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非合理的クッション味噌論

 世の中には一般的に避けた方がいいとされている話がある。

 政治、宗教、野球が代名詞としてあげられるだろうか。それでも、そもそも生きる上で政治については知識やトレンドを掴むことを求められるし、死ぬときは皆何かしらの宗教に附する訳だし、応援する球団が一致すれば、取引先のキーマンのあの人とも仲良くなれるかもしれない。要は信条と一致した時は迎合される話題であり、そうでなかった時のデメリットが大きいから、使わない方が良いとされている話題なのだ。
 今から話す話は、明言は避けるが、合う人には合うし、合わない人には合わない事柄についての日記だ。小学生男児と道ばたですれ違った時に、大声で聞こえて消えていくかもしれない単語。悪態をつくときにもしかしたら口にしてしまうかもしれない言葉。それでも頭の中をかすめることが時折ある事柄を、どこかで文字として出しておきたかった。食前食後に読むのは勧められない。勘のいい人なら気付いただろう。
 アレである。

 

 昔、引っ越すにあたり家財家具を一新する機会があった。自分の好みや家の内装の色に合わせて、無難で安直な選択をした結果、部屋の中はその色が幅をきかせることになった。冬には温かみを感じられ、夏には爽やかな青とよく似合う色である。
 特にカーテンにはそれに近い色を集中して選んだため、今ここから見える色の中でも、床や壁を除けば、一番大きい色面積を誇っている。

 そうしてモノを揃えていく中で、クッションを買うことにした。人をダメにするクッションについては表面積があまりにも大きいので、床に近い色を選んだ。
 私がクッションを選んだ店では、それにあわせて小さいサイズのクッションを買うことを推奨される。枕にしたり、ソファとして使うときに背もたれにしたりするためだ。大きいモノの色には気を遣うけれど、わりあいシュッとした、細身のクッションなら遠慮はいらない。差し色として奇抜な色を選ぶという手もあったが、少し冒険を恐れた私は、一番無難な色であるカーテンと同じ色を選んだ。
 大きな段ボールが届く。品物を傷つけないように、カッターナイフは使わずに開けて、中からそれを飛び出させる。こんにちは。
 手に持った時、全体像が見えた瞬間、思ったのだ。それでも自分の直感をごまかそうと、ベッドの上にも放り投げてみた。

 クッションの形は、例えるなら「?」マークの上部分のカーブをもう少し緩やかにしたような形をしている。真っ直ぐだけれど、少し有機的な形。遊び心を取り入れたのか、端はきゅっと曲がっている。ひねり出したみたいに。

 アレにしか見えないのだ。

 ベッドの上に投げ出されたクッションを俯瞰的に見て、やっぱり駄目だったので頭を抱えた。扉を一度閉めて、もう一度開けて、廊下からそっと覗く。カーテンの色をできるだけ目の中に入れるようにして眺めても、どうにもならない。北欧のおしゃれなクッションのはずなのに、どうしてこうなった。北欧の腸内フローラは虹色なのだろうか。見たことないのか、アレを。恐らく、他のシリーズのクッションで同色を展開している以上、細身のクッションだけこの色を排除することはできなかったのだろう。のけ者は、寂しいものな。
 教訓は、色は形とリンクさせて選ぶ必要があるということ。イマジネーションを働かせて、イメージ画像の中の周りの色に惑わされないで・・・・・・。
 現在、それは我が家でうんこクッションと呼ばれている。


 世の中には改善を取り入れた方が良いとされるものがたくさんある。国内主要産業が車である以上、あのえびふりゃあの街の企業の考え方に則って、なぜなぜを繰り返して合理的な改善案を作る事を求められる。研修でその話を聞いた時、ホワイトボードに書き出された「なぜなぜなぜなぜなぜ」の文字が、妙に斜めになっていてホラーじみていた事を思い出した。なかなか見ない文字面なので面白くも思ったりしていたっけ。でも、世の中にはそんな合理的な考え方を求めない方が良いこともあるのだ。

 家庭の味、と言われると一番最初に思い浮かぶ料理がある。小さな鍋にも例えられるそれは、なにを煮込んでも大体美味しいし、だしも入っているので旨味も十二分に楽しめる。
 それを作る時、必要不可欠な調味料はどうやって入れているだろうか。それらは大体透明な四角のプラスチックに入っていることが多い。そこにお玉なり、専用スプーンなんかを直に入れて取り出している人も多いだろう。発酵食品だけに、日持ちもすごいのだが、思ったことはないだろうか。生姜やもみじおろし、最近ではネギ塩がそうなったように、もっと楽に取り出せたなら。
 そうした企業努力で生まれた商品が冷蔵庫の中にあった。実家から送られてきたものだ。丁度、普段使っているものが切れたので、こちらを使うことにした。
 それは例えるなら輸血パックのような形をしている。手のひらの上に置くと、調味料のもにょもにょとした触覚を楽しむことができる。これを押し出すことで、お玉も何も介することなく鍋の中へ直接追加することができるのだ。なんて合理的。

 押し出したそれの形は、アレにしか見えないのだ。

 チューブの先の丸い口から現れたものは、毎日目にしている調味料と同じはずなのに、コンロ台に新鮮な景色を与えた。ひとしきりワハハと笑った後、形をかき消すように急いで混ぜる。皿に取り出して口をつける。味が足りない。普段とは計量方法が違うからだ。チューブから押し出されたものは、また鍋の中に落とされる。第一印象は変わらない。ひとりきりの部屋で笑い声を上げながら、やはり急いで混ぜ合わせる。早く豚肉と舞茸の向こうに溶けて欲しい。
 大好きな某北海道金塊漫画で度々登場する、調味料を見たアイヌ民族がオソマ……と呟くシーンを思い出した。あれは本当にあながち間違いじゃなかった。初めて目にする時、もしくは初めてその形で目にする時、人は思ってしまうのだ。

 各メーカーが頑なにプラスチックの四角い箱にこだわっていたのは、もしかしたら理由があったのかもしれない。なぜなぜを繰り返して、合理的な形にしない方が良いものも、もしかしたらこの世にはあるのかもしれない。それでも、チューブ型の調味料は非常に便利なので、増えて欲しいという想いもある。各ご家庭のキッチンに笑いも届けてくれる調味料なんて、今まであっただろうか。


 日常のそうじゃない場所に、二つのアレを見出した。通学路やスーパーで騒ぎ立てる小学生の声は最近聞いていない。もし会えたら。きっと話しかけたら、今のご時世は通報されてしまうだろうから。私はその単語を聞いても、心の中で語りかけるに留めるのだ。
 うちのリビングにも、ふたつのうんちなるものがあるよ。

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