普通は数学や科学というものの誕生を語るときは、哲学が持ち出される。すなわち、近代科学以前というのは古代ギリシャ哲学のアルケーに代表される自然哲学であり、また数学における思索というのもピタゴラス学派や論理学と密接した哲学的営みであった。
だが私はこれだけではその本質が足りないと思う。真に科学と数学を見つめ直すには、それを風土-文化的次元にまで落とし込まないといけないと思う。すなわち、科学と数学は文化が産み落としたという主張だ。プロテスタンティズムに引っ掛けたマートンテーゼやピタパンの事例を見るに、また科学人類学・科学社会学の成果を重ね合わせることで、科学・数学が文化的営みとして現象する。その手がかりとしての主張を少しばかりまとめたいと思う。
反映論者は、この「数学」を現実から抽象された世界と見ようとする。それにしても、いったん抽象されてしまえば、それ自体世界が動きだすと簡単にいえるものだろうか。自立した<世界>が作られ、自立した機能が発生しさえすれば、それが<数学の世界>だといえなくはない。数学にはそうした<自立>に依拠する性格がなくはないし、それがしばしば前提とされがちである。 しかし、この<自立>の過程そのものが人間的なものであり、その過程はある意味では常に未完成でありうる。個人にとっても、歴史にとっても。 この点では、<数学>は人間の作る<文化>としてあり 、それが数学ラシキモノの影を背負っている。考えようによっては、この人間の、この歴史に固有なものとしてしか、それはありえない。「2たす2が4にならない」というのを、怨念の言葉としてではなく、この影の領域を語っていると考えよう。 … 文字を使った代数にしても、極限を使った解析にしても、座標を使った幾何にしても、この16世紀の<小数の世界>の成立から始まるとさえいえる。それは、数学だけではなく、近代人の発想を規定してさえいる。 この<近代>が問題にされるとき、これが「数量化」として批判されることがある。それが、一面としては、この<構図>そのものであるが、そうかといって、この構図以前に戻ることは、いまさらできない。それでも、この構図は近代ヨーロッパという<文化>に固有のものである ことは、思い出されてよいことである。
森毅『数学の現象学』 これはアラビア数学(フィボナッチ数)やインド数学(ゼロの發明)を外観するだけでもよくわかる。日本の和算もそうだ。最近になって『数学の世界史』という本も出たが、これらのいわば焼き直しだとも言える。他にも『数学と文化』という本もある。私としては森毅の著書で十分だと思うが。
大げさついでに、生命誌の狙いーというより願いーをあげておきます。学問と日常、つまり知識と体験の一体化です。なにより人間自身が生きものであり、他の生物は人類誕生以来つき合ってきた仲間ですから、日常の体験の中で知ったことがたくさんあります。直観でわかることもある。他の生きものの生き方から学ぶことも多い。それとDNAを基本にした生命システムの学問的理解とは矛盾せず、むしろ補い合い、かさなり合うはずです。こうして生まれるのが知恵でしょう。生命誌は、専門家と素人、研究者と生活者などの区別はなしに、誰もが当事者です。あなたも生命誌の当事者と自覚していただきたいのです。 それは生命誌が文化として社会に存在するということでもあります。音楽や美術・文学が、もちろん専門家はいるけれど、それを誰もが楽しみ、自らもそれに参加しようとするものとして存在するのと同じように。科学はこれまでそうではなかった。これは悲しいことです。科学そのものが文化として存在できるようにしたい 。それも"科学"から"誌"への移行に込めた気持ちです。
中村桂子『生命誌とは何か』 ここに内容紹介文も引用したい。
私とはなにか、私たちはどこからきてどこへ行くのか――。この根源的な問いにたいし、分析と還元を旗印とする科学、とりわけ「生命科学」は、有効に答えてきただろうか。「生命誌」は、科学によって得られる知識を大切にしながら、生き物すべての歴史と関係を知り、生命の歴史物語を読み取る作業である。博物学や進化論、DNA、ゲノム、クローン技術など、人類の「生命への関心」を歴史的に整理し、科学を文化としてとらえる。
