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【symposium3】「『沖縄の風景』をめぐる7つの夜話」第1夜(12/21)「沖縄について書く、考えるために」(発表:h)

※本稿は、「クバへ/クバから」第3回座談会(シンポジウム)「「沖縄の風景」をめぐる7つの夜話」12/21(月)21:30-の回での発表資料です。

h「沖縄について書く、考えるために」

1 はじめに

 A.プロフィール
 B.今回のプロジェクトにおける(これまでの)あり方

2 沖縄を書くこと、あるいは自作における「方法」としての「私」
 A.三野さんにおける「困難」を引き受けて考えてみる
 B.日記なら書ける。あるいは「遠ければ」書ける。
 C.より細かく、これまでの自作での「方法」を振り返る

3 風景、肉体、共有
 A.「本当のこと」と「書き方」 
 B.同じ風景と幾つかの肉体:例えば、今日マチ子『cocoon』 
 C.制作プラン(2020.12.21時点) 

おまけ:島尾敏雄引用

1 はじめに

A.プロフィール
 1993年生まれ。小説の制作や、日記の制作を通じて、人間について考えてきた(?)。山本浩貴といっしょにデザインもしてきた。大学院では古事記について研究。
 主な小説に『六月二一日』『2018.4』「盆のこと」「すべての少年」など。主な装釘・デザインに、𠮷田恭大『光と私語』、佐々木敦『私は小説である』など。

B.今回のプロジェクトにおける(これまでの)あり方
 「クバへ/クバから」では、沖縄へ渡航した一人(ほぼ全日程滞在)。
 写真集では山本とともにデザインも進めている。
 採集成果物としては小説を書く予定(?)。

 これまで行なった座談会では、主に以下のような発言をした。

第1回:
・沖縄における当事者性について(ex.移住して長く住んだ人と、出身だけれどすぐに地元を離れた人)
・「身振りこそがキャラクター、役割、ひいては存在を形作っている」という三野作品の特徴をめぐる、共感と展開(『古事記』における天皇との類似性)
・そうした、他者からキャラクターを観測されるものとしての「身振り」は、同時に、その身振りを行なう人の内側から「出てきてしまう」ものとしてある。
(※これは、小説を書く上での個人的な問題ともリンクしているかもしれない。「本当のこと=私が感じたもの」を記述しようとするとき、それそのものを「私の感情や抽象的な考え」とともに書こうとすると、うまくいかない。逆に、比較的客観性の強いやり方で「風景」や「見たもの」を書くと、かろうじて表現することができる。一見、私性の薄い文章でもって、しかし「本当のこと=私が感じたもの」を私に喚起した風景や対象を読者に伝えることによって、他者に「本当のこと=私が感じたもの」を伝えることが出来る。私性を消して、でも消さない、むしろ強くするという書き方。)

第2回:
・「琉球弧の写真」展における、沖縄出身あるいは沖縄に強い関係を持った人の撮影した写真には、人が多い。一方、中平卓馬や三野新の写真には、人が少ない。
・三野さんが抱える、沖縄での撮影できなさ、写真集や展示として発表することの難しさが、どこに由来するかについて。場所?(鎌倉なら?沖縄なら?北海道なら?)、政治性?(沖縄独特の問題?「日本」からの加害性?)、当事者性?(福岡なら撮れるのは出身地だから?)→三野さんの応答:鎌倉はいける、北海道も場所によってはいける、沖縄はだめ→やっぱりなぜ!?


2 沖縄を書くこと、あるいは自作における「方法」としての「私」

A.三野さんにおける「困難」を引き受けて考えてみる
 「クバへ/クバから」では、沖縄をきっかけにした小説を書こうと思う。
 →しかし、三野さんが写真撮影に対しておそらく抱いているのと同じくらい、やはり難しい。その難しさは、私にとって、はたしてどこにあるのか


ex.私が、私とは別の誰かについて小説(おはなし)を書こうとしたとき……

難しさ①
 自分は「その人」ではない
・小説を書く私は、小説に書かれる「その人」ではないのだから、「その人」にとっての「本当のこと」を完璧に書くことはできない。
・あるいは「その人」になりきろうとするとして、「本当」に「その人」に私はなれるのかどうか、なっていいのかどうか、そうして書いた小説を「本当のこと」にしてしまっていいのか、という問題が生じる。

