤの砂漠を思い浮かべるには、例えBのテキスト群を母語にしてても、そのままAのテキスト群で物事を考え引き受けないといけないのである(だからそこに訳すとか注釈するとかはいらない)。引き受けたあとになって初めて、それが行われるはずなのだ(マルクスの革命思想と似ている)。そんなことを端的に指摘している文章を取り上げる。

 いろいろな学問が目まぐるしく発展していくー別に進歩とは私は申しませんけれどもー激しく展開していく現代世界の学問的状況において、われわれ東洋学に従事しているものが、いったいどんな態度をとるべきなのであるかということを、このごろ私はよく反省いたします。また、事実、時代の潮流はそういうことを私どもに反省させる、あるいは反省させずにはおかないだけの激しさを持っていると思います。ただ、安閑として手をこまねているわけにはいかない。昔ながらの文献学、いわゆる訓詁の学にあぐらをかいて現代学問に無関心を装ったり、その趨勢を白眼視していても仕方がない
 訓詁の学といいましても、今では古いテクストを読むその読み方、そしてテクストを読んで、それを解釈し、了解していく学問的主体性のそのものの問題が、新しい解釈学という形で大きな問題となってわれわれの前に立ちはだかっているのでありまして、ただ、昔ながらの文献学の方法で古い昔のテクストを読んでいても始まらないと思うのです。

『意味の深みへ』「スーフィズムと言語哲学」

PS.
技術の学においては基本的に過去は必要ない。というより、それを忘れた、乗り越えた次の体系、つまろ今の体系が重要なのである。これは認識論的断絶と除算的思考という極めて近代的な考え方なのではないだろうか。技術体系Aのある部分aに不備が生じてアップデートする。部分aを部分bにすると、bに沿った体系Bを作る必要がある。ちょうどソフトウェアの大規模アップデートを思い浮かべてほしい。ここでは常に最先端の部品によって全体を構成していることがうりである。部品→全体ゆえに、継承されてきた体系を削除し、代わりに今の体系を生き残った最高のものとするレトリックを含む。これはひとつは技術の枠内でパラダイムは起きにくいということ、技術がプラグマティックに行われているのではなく信仰によって行われていることを指す。特に後者は専門性が上がるたびにその傾向が強くなると言える。

PS.
小山慶太『エネルギーの科学史』におけるエネルギーの変遷を見て見ると、エネルギーという用語が導入されていない時代でもエネルギーに相当するものが保存されることを示していた(エネルギー保存則が示されるのは19世紀中葉、ラグランジュが1788年に『解析力学』において実質的なものを数学的に証明する)。ちなみにデカルトによる運動量を中心とした活力論争もある。

その後、蒸気機関の誕生に伴い、動力を熱から取り出すようになる。この時、熱とは何かという論争があった。1724年にブールハーヴェがカロリック(熱素)という重さのない物質(流体)とした。ラヴォアジエが1789年に出した『化学言論』においてもカロリックを元素として見ている。その間では、ファーレンハイトやセルシウスによって温度計が作られ、1760年にブラックによってカロリックを受け入れる能力である熱容量と潜熱が見出される。

やがて19世紀の熱の運動説の台頭によりカロリック説は葬られるが、カロリックを基本とした熱容量と潜熱はいまだに物理学の基本項目として定着している。小山慶太は「つまり、前提(カロリックの存在)は否定されても、それにもとづいて導き出された結論(熱容量、潜熱)はそのまま生き残り、今日に至っているわけである。ふつう前提が覆されれば、自ずと結論もまったく違ったものになると考えたくなる。ところが、そうはならなかったところに、科学の歴史の面白さがある。」としている。ここに物理量の興味深い事例が垣間見える。

カロリックに限らず、ラヴォアジエのフロギストン、光を伝達するフックのエーテルなど、今では支持されなくなった科学理論というものはたくさんある。通常はそれらは古い科学理論として、新しい科学理論に包括あるいは棄却されると考えられる。しかし、それらが一つの時代におけるエピステーメであったことを忘れてはいけない(このことを研究しているのがエピステモロジーなのでは:「例えばフロギストンがどう受容され排斥されたかなど=メタ科学史」;あるいは科学哲学や科学社会学、科学の価値論において代表されるはず:具体的な名称が浮かばないが…)。

文化相対主義的な立場で考えれば、それは棄却されたとか事実ではないというよりも、現在支持されている科学理論においての重要度が高くないだけである。だからある時はそれがむしろ帰ってくることもあるのだ(例えば小山慶太『<どんでん返しの科学史>では「甦る錬金術」として現代物理学の核力を挙げ、錬金術時代の様相と比較している)。科学を文化的に見ることについて別の記事で述べたが、文化相対主義的にある秩序のひとつの考え方として見ると、むしろそれが活きる系が生まれることもある。そしてむしろそういったプロトサイエンスな領域ほど、専門分化された科学と他学問の融合に関する見識を得られるはずだ。

話を戻すと、カロリックという前提を失いつつも、結論は支持されているというのは、自然観・自然哲学と現象の切り分けを示唆しているように思える。普遍的客観視的な自然現象は、我々の与える認識によって意味・価値を帯びる。カロリック型の自然観で見ようが、分子運動型の自然観で見ようが、熱は熱として存在する。合理性は非合理的な側面を削ぎ落とすことで(オッカムの剃刀)成立するが、削ぎ落とした部分にも熱らしさがあったことを忘れてはならない。断絶されたものにこそ人間にとっての意味が内在する。ここで示したいのは、体系Aと体系Bで同じものを指していても、それぞれの系で別の意味を帯びるという言語文化を前提とした上で、なぜカロリック系と分子運動系が熱容量についてはおなじものを扱えているかということである。自然現象は言語文化の系と対応しつつも独立していることがポイントなのだろう。それが科学語におけるひとつの側面なのである。

これはクワインの『ことばと対象』における「翻訳の不確定性原理」(ある言語を別の言語に翻訳するためのマニュアルには、種々の異なるマニュアルが可能であり、いずれのマニュアルも言語の傾向性全体とは両立しうるものの、それらのマニュアルどうしは互いに両立しえないということがありえる)ことにあたるだろう。それはやがてデヴィッドソンの根本的解釈へと受け継がれる。(岡本裕一郎『思考実験』)

人文社も理数工も同様であるが、古いものを古いものとして扱うのではなく、ある秩序系において無力である概念として見ることで、それが廃れたものではなく隠されたもの、あるいは殺されたものとしてみることができる。創造的な解釈学(創造的誤読)においてはむしろそういうものを現代と照らし合わせることで、新しい意味を帯びてくるというものだ。それがデリダがやったことだし、井筒が目指したことなのだ。進歩主義や西欧主義という前提から疑わなければ、古さという鎖からも解放できないのである。

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