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000211720 この視点が非常に大事である。科学を文化として見る取り組みが欠けているがゆえに、応用科学、すなわち便利な科学が希求されるようになった。近代科学論にフォーカスした科学史を見れば明白だが科学は明らかに文化である。それは娯楽としての文化ではなく、文化的営みの一部として文化であった。
だから、科学は楽しまれていた。マイケル・ファラデーの一場面である。
James Gillray さて、それを遡る89年前の1812年、一人の若い製本職人が王立研究所の大講堂で、大勢の観客にまじり、電気分解による元素の発見で知られる花形教授ハンフリー・デイヴィーの公開講座を、ノートを取りながら、熱心に聞き入っていた。その若者こそ、マイケル・ファラデーその人である。 科学知識の普及を設立趣旨のひとつに掲げていた王立研究所は、啓蒙活動の一環として、一般の人々を対象とした実験の実演にも力を入れていた、それを目的として、まるでオペラ演劇かコンサートホールのような大講堂が造られていた。いま、「大講堂」と訳したが、そこは"Lecture Theatre"と呼ばれており、科学を楽しむ"劇場" であったのである。 演壇はデイヴィーが、そして後にファラデーが立った舞台であり、実験を通し科学の面白さがアピールされた。現代に比べ、娯楽の種類がはるかに乏しかった当時、科学のデモンストレーションが演劇や音楽などと同様、ショートしての要素も強かったのである。そして、そこは上流階級の人々が着飾って集う社交の場でもあった。まさしく"Theatre"そのものである。
小山慶太『光と電磁気』 Henry Jamyn Brooks そして同様に科学的営みが文化的営み、それも強い文化的営み、信仰心であったのは間違いない。ニュートンはもちろんであり、デカルトはそれを叙述した(仕立て上げるしかなかった)のだが、分けられるものではない。こと近代学の源泉であるイスラムにおいてそうなのだ。
伊藤 科学史ではそういうことになっているのですが、近代科学が行き詰まった時点でもう一度考え直してみると、イスラーム科学のあり方をポジティブに考えてよい面もあると思われますので、そのことに触れましょう。イスラーム科学の第一の特質として、その中心にイスラーム思想がある。このイスラーム思想というのは科学研究と根本的に相反するものではない と思うのです。 それどこか、『コーラン』でも、自然には神を知るための多くの手がかりがあるというふうに考えられていて、「地上には信ずるものの徴(アーヤート)がある」 という言葉がある。その徴を明らかにするために自然研究することはむしろ奨励されている。だからイスラーム思想は決して科学を否定しない 。 また、これも有名な言葉ですが「イルム(科学、知識)はすべてのモスレムの男女の義務である」というハディース(ムハンマドが語ったとされる伝承)があります。 ですからイスラームの科学はイスラームの信仰と矛盾しない。 とくに自然を探求することを通じて、神と一体になるという「グノーシス」の思想はイスラーム科学を特徴づけているもので、そこから錬金術とか占星術などの秘教科学が非常にさかんになった わけです。 この「グノーシス」という神秘主義的認識は、西欧ではどうも異端になり、それで抑圧されるのですが、イスラームではむしろそれがいわば正統になるといってよい。ここにイスラーム的知と西欧的知に大きな違いが出てくる一つの根源があるのではないかと思うのです。イスラームと西欧を科学について比べると、両方ともギリシャ思想の遺産は受け継いでおり、この点では区別がないばかりかイスラームのほうが一歩先輩ですね。また実験的方法ということも西欧の近代科学はいうのですが、これもイブヌ・ル・ハイサム(11世紀の有名なアラビアの科学者)なんかがさかんにやっていたことだし、この点でも区別をつけるのはむずかしい。それから一神教ということをいっても、両方とも一神教なのですね。 それにもかかわらず、一つはいわゆる今日の近代科学的な知の方向へいったし、他はもう一つの知の方向へ進んでゆく。ここのところを問いつめていってどこで分かれるのかと考えてみると、近代西欧の科学にはデカルトの思想があった。