難しさ②
 沖縄との関わり方の難しさ
・私は神奈川県出身で、沖縄とは直接的な関わりがない。「本土」(という言い方は良くないが)と「沖縄」の対比で言うと、明らかに前者に属する。
 →そんな私が沖縄について書こうとするとき、どこかで加害者性のようなものを自分が帯びてしまう可能性が避けられない。

☆いずれにしても、私は「本当のこと」が書かれなければ、「小説を書けた」ということにならない(そもそも「本当のこと」でないことを、書きたくない)。


B.日記なら書ける。あるいは「遠ければ」書ける。
 これまでの自作を振り返ると……
・実在する他者や土地についてでも、「日記」という形式のもとでなら書ける。
 =自分に起こったことを書けるから。私の感情や考えなどを抜きに、事実だけを書くというやり方で、「本当のこと」を表現できる。

・あるいは、「旅行で行った場所について書く」という枠組みでなら、書ける
 =その場所と自分との関係がはっきりしているから。例えばスウェーデンやフィンランドへ旅行に行った時の日記(『2018.4』)はとても書きやすかった(今読み返すと内容には納得いっていないが)。沖縄について、旅行者の立場から書くというのはありうるかどうか。
※三野さんが座談会第2回で「沖縄で撮った写真を展示したり写真集として刊行したりするのは難しいが、SNSにアップすることはできる」と言っていたけれど、それに近い話かもしれない。

島尾敏雄『琉球文学論』(幻戯書房、2017年)に、「ノロのおばあさんは口伝で神の言葉を伝えられてきている。どうにかそれらを遺していかないといけないけれど、採集がすごく大変。島の人には絶対に教えられないし、内地の人間にも教えづらい。でもオーストリアの大学院生が日本の信仰体系の研究のために村に住んで教えてくれといったら、すんなり7つも話をテープにとれちゃった」といったような話があった。
 関係の近い人間同士では表現しづらいことが、遠い相手(ふだん想定されていない関係性)に対しては、表現できてしまう。
 →私も、沖縄からすごく遠い存在であったりすれば、すんなり沖縄について描けたりするのだろうか。
 →逆に言えば、私は沖縄に対して、心理的には近いんだということを実感する。


C.より細かく、これまでの自作での「方法」を振り返る
・これまでの自作でとってきた「方法」を振り返ってみることで、てがかりを探したい。
 →そこでは、最初期から最近に至るまで、常に「私」をめぐる操作を行なってきた。
 →主には、「私」という語の徹底的な排除。それは、上記2つの難しさ(自分は「その人」ではない/沖縄との関わり方の難しさ)をクリアするための方法だった?


・自作(2012年以降)は、大まかには以下3つに分けられる。

①敬体による児童文学的ないしは神話的な語り/非リアリズム……『六月二一日』「夜」「シーラカンスのはなし」「プロンドルくんシリーズ」
②ほぼ日記そのもの……『2018.4』
③日記を素材にしたフィクショナルな散文……「盆のこと」「すべての少年」『てつき1』「日付」



①敬体による児童文学的ないしは神話的な語り/非リアリズム
『六月二一日』(2012、2019年に書籍化)

 透き通ったシロップのような女の人がいたので、足をかけると、うしろのスーツの男の人はわたしのくつのかかとを踏み、すみませんと雑踏にまぎれていうと、わたしは駅の階段をあがっています。時間は三ヶ月分の記憶がないわたしにもわかるくらいの日の長さで六月を告げています。どこかの外国の言葉で電話をしている女の人はいきなり立ち上がり、身振り手振りでなにかに怒っている。いつか見た映画の中のおんなのこは大人になり、電車の広告の中からこちらを気にしています。目のわるいわたしはあの子に会うたびに顔をすこしずつ忘れてしまい、一緒に行ったお祭りの屋台に並んだキャラクターのお面が邪魔をします。
「そんな顔じゃない」
あの子は怒りましたが、とてもよく似ている気がするのです。

(中略)

