耳元の小さいおっさんを成仏させよう
小さいおっさんという都市伝説がある。今をときめく学生諸君は知らないかもしれない。日常のふとした瞬間に、足元や部屋の片隅を走っていた! という害も得も特に見当たらない新手の怪異だ。
見かけた人が疲れていたのか、現実に想像を投影するのが上手いのか、それとも本当に我々の世界に住んでいるものなのか。真偽はさておき、私の耳元にも小さいおっさんが住んでいる。姿は見えない。匂いだけだ。原因は重々承知している。
緑色がとても好きになった。青色に近い部類の、深い緑色が。おたくが好きな色について言及し始めたら、十中八九推しのイメージカラーの話に決まっている。もちろん私もその話をする。好きな人の髪の色がそれだからだ。
元々青緑色が好きだったこともあって、私の身の回りにはちらほらその色が点在している。2点、特に気に入っているものがある。ボールペンと、そして眼鏡だ。
運転免許証に眼鏡等必須の文字が入っている私は、裸眼で外に出てしまえば車に轢かれること間違いなしだ。小学生の駆る自転車にだってやられてしまうかもしれない。そのため寝る時以外はレンズを通して世界を見る必要がある。24時間のうち18時間をこの眼鏡と生活をともに過ごし、それを2年ほど続けている。するとどうなるか。
一緒に暮らすと匂いが似るという話がある。単純に柔軟剤の香りが一緒だからだろうと一蹴することもできるが、それだけではないと思う。
犬を飼っている人から可愛いワンちゃんの匂いがしたことは? たくさんの香水を部屋に並べている人からかぐわしい匂いが漂ってきたことはないだろうか? 私も目元にレンズを飼っている。誰かや何かにピントを合わせるために必要な相棒だ。ずっと一緒に暮らしているから──
眼鏡のつるから小さいおっさんの臭いがする。
おっさんの正体は、まぎれもない自分自身だ。
断っておくが、曲がりなりにもホモサピエンスの平均寿命と比較するとまだ若い部類の人間だ。眼鏡のつる、耳当てにあたる部分は、長く使っているとどうしてもそうなってしまう運命らしい。耳に優しく触れてくれるシリコンは、色々なものを吸収する性質を持っている。そうして素材自体も経年劣化することで、イマジナリー小さいおっさんを常時出現させるに至るのだ。
折角買った時よりも大好きになれた眼鏡なのに。朝起きてフレームの色から推しを連想した後も、「好きな人もこんな風にフレームを引っ張る感覚を味わっているのだろうか」と考えながら眼鏡を置く時も、幸せな気持ちを味わった瞬間、間髪入れずに小さいおっさんが鼻先を横切る。
これは呪いだ。健やかなる時も、推しに想いを馳せる時も、誓って小さいおっさんが寄り添ってくれる。
私はお前を成仏させたい。
正直なんか臭うなと半年以上前から思っていた。推しのことを純粋な気持ちで考えたい私はようやく腰をあげる。どうやら、私の購入した店では部品の交換をしてくれるらしい。
ついでにコンタクトレンズも新しいものを購入する決心がついた。実は眼科医にバレたら視力検査の棒で100発くらいしばかれる程にマズイ使い方をしていた。
(使用期限が2週間のものを、買い足しをめんどくさがった故に2ヶ月程度使っていた。絶対にバレてはいけない。そして絶対に真似してはいけない)
眼鏡ケースに眼鏡をしまって鞄に放り込み、コンタクトの度数の書かれた紙も引っ張り出して、ああやっぱり今日はこの鞄にしよう、そうして意気揚々と家を飛び出し電車に乗って──
眼鏡ケースを家に忘れた。流石になんでやねんと地団駄を踏んだ。コンタクトだけ買って帰った。
眼鏡ケースの色が黒色なのが悪い、大抵の鞄の内布は黒色だ(当方調べ、大いに偏りあり)。
でも黒色も好きです。汚れも何も目立たないし、なにより好きな人の眼鏡の色も黒なので。
今度こそ手元を確かめに確かめて、改めて眼鏡屋に向かう。
受付のお姉さんに、したいことを伝えよう。でも「眼鏡のつるがくさいので交換したいです」とはなかなかストレートには言いづらい。人間として、少しは取り繕いたい。とりあえず声をかけてみよう。
私「眼鏡のつるを交換したくて・・・・・・」
お姉さん「つるですか?」
私「汚れが気になっているというか・・・・・・」
お姉さん「見てみないことにはなんとも言えませんが(出して欲しいなという目を向けられる)」
私 (スッ)
お姉さん「・・・・・・?(汚れは見当たらないが? 何か見えない物を見ようとしている人なのか?)」
私「・・・・・・なんか・・・・・・くさくて・・・・・・」
お姉さん (ピカピカの笑顔)
結局くさいとしか表現のしようがなかった。
お姉さんは端末で検索してくれる。完全に一致するつるの在庫は流石に無いらしいが、合う部品があれば交換可能との事だった。ここで、つるの部分も深緑色であることを初めて知る。手放すのが惜しくなったが、どうせ捨て去る直前に気づきを得たパーツなのだ。小さいおっさんと天秤にかけて、潔くフレームを引き渡す。
ものの3分で眼鏡は帰ってきた。ネジも調整してもらえたらしく、今まで百均の小物入れかな? というくらいパカパカしていたフレームは、ニトリの棚くらい力を入れないと開かないようになっていた。有り難い話だ。
店を出てからそっと匂いを確かめる。
もちろんくさくない! 成仏成功だ! しかも、無償で!
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こうしてこの文を打っている間にも、私の耳元からはおっさんの気配は感じません。半年もの間私を悩ませてきた小さきモノのにおいは、物理の力と企業のサービスのお陰で消滅させることができました。
平穏無事な生活が戻ってきた。私はそう思っていました。次の朝を迎えるまでは──
水回りに、ゴウンゴウンと鈍い音が響いている。ようやく音が止んだ後、扉を開くと──洗い立ての洗濯物から、小さいおっさんの匂いが漂う。
フィルター掃除を怠っていたら、多分洗濯機の排水口を詰まらせました。
半年前に壊して修理したばかりです。己のめんどくさがる癖をこれほどまでに悔いたことがあったでしょうか。幸い手の届く範囲に詰まりは見つかったので、恐らくなんとかなるとは思うのですが。またあのにおいがやってくるかもしれないと思うと、(出張修理代が)怖くて夜も眠れません。
ああ、また朝がやってくる──
なんか2回に1回の確率でおっさんの匂いが漂うようになりました。
助けてくれ!!!!
(もう1箇所問題のありそうな詰まりを見つけて処理したので、修理を依頼するかどうかは次の洗濯結果をにおってから判断します)
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