このデカルトが世界を一様な「延長」に還元し、それをすべて幾何学的に処理してゆく。そしていっさいの内的質というものを全部とり除きましたね。そこから西欧の科学的合理主義が出てきて、すべての内面性を除去していくわけです。結局、デカルト的知性、これがあるかないかで「分かれ道」になったように思うのです。 イスラームには、デカルトの革命がなかった。デカルト的な世界の機械論化がなかった。このデカルト的機械論は今日からみると、必ずしもいいことばかりだと思いません。ある意味でデカルト的知性は、いまやひとつの限界に突き当たっているともいえますから。
井筒俊彦『叡智の台座』「伊東俊太郎 イスラーム文明の現代的意義」 異端とされたグノーシスの思想は20世紀においてアンリ・コルバン含む、イスラーム学者によって再発見されたと私は見ている。
Twitter で調べているときにアンリ・コルバンの「想像的世界」(ムンドゥス・イマギナリス)が「詩と芸術と科学の一体化した中間領域だ」と主張してアレクサンドル・コイレのヤコーブ・ベーメの挿絵が使われているなどがあった。
よは、アカデミアを一歩離れると主張が曖昧であるということである。それでもアンリ・コルバンの想像界をはじめ、錬金術などをみるとパラケルススなどの近代科学の源流としての肖像が現れる。我々はこの強い文化的側面(信仰)を見逃すことはできない。
宗教というのは科学的な理性的なものを阻害してきたと考えられてきた。それは魔女裁判やガリレオの異端審問からもよくわかる。一方でイスラームはそれを推し進める原動力となり得たのだ(しかし後に失速する、微積を取り入れなかったからという説もある)。
このようにして、科学や数学は文化の側面で捉えることが可能となり、同時に多元的な文化に基づいた新しい科学の創出も可能になるのではないかと考えられる(例えば東洋科学)。
ちなみに松岡正剛の千夜千冊でもそのためのヒントが挙げられている
おそらくわれわれの思索や行為が数学化する前、あるいは哲学化する前に、意識や心がそれぞれ(花と虫)に向かわざるをえなかった事情があったにちがいない。その事情をわれわれの営みに突きとめるのは、脳科学や認知科学を総動員させる必要があるほど微妙な事情なので、容易には「数学と哲学が分化する前」を言い当てるのは難しいだろうけれど、それでも、そろそろそこへ向かうべきだろう。二つの先駆例を紹介しておく。
https://1000ya.isis.ne.jp/1836.html PS. そもそも自然哲学と自然科学の分化、芸術家から科学者の誕生、日本における究理学を見れば、分化的なものは十分想定できる。それが文化の次元なんだろう。グノーシスにおける科学と人文の並列はもう少し詳しく調べたい(例えばハンス・ヨナス)。特にイスラームを中心としてである。
PS. この取り組みに寄与するものとして文学を取り扱いたい。岡潔や寺田寅彦などの窮理社ももちろんであるが、SF文学・幻想文学まで広く扱うことに意義があると考える。例えばジュール・ヴェルヌ論というものを再考する価値はあるのではないか。以下、ミシェル・セールの序文である。
ジュール・ヴェルヌは、その偉大な才能を発揮して、ある驚嘆すべき企てーつまりそれ自体《脅威の旅》の名に値する企てーを試みた。それは、「科学」を「文化」に組み込む作業だった。地殻の形成に岩石が部分的に関与しているように、文化的な教養の一部として科学があることを彼は物語ったのである。
『ジュール・ヴェルヌの世紀』 PS. たまたま見ていた「広中平祐 × 岡田節人「独創とは何か」」(1987年9月5日放送NHK)の動画に文化の話が出ていた。広中平祐の語りなのだが、むしろ科学は文化になっていないという。これはアマチュア精神の科学が産業化を経て、また高次の好奇心ベースの文化になり得ていないと指摘しているのではないだろうか。以下引用である。
