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「羅生門」映画感想文


 大学の授業で1970年代の映画をいくつか見て、その中の一つに「砂の器」があり、脚本が橋本忍さんという事を知り、そういえば昔見た「七人の侍」「羅生門」もこの人が脚本だったなという事を思い出して、中学生ぶりくらいに2回目の「羅生門」を見てみました。

 原付で20分ほど大きい道を進んだところにあるGEOでJAFの無料クーポン使ってDVD版を借りました。レンタル期間が7日から14日間になっていて驚きました。サブスク隆盛期のこの時代にあと何年レンタルビデオ屋が存続できるのか分かりませんが、サブスクと縁がない人種や古典を見ようとする人にとってはまだ必要な存在です。

 昔の映画って日本語なのに何言ってるか聞き取りづらくて、自分はDVDを再生するときに字幕付きで見ようと思ったのですが、メニューにチャプターしかなくてあぁ、と思いました。

 「羅生門」は1950年公開で、白黒で、本編88分で、原作モノ(芥川龍之介の「藪の中」と「羅生門」)で、監督は黒澤明で、主演は三船敏郎です。

 当時の第12回ヴェネツィア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を取りました。戦後すぐの段階で日本映画が海外に注目されるようになったきっかけとなる出来事であり、あまりにも予想外過ぎて、当時の授賞式では製作陣はおろか日本人すら現地の会場におらず、そこら辺の通りすがりのベトナム人をステージに引っ張ってきてトロフィーを手渡して式を成立させたなんてトンデモ話がwikipediaに書いてます。

 「羅生門」と言って真っ先に思い浮かぶのは、高校の国語の教科書にも載っている芥川龍之介の短編かこの映画です。又の名を「羅城門」と言い、いわゆるただの城門のことです。ゲームとか漫画にも出てくるようなやつの日本版的な。日本ではあの平城京・平安京の南端中央の大城門のことを指す名称でもあるようですが、実在したのかどうか・固有名詞だったのかどうかなどを現在も考古学者さんたちが研究中です。

 そしてこの映画において芥川龍之介の短編「羅生門」はほとんどただの場面背景に過ぎず、映画の筋書きは同氏の別の短編「藪の中」をもとにした橋本忍の脚色稿と黒澤明のオリジナル場面で構成されています。自分は筋の話だけしようと思います。

 この映画はジャンルで言うといわゆる「法廷モノ」の形式をとっています。映画「シカゴ7裁判」や「12人の怒れる男」しかり、ドラマ「リーガル・ハイ」や「大岡越前」シリーズしかり、ゲーム「逆転裁判」シリーズしかり、弁護士モノや裁判モノというのは国内外・時代問わず人気があります。身分差や貧富の差、権力を超えて、粘りや団結を通して弱きが強きに勝つ、最後には正義が勝つ。もしくは、劇中通してずっと燻ってもやもやして分からなかった謎が一気に氷解する。そんな爽快感・カタルシスをわかりやすく得られることが人気の秘訣であり、お約束でもあります。(そんな意味でこれらのジャンルは文学性とは逆に位置する、極めて娯楽性の高いジャンルです)

 「羅生門」の凄いところは法廷モノのそんなお約束をぶっ壊してきたとこ ろです。

【凄いところ①】「真実に到達しない」

劇中ではある殺人事件の臨場者の3人、加害者・被害者の妻・被害者(降霊術で話せるようになります)そして事件の一部始終を覗き見ていた木こりがそれぞれ証言をしていくのですが、4人とも内容がそれぞれ矛盾しており、観客には最後まで真実が提示されません。死体が一つあるので、誰かが殺しをはたらいた事だけは確かなのですが、話を聞けば聞くほど訳が分からなくなる。「推定無罪」「証拠」の概念が如何に重要か、人間の言葉がそれ単独ではこんなにも危ういもんなのかと愕然とします。誰も信じられない。

しかしよくよく考えてみれば、決定的な証拠や誰が善人であるかの確証などなどは現実世界ではほぼ存在しないものです。「良い人」とは「自分にとって都合の良い人」の略であるという言葉もありますし、絶対不変の善性や真実をよしとする風潮を否定しているこの映画のスタイルが好きです。

【凄いところ②】「良いやつor主人公がいない」

法廷モノのお決まりの一つに「良いやつ・味方が誰なのかあらかじめ分かる」というのがあります。刑事コロンボシリーズにおける「犯人が最初から判明している」形式みたいに、「悪役が誰かはわかっていて嘘をついているのは確定、あとはそれをどう崩すか」に主眼がおかれ、最後には綺麗な勧善懲悪気分を味わわせてくれるという仕組みです。

「羅生門」において、第一の証言が第二の証言によって矛盾した瞬間に観客は第一証人を「嘘つきじゃね?」と感じ始めてしまうので、そいつが味方の可能性が感じられなくなってしまうのです。そして第二、第三、木こりの順で消去法的に「こいつが結局は味方かな」と期待するのですが、なんと映画のラストで木こりも嘘つきであることが判明してしまうのです。優しさが随所に散見された木こりに対して「お前は無害なはずだろ!」と泣きを入れたくなります。木こりは非を責められるのですが、木こりをなじるのが劇中でそれまで悪役とされていた人物なのです。悪である彼だけが偽善も嘘もなく終始一貫していました。この逆転現象。

 という具合です。橋本忍の自伝と合わせて読んだので、この映画の筋の出来上がり方にも感服してしまうのですが、そんな前提知らなくてもそもそも素晴らしい作品です。

 「グラスに注がれたワインに一滴の泥水が入ったら、おそらく味はほぼ変わらないだろうが、君はそれをそのまま飲めるか?」みたいな完璧主義にとられかねない格言がありますが(この文脈で使うと多分誤用ですが。)人間っていうのは一滴どころかスプーン一杯、お玉一杯、果てはバケツ一杯分くらい泥まみれだったりするじゃないですか。それでも泥だけではない。善性も悪性もごちゃまぜですよ。そんな混合液体を飲めるかどうかを問うてくるような映画でした。

#映画感想文 #ネタバレ #黒澤明 #橋本忍 #文脈重視


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