 その昔、私のしていた俳優という仕事はとても悲しい仕事で台本の(涙を流す)というたった一言で幾度となく大切な人をしなせなければなりません。やっと百六十七回しなせたあとにすこし素敵な服を着せられ舞台にあがらせてもらえるのです。透明に引かれた線から一ミリでも外れてしまうことを許さない整然とした舞台の上でスポットライトを当てられた私はあの子の殺し方を忘れていました。監督は私に「くび」といいました。私は劇場のしずかなロビーでたったひとりの俳優でした。あの子はしにませんでしたが私は少しかなしい気分になり星のよく見える道で傘をさし、遠い舞台の上で踏むはずだったステップを踏みました。右に二回、左に三回と踏んでいるうちにモールス信号を送っています。受けとる人のいないモールス信号は傘にさえぎられ日本からはほんの一部しか見えないホロロギウムには到底届かないのです。右が三回になっても、だれも、だれも気づかないでしょう。
 それからというものわたしには五人のわたしが住んでいて、会う相手や、場所や、時間によって、脳がひとり(もしくはふたり)を選び出し、いすに座らせます。いつでもいすとりゲームをし、以前は六人でしたが三年前にひとりのわたしが脱落をしたようにおもいます。戦いのくらしにうんざりしたのでしょうか、それからそのひとりのわたしとは会っていなく、行方は分からずくらんだままです。

(中略)

 やっと五人のわたしはひとりになり、いすとりゲームのない生活を送ります。今でも時々、プラットホームの静かに整った列を乱し、人間の海を不器用に泳いで狂ったように座ろうとする肺呼吸の女の人を見ると、そんなことをおもいだすのです。

 →「わたし」という語を用いた語り(「私」という漢字がださくて嫌いで、つかわなくしたいと思っていた)。イメージの細かな繋がりによって、時間が行き来し、明らかにリアリズムから外れた描写なども頻出する。「わたし」が語っていながら、「わたし」の知り得ないはずの出来事が強めの断定とともに語られもする(急に時間のスケールが大きくなるような。少し神話のような語り方)。
 主な内容としては、「わたし」というのが対等に複数存在している状態が扱われている(当時、テレビの夕方のニュースで多重人格の人の特集を見た?)。俳優として演技をする、といった内容も。


・「夜」(2012、未刊行)

そのつづきの夜のことです。たしか午前一時二十七分でしたでしょうか。パスカルさんはちかくにぞわりぞわりという音をききました。おかしいな、火あそびはしていませんのに。パスカルさんはそんなことをかんがえながら、すぐにまた眠ってしまいました。

(中略)

洗濯機のなかには、まるまったうずまき管が忘れられていて、その水色はたしかにパスカルさんのうずまき管の色なのでした。おかあさんは不思議におもいながら、このあいだ町でみた、はだしのおとこのひとをおもいだしていました。
「どけ」
あやしいお店のひとがいうと、はだしのひとはけだるくたちあがり、肩を上下させながらゆっくりとあるいていきました。そのひとの目はずっと灰色の地面ばかりをみていたのでにごっており、いまにも溶けだしてしまいそうでした。

(中略)

パスカルさんは血管にながれるちいさなくらげがみたくてたまりませんでした。夜中にこっそりとへやをぬけだしたパスカルさんは、おかあさんの裁縫道具のなかから針をとりだしました。針はほそくてまっすぐなために、とてもきれいでした。パスカルさんは枕元のやわらかな電気をつけ、指先に針をすこしだけ刺しました。血は指先で赤いビーズになりましたが、パスカルさんはくらげをみることができませんでした。

 →「わたし」という語がいっさい消えて、完全な三人称に。ただ、人格を一切持たない、ニュートラルな語り手でなく、ある特定の人物像(?)が立ち上がってくるようなそれ(例えば女性ぽかったり)。中心人物となる「パスカルさん」に寄り添いつつ、後半になると、「お母さん」しか知らないはずの風景や感情が書かれ始める。
 内容としては、『六月二一日』よりも、起承転結への意識が強い(児童文学的な「おはなし」の形式を用いている)。文章の細かなところで、イメージの飛躍をもとにした、おかしなロジックの構築が、やはり行われる(一文ごとに見ても理解が難しいような状態が生まれていく)。


・「シーラカンスのはなし」(2012、未刊行)