広中 アメリカから日本へ帰って講義を始めて思ったんだけどね。アメリカの大学の学生というのは、僕はハーバードにいたわけだけど、ハーバードの学生というのはね、聞くとね、テーマを持っているんですよ。生物で言えばなぜ虫が飛ぶのかというようなのをね。そういうテーマを持って道具を集めようとしています よね。 岡田 そうです。 広中 そこでね、日本の学生がちょっと不安だなと思ったのは、なんか道具を持っていってね、それでなんかできないかな、なんかできないかなと言っているわけなんです。 岡田 その通りです。 広中 僕はこれちょっと逆だなーと思ったことがあるんだけど。科学というのがね、文化になっていないということだね 。文化だとしたら、それこそなぜ木には葉があるんだろうとかね。 岡田 そうです、それで良いんです。ほんとはじめはそれだけで良いんです。 広中 それが文化だよね。 ところが道具というか、遺伝子工学は道具だよね。 岡田 道具です。広中さんがアメリカの大学の学者のことを仰ったが、それは生物学、実験的科学をやる人間が日本風であったら困るんですがね。例えば私が学業をとった人間から相談を受けるでしょ。僕はこういうことをしたいと。まず問題点はね、「こういうことがしたい」の「したい」というのが恐ろしく理念的というところがある 。虫が飛ぶのが面白いというわけではないんですよ。 広中 そうじゃないといかんな。 岡田 そうじゃないといかんのです。でもそうじゃないんです。僕なんかしたいと、お前が何かしたいというても実験で近代科学、近代生物学にふさわしい実験をしようとすると、一人でできるわけがない。まず科学研究費をどこからとってくるかとか、金集める、人集める、一人でできるわけがない。はじめから諦めなさいと、そういうことを初めから思っているのは不遜であると。そうするとどうなるか。次すること。自分がしたいと思うことをやっている研究室はどこにあるか。で自分がこの研究は面白そうだなと思うことをやってる世界のボスは誰であるか。それを探す。探すためには年寄りは十分にお手伝いをしましょう。で探してここが一番面白そうですとこういうふうになると、まぁ京都も岡崎も東京もなしに行く。そういうやり方のステップが日本の若者はまだちょっと甘えているんではないでしょうかね。自分の思った通りの道筋はそうなっているんだと、それを実行するということで、まぁボツボツ出てきましたけどね。確かに本当にボツボツ出てきました。 広中 確かに面白いものがいますよ。
ビッグ対談 「独創とはなんだ」 広中平祐 × 岡田節人https://youtu.be/FvHRc6NbiaA?si=oMqezVjxWXrdtYq9 つまりここでいう文化というのは岡田さんがいうように理念とは対称的な自己に根付いたもの、実感(あるいはセンス・オブ・ワンダー)ということであろう。だから何かをしたいという場合も、それが自分から離れてするべきではないと。〜だと思うから、ーをして、こうしたい、というような実感が伴った、文化的な科学活動でなくてはいけないというのである。それがテーマドリブン型の研究というものなのだ。
PS. そもそも文化とは何かということをあえてここでは述べなかった。というより文化とは私が思うに夢中空間に現象するもので、未だ言葉にならざるものの表象空間だと思っている。というより、実際そうなのだ。あの有名な太宰治の名言の通りなのだ。
勉強というものは、いいものだ。代数や幾何の勉強が、学校を卒業してしまえば、もう何の役にも立たないものだと思っている人もあるようだが、大間違いだ。植物でも、動物でも、物理でも化学でも、時間のゆるす限り勉強して置かなければならん。日常の生活に直接役に立たないような勉強こそ、将来、君たちの人格を完成させるのだ。何も自分の知識を誇る必要はない。勉強して、それから、けろりと忘れてもいいんだ。覚えるということが大事なのではなくて、大事なのは、カルチベートされるということなんだ。カルチュアというのは、公式や単語をたくさん暗記あんきしている事でなくて、心を広く持つという事なんだ。つまり、愛するという事を知る事だ。 学生時代に不勉強だった人は、社会に出てからも、かならずむごいエゴイストだ。学問なんて、覚えると同時に忘れてしまってもいいものなんだ。けれども、全部忘れてしまっても、その勉強の訓練の底に一つかみの砂金が残っているものだ。これだ。これが貴いのだ。勉強しなければいかん。そうして、その学問を、生活に無理に直接に役立てようとあせってはいかん。ゆったりと、真にカルチベートされた人間になれ!
太宰治『正義と微笑』「四月十七日。土曜日。」 カルチベート(cultivate)とは「耕す」という意味でそれは土地もそうであるが、同様に教養だとか友情だとかもそうなのだ(https://www.oed.com/dictionary/cultivate_v?tl=true )。もともとはラテン語のcultivus「耕された」・ラテン語のcultus「ケア、労働;耕作」・cultivōから来ている(https://www.etymonline.com/jp/word/cultivate )。そして分かるように、我々が現在主題に扱っている文化(culture)もまた「耕作」からきているのだ(同様にagriculture(農業)も)。以下、語源の引用である。
culture(n.) 15世紀半ば、「土地を耕すこと、作物を育てるための地球を準備する行為」という意味で、ラテン語のcultura「耕作、農業」または比喩的に「世話、文化、敬うこと」からきています。その過去分詞はcolere「守る、管理する;耕す、培養する」を意味します(colonyを参照)。植物に成長を促す行為としての「作物の耕作や養育」は1620年代に使用されて、1796年までには魚、牡蠣などにも使われるようになりました。そして、1880年には「適切な環境でのバクテリアや他の微生物の生産」に転用され、1884年には「そのような培養の産物」を意味するようになりました。 教育を通じた「育て上げていくこと、精神の体系的な向上と洗練」の比喩的な意味は、1500年頃に確認されています。Century Dictionaryによると、「19世紀までは、メタファーが関連していることを強く意識した場合を除いて、一般的ではなかったが、Ciceroによってラテン語で使用されていた」とのことです。1805年までに「学問と趣味、文明の知的な側面」という意味が見られます。さらに、「特定の人々の集合的な風習や成就、特定の形の集団知的発展」という密接に関連する意味は、1867年までに見られます。
https://www.etymonline.com/jp/word/culture 我々はここにひとつのギャップを見る。というのは文化というと何か古臭いようなイメージ、あるいは格式ばったイメージを持つのだ。それはこと伝統文化という言葉に代表されるものであろう。一方で語源を見ると、それは知的な側面を指すとある。ここに何かしら土着的なイメージと教養的なイメージの混在が見られる。おそらく欧州においてはオペラや絵画を見るようなことが文化的と考えられているのだろう。では土着的なイメージというのはどこからきたのか。もともと言葉自身がそうであることももちろんなのだが、おそらく文化人類学という文化をひとつの枠組みとしてみる考え方(タイラーは『原始文化』(1871)の冒頭で「文化または文明とは,知識,信仰,芸術,道徳,法律,慣習その他,社会の成員としての人間によって獲得されたあらゆる能力や慣習の複合総体である」と定義した )、そして西欧的な文化を進歩史観の呪縛から解き放ち、未開社会を同様の系列で語るようになってから、その保全ととともに文化というのが土着性も帯びたのではないかと考える(詳しくはわからない)。そうやってみると、文化という観念も我々の時代の中で作られたものだと感じられるわけだ。(例えばブルデューの文化資本(le capital culturel))(参考:https://yamauchi.net/blog/files/history-of-culture.html 、https://note.kohkoku.jp/n/nbc333222e976 )
さて日本語における文化という言葉はまた別の歴史がある。柳父章「一語の辞典「文化」」によると、「刑罰威力を用ひないで人民を教化すること。文治教化。」として中国漢籍(周易・後漢書?)から引用されていたようだ。そして近代になってドイツ語・クルトゥール(Kultur)の訳語として使われていたらしい(https://www.jc.meisei-u.ac.jp/course/98/ )。この文とは武に対するものである。ゆえにヘボンは学問などと訳した。やがて物質と精神という分け方において文明と文化という観念が与えられたと考えられる。
さて本題に戻るとして、我々が普通文化という時のそれは西欧的観念に従ってカルチベートすることに当たる。文治教化とは要するに政治的な教育であるが、むしろそれは土地の権力として読み替えることで土着的な意味合いを持つ。すなわちその土地の枠組みを定めるものとして、それは共通観念が土壌から自生するイメージを持って、文化と名づくとみて良いのではないだろうか。
太宰治の小説にあるカルチベートはまさしく英米文学によるものであるが、こう見ると、先の広中による「科学が文化になっていない」というのがよくわかる。つまり文明に対して後進的な文化という現代の伝統文化的な枠組みではなく、自身の中で土壌として耕されていない、カルチベートされていないという考え方なのだ。すなわち単なるモノマネでしかない。それを分解し、吸収し、栄養とする。そのプロセスが踏めていないという指摘である。その果てに文化的な自生というものがあるのだ。