来館者はにんげんになんとなくいきていてほしいため、なにもしらない、なにもわからないあいだにそのひとがいきることのできる時間を、きめられた距離に追加をして払っています。ひとはうまれたときから劣化がはじまり、それをおくらせるためにおかねを払い牛乳をのむのでした。にんげんはたかいたかい冷えた注射で時間をすこしのばされて、注射はいたいけれどだれもきづいていない。それは毎日のくらしというのと、みんなぼんやりと眠っているからです。入院病棟は一日いちにちをしにながらいきるにんげんの博物館でした。ですから直射日光と極度の湿気は避けなくてはなりません。一年中に、二十二度の秩序が保たれ、かびがはびこらないよう空気は循環し、一年に一回の徹底的な害虫駆除をされた展示室では、だれもがしずかにあるき、ほこりのひとつないなかでにんげんは展示され、週に三回しりあいが訪ねてきます。

(中略)

ひねはひとになったあとも、しばらくこの博物館にくらしていました。博物館にはお地蔵さんの頭をたわしでこすってよろこんだつぎの日に、しぬ熱がでたひとの化石や、いつもそでのみじかいシャツで、ぼうっとくらしていたために、蚊に血をひどく吸われ、みるみる青白くなったひとの化石、枯葉をどうしても踏んづけてしまいたくて、車にひかれたひとの化石がありました。ほかにもたくさんの化石が眠っていて、それぞれにはそれぞれのいきてきた日々があり、すべてをしることは歯型からおおくを見いだすことのできるコレクターでさえもできません。

(中略)

トーとまつげのながすぎるひとだけがおきていて、トーだけがひねのことをしっていました。トーはふたがしまらなくなったひねの宝石箱をこっそりあけました。宝石箱にはたくさんの溶けかけた飴と、うらがわに穴のあいた乾いたせみと、色のあせた写真と、トーのつまさきがはいっていました。つまさきはまるで、ひだりききのひとが、みぎききのはさみできった、切り絵なのでした。

 →やはり「わたし」なし。三人称だが、人格はかなり強くある(語り手として)。「夜」よりも、自分の好き勝手に話す部分が多い。登場人物のことも語るけれど、わりと風景や状況を饒舌に語る。
 「化石」状態だったが起きた「ひね」と、つまさきのない「トー」の、博物館(病院)での話。最後の場面では、それまで「ひね」に比較的くっついていっていた語りの視点が、「ひね」が「化石」に戻ってしまった(?)ことで、「トー」に移る(「トー」にしか語れないはずの描写になだらかに移行する)。


・「プロンドルくんシリーズ」(2013〜、未刊行)

プロンドルくんはどうぶつえんではしゃしんをとらないときめていた。どうぶつはシャッターの音がたいへんににがてで、カメラをむけると、かならずプロンドルくんからはなれ、むこうをむき、バナナやほしくさや、ユーカリなんかをかじりはじめてしまうからである。だからプロンドルくんはかわりに、スケッチブックといろえんぴつをかばんにつめ、どうぶつえんへでかけた。どうぶつえんにはたくさんのどうぶつがいる。トナカイはおおきな木の枝のようなつのをもち、のそのそとあるいた。ふくろうやみみずくはつまらなそうに、くびをすべるようにまわし、まるい目をぎょろりとひからせた。にわとりは足のながいこどもにだかれ、やぎをさわったこどもがないた。アイアイがくものようなゆびをつかいこなし、あくまとよばれ、モモンガがたっぷりとしたしっぽをせなかにのせ、ホッキョクグマのおしりをみているこどもはナマケモノのようにじっとしている。たくさんのこうもりたちは、くらい展示室のなかをものすごいはやさでとびまわり、キウイや、りんごが、たえまないこうもりのながれにのみこまれていた。どれがどのこうもりの足で、羽で、目か、なんてことは、世界中だれひとりとしてしらなかった。

(中略)

 北のほうの冬がながい国のトンネルでは、二十七トンのしろいチーズをのせたトラックが横転し、火があがった。ここではナッツをつんだトラックや、さかなのようなこどもたちののった、スイミングスクールのバス、動物園のきりんをいれた檻をのせたトラックも横転したことがあり、くるまを運転するひとのあいだでは、よくうわさされる道だった。火のちかくのチーズはどんどんとけはじめ、トンネルをやわらかな匂いでたちまちいっぱいにした。おおきなトンネルの端からはしろい道路があふれだし、たくさんのくるまがだんだんとながい列になっていった。とても香ばしくて、みんなおなかがすいた。トラックの運転手はチーズまみれのからだをひきずり、トンネルの中からにげた。

(中略)

 プロンドルくんのまちではメープルシロップをつんだタンカーからシロップがもれだして、はちがたくさんやってきたことがあった。はちはシロップのたべすぎで、よっぱらったようになってしまい、だれひとりさされるものはいなかったが、おまわりさんはこまりはて、ついにはねつをだしてねこんでしまった。そのあいだにシロップはこどもたちがすっかりなめとってしまい、道は無事にきれいになった。

 →完全に児童文学らしさを重視して書いたもの。ただ、プロンドルくんの出てこない謎の短い話がときどき入る。もろもろの小さい話たち。これまでの作品にも共通するところだが、そのつど見聞きしたニュースや風景が細かく織り込まれている。

※これら①は、かなり明確に「物語」ということを意識して書いていた。③での「盆のこと」も、比較的「物語」を意識してはいる。


②ほぼ日記そのもの
・『2018.4』(2018)

礼拝堂までの道はとてもながく、たどり着くまでに、見送るための準備をする。ゆっくりあるく。礼拝堂で、お葬式が行われている。このあとも、3回のお葬式が予定されている。みんなしんでいく。わたしがストックホルムにいるあいだ、何人ものひとがしんで、でもわたしは気がつかない。普通の生活を送っているひとと、だれか大切なひとがしんだひと、みんな暮らしている。わたしが帰ってしまっても、ずっとつづいていく。

 →スウェーデン・フィンランドへの旅行をもとにしたテキスト(+写真)。ほぼ日記そのもの。
 テーマがあるとすれば……自分がいない世界で起きていること、自分がしんでもかわらないこと、自分がいなくても世界が動き続けていること、すべてのことを知ることはできないけれどそれを思考することはできるということ、などか。
 「わたし」という語も、時々使いつつ、書かれている。世界=事実の側が強いため、それを描く上で、そこを訪れたh=「わたし」を出さざるを得なかった?
 今読み返すと、かなり備忘録的な性格も強い。エッセイに近い。


③日記を素材にしたフィクショナルな散文
「盆のこと」(2016、『いぬのせなか座2号』掲載)

 夢をみた。おとこのこがほっぺにほっぺをあててきて、「ほらね、(しんだ知人のなまえ)さんのほっぺとそっくりでしょう」といった。骨ばっていて、ちいさなころに祖母がほっぺにほっぺをあててきたときの、かんかくがした。

(中略)

 ひろいぶどう畑のなかで、ぶどうをたべる。ちいさな虫がとびまわっている。とおくの山から、せみのなきごえが、ずっときこえている。だれもいないぶどう畑は、虫や鳥のなきごえと、風のおとが、よくきこえる。どれかがやんだり、どれかがとてもうるさくなったりする。ぶどうの葉のあいだから、ひかりがもれてくる。

(中略)

 なきながら、こどもたちを船にのせる。この人生のあいだには、もう、あえないかもしれない。町の中心には、ひとっこひとりおらず、だれもが郊外で、土を耕させられる。船にのせられたこどもたちは、なにもわからなくても、かなしいことがおきていることだけはわかっている。こどもたちは、マンゴーが木になることをおしえてくれるおじいさんや、稲の植えつけかたをおしえてくれるおばあさんを、しらない。自分に、おじいさんやおばあさんがいたことをしらず、しっていることは戦いだけだ。こどもたちは、守られない。生きるためには、戦うことだけをしらなければならない。あたたかいふとんや、なにかを愛するということ、しずかな休日を、しってはいけない。

 →自分の日記(主に風景の描写)をもとに、それを編集し、断片の列挙として構成した。
 「わたし」という語は一切出てこないが、明らかに特定の個人(hを連想させるそれ)が語り手として存在しているように感じられる文章。
 ただ、日記をもとにしたとはいえ、そこに見聞きしたニュースをめぐるメモも混入しているので、やはり特定の「わたし」に還元できないような、神話的な語り方になっている箇所も多い。結果的に、日記でありながらその編集によってフィクションを立ち上げる、といったようなことが意識的にされた最初の自作
 またテーマとしては、全体を通じて、死や災害などについて書かれた部分が多い。


・「すべての少年」(2016〜)

夏になる。梅雨がすぐにあけ、夏になった。雨が降ったかおぼえていない。
夏になってしまってから、風がつよい。今日はあつい、つよい風の中に、ときどきつめたい風が混ざっている。

先生と道で会う。表象の水平移動のはなしをされる。ステーキとフライドポテト。たがいに、いつのまにか切り離せない性格になっている。

昔通っていた高校へいった。高校生のとき、毎日がどうでもよかった。高校になじめなかった。そのなかで、てきとうにやっている。ふたりの仲のよい友人のひとりが、学校へこなくなった。気色悪い先生が、おれは金髪が似合っているとおもうよ、と言った。友人と顔を見合わせて、吐きそうな顔をする。友人が舌を出す。先生が、金髪は校則違反だとおもうという。友人は学校をやめた。先生に荷物をもっていってあげなさいといわれる。

友人とやっていたバンドを、ほかの友人とはじめた。友人が怒った。中学校のときのドラムをやっていた男の子は耳が悪かった。部活動のなかでいじめがある。二年生の女と男が、一年生の女をいじめていた。一年生の女はコントラバスをやめて、ユーフォニウムにうつる。先生たちも仲が悪い。

バンドで何度かライブをした。練習のときには、いつもふざけている。ベースの女がすきだったバンドを24歳のときにすきになる。歌をうたっているひとが死んだ。ベースの女は頭がわるかった。しらない場所の短期大学にはいった。足がおそかった。

昔通った高校で彼らの前に立ったとき、懐かしい気持ちになった。潮のにおいがする。海風が強く吹いてくる。先生が見張っていて、ときどき眠っている。彼らを床に座らせる。私は床に座った。それから、彼らを輪にする。彼らは短い映像を見せられる。怒っている理由をきく。だれもわからない。輪がばらばらになりはじめる。彼らの何人かの目が、まっすぐにこちらを向いている。(2018年7月4日)

 →Web連載(不定期更新)。最初は『クレーの日記』から良いところを引用した上で、自分の記憶を書くというやり方をとっていたけれど、途中からは(『クレーの日記』がつまらなくなってきたので)自分の好きなことを書くようになった。
 基本的には日記だが、そこに記憶や、聞いた話が混入していく。時間と視点の飛躍が多く、Twitterで軽くバズったときには、知らない人から「認知症の人が書いた文章」などと「褒められた」が、すべて自分の中では、実際にあったことを切り貼りしただけ


『てつき1』掲載の無題作品1(2018)

 祖父がトイレの中で倒れ、救急車で運ばれる。集中治療室のなかで、祖父は眠っていたのか、それとも意識がなかったのか、わからない。口角やまぶたがけいれんし、ひきつっている。髪が剃られた頭には、ホチキスが打ち込まれていた。母と、互いに気づかれないように泣いた。ぼうずが、とても似合っていた。野球をやっていた中学のとき以来の、ぼうずだった。

(中略)

冬には、ここは雪にとざされる。馬はすこし離れたところにある、小屋の持ち主の家へ連れ帰られ、冬のあいだじゅう、水をのみ、干し草をたべている。いま、排泄されたばかりの糞から、ゆげがあがった。
朝、主人がくると、馬はいっしゅんうれしそうにし、それからうれしさを抑えた顔をする。主人が名前を呼ぶと、目をゆっくりつむる。あたらしい干し草が、耕すようなやりかたで積まれ、たくさんの空気をたたえている。

 たくさんのこどもたちが、学校から出かける。どこへいくのかわかっていないこどもが、大声で泣いている。川のそばをあるく。こどもが柵をさわると、先生がしかる。いちどやめても、またすぐにわすれてしまう。
どこへいくのかわかっていないこどもは、耳をつよくふさぎ、ほんとうにちいさな声でうたっている。目にはなみだがたまり、まつげがぬれていた。すれちがう人が、けげんな顔をした。

 →佐々木敦『新しい小説のために』刊行記念イベント(SCOOL、2017.10.29)にて上演した「座談会6 私らの距離とオブジェクトを再演する」のために書いた短い小説。「すべての少年」に掲載ののち、『てつき1』に掲載。イベントでは、細かな書き直しを、山本浩貴との対話を通じて行ない、その記録をテキスト化しつつイベントで上演した(当時の配布資料はこちら)。
 やはり日記をもとにしつつ(夢の話もあり)、幽体離脱について語っている。上の配布資料からの引用。

 私が私を見るのはいいんだけど。でも、そのときでも、幽体離脱のときは、遠くにいる私が他人になるんじゃなくてさ、あれは私だ、ってなる。私が私を他人のように見るんじゃなくて、あれが私だ、っていう視点じゃないとだめ。」
 私、はもっと普遍的なものだから。例えば、日記では書かないし、神話でも私なんて使ってないでしょう。私がはいっちゃうと、私は自分自身になっちゃうけど、入っていなければ、神話とか民話みたいに、場所と結びついたり、時間と結びついたりして、特定の人間の特別な話じゃなくなれると思うんだけど。」

 例えば「祖父がトイレの中で倒れ、救急車で運ばれる。集中治療室のなかで、祖父は眠っていたのか、それとも意識がなかったのか、わからない。」というところは、もともとは「わたし」にとっての祖父をめぐる個人的かつセンチメンタルな書き方が為されていたが、山本との対話を通じて微調整され、「わたし」の度合いがかなり薄れた。
 ただ、「わたし」を完全に排除するのではなく、あくまでテキスト(によって描かれる風景や出来事)を支える存在として用いられることも目指された。それがイベントでは、「遠くにいる自分を見て、「あれは私だ」と指をさして言うことが出来る」というしかたで説明されもした。


『てつき1』掲載の無題作品2(2018)

年末の雰囲気がある。骨董市に重箱がならぶ。木の古いひきだしと、おおきなこね鉢をかう。値のついていない長い箱に、店のおじさんがてきとうに値をつけている。日がずいぶん短い。いつまでもついていけない。日が傾き、じきに暗くなる。友人が昔付き合っていたひとと久々にあう。そのひとのこぐ自転車のうしろで、寒いときとおなじ震えをつよくおさえつづけている。統計学をスープにたとえてくれる。土手のしたのほうでちいさな男の子が野球をしている。ボールがこちらへとんでくる。枯れかけた背のたかい草で、手をきったこどもが泣く。あかんぼうを抱いた父親がとおくから声をかけようとしている。友人の祖父が、友人がだれなのかをなんどもきく。つかぬことをおうかがいしますが、どちらさまでしょうか。えいこさんのむすめで、あなたのまごです。今年の3月に大学を卒業して、来年からとおくへはたらきにいきます。結婚はまだです。こどもはいません。友人はよっぱらって鼻を折ったことをおもいだしている。

 →友だちと会ったときの出来事を、その日に友だちから聞いた「友だちの過去の話」とともに書いている。つまり入れ子になっている。
 山本が「新聞家」の村社祐太朗さんとイベントした後に、村社さんのテキストに次いで、自分で分析もした(こちら)。その際の書き込みは以下。

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 書き手としてのhのなかにある記憶や感覚=「本当のこと」を、語りの立ち上げや終わらせ方などを意識しつつ、出来る限りそのまま書く。結果、読んだ人にとっては、途中で大きな飛躍があるように感じられたりもするようになるけれど、それもまた効果として使っていく。


・「日付」(2018、「座談会8 2018/02/17→2018/04/11 釘打ちされた星座の骨」に掲載)

森があった。夏のおしまいの朝、つゆのおりた草がそれぞれ地面にねている。虫のあしが、ちいさな石をすこしだけ、動かした。ちいさな石のあたらしい面があたたまる。毛布を買うためには、蜂の巣箱をふたつ売りわたさなければならなかった。乱暴にまかせ、枝にひっかけてできたきずが、枕のしたで冷えこんでいる。階段をおりていくと、いぬが眠っていた。いぬのそばには、つかい古して穴のあいたくつしたが集められている。それから、よだれでべとべとのいぬようのガム、かさぶたのついた毛だまがあった。よだれでべとべとのいぬようのガムが床にしみをつくっている。さかだちをするれんしゅうをしはじめてから、どうも体がかるがるしくなった。それに気がつくまで、なんにんかの人をきずつけてしまった。草は日がのぼるにつれじょじょに乾き、そのうちに虫がねどこをなくすことになった。おだやかな中にいるならば、言葉のつうじないことは、わるいことでもない。虫と、草をみていたひとが、むかしかたい石にそういうことばを彫