ここで私が文化という言葉をどのようなニュアンスで用いているか表明しなくてはならない。私の場合は井筒俊彦の言語文化論を通ってジョルジュ・ムナンの翻訳理論、カール・ポパーのフレームワーク、トーマス・クーンの不可共役性、ガダマーの地平融合という文化的枠組みの問題として見ている。その下敷きには文化記号論が存在し、その中の文化的普遍者(cultural universals)が主軸にある。すなわち、深層から表層へとつらぬくコトバによる文化的枠組みというものを我々は持ち、異なる文化的枠組み同士は完全なる翻訳はできないが、しかしそれらの衝突によってより高次の文化をつくりだすという考え方である。そしてこの文化の構成単位というのが単なる記号ではないことに注意したい。井筒が言うには元型的イマージュによるものだとする。私は単にイマージュの秩序体を文化に見ている。なぜこれほどややこしい概念で話すのか。最後に井筒の文化の考え方を引用しておきたい。
文化とは、そもそもどのようなものであるのか。といっても、私はここで、ことさらに「文化」を定義しようと思っているわけではない。世の中には、特に人間的経験の事象の場合、それを学問的あるいは哲学的考察の対象として取り上げる時、うまく定義できないもの、定義しないでおいたほうがかえっていいものがたくさんある。数学の記号組織のようなメタ言語の場合には、使用する辞項を初めにきっちり定義してかからなければ、どうにも動きようがないが、自然言語で、わけても抽象概念を取り扱う場合など、語の定義を無視して論議を始めたほうが、ずっとわかりやすくなることが多い。定義的に問題にしなければ、誰にもよくわかっている。 無理に定義しようとすると、わけがわからなくなる。アウグスティヌスの時間論がその古典的実例である。「文化」もそういうものだ、と私は思う。 今日、我々は「文化」という語を終始使っている、日常的な会話においてすら。我々にとって、「文化」はごく普通の、ありふれた言葉の一つにすぎない。他のすべてのありふれた言葉と同じく、「文化」は我々の常識的理解の次元では、明瞭な意味をもっている。「文化」といえば、誰でもわかる。だが、この語によって本当に何が意味されているのか、それを多少とも正確に定義しようと思うと、たちまち困難に突き当る。「文化」は、意味漠然たる曖昧語。それの指示対象を明確に同定することができないのだ 。 元来、文化という概念そのものは、我々日本人にとって、外来の概念である。言うまでもなく、源は西洋文化。西洋文化から借りてきた概念を、「文化」という形で日本語に翻訳した。しかし、いまでは、誰もそれの外国起源を意識しないほど、それは普通の言葉になりきっている。日本だけではない。今日、非西洋世界の至るところで、ほとんどすべての言語ー少なくとも、すべての文化語ーが、それぞれ「文化」に該当する語をもっており、それらが、ほぼ万国共通の概念の記号として使用されている。「文化」は、まさに、記号学者のいわゆる「文化的普遍者」(cultural universals)の一つなのである。 … 「文化」概念をめぐる事態が、およそこのようなものである故に、私はむしろ、ことさら厳密な定義を避けて論を進めようと思う。先にもちょっと言った通り、「文化」という語は、定義しないで使えば、かえって、なんとなく意味がわかるのだ。 ただし、そのなんとなくわかる常識的な意味内容を、以下の所論の出発点とするに足る程度まで、はっきりさせておく必要はある。そこで一応、仮に、「文化」とは、ある人間共同体の成員が共有する、行動・感情・認識・思考の基本的諸パターンの有機的なシステムである、と考えておくことにしよう。 これでも一種の定義かもしれないが、定義としても、要するに暫定的、表層的な定義にすぎないのであって、「文化」の源に「言語アラヤ識」を見ようとする私の意図から程遠い。
井筒俊彦『意味の深みへ』「文化と言語アラヤ識」 定義の絶対性を相対化する。ここでもうひとつ文章を引用しておく。
人間知性の正しい行使、厳密な思考の展開、事物の誤りのない認識のために、「定義」の絶対的必要性をソクラテスが情熱をもって強調して以来、思惟対象あるいは認識対象の「本質」をきわめるということが西洋哲学伝統の主流の一部となって現在に至った 。それが「本質」論として主題的に取り上げられるかは否かは別として、「本質」の問題性は、様々な名称、様々な形の下に、西洋哲学の歴史を通じて常に思想家たちの思惟を支配してきた。だが、西洋哲学だけではない。東洋でもーいま仮に極東、中東、近東と普通呼び慣わされている広大なアジア文化圏に古来展開された哲学的思惟の様々な伝統を東洋哲学という名で一括して通観するとー「本質」またはそれに類する概念が、言語の意味機能と人間意識の階層的構造と聯関して、著しく重要な役割を果たしていることに我々は気付く。
井筒俊彦『意識と本質』 思うに、定義という分節によらない、イマージュによる事物の把握が文化においてもなされなくてはならないと私は思う。だから私は文化を「遊びの夢中の連鎖」くらいに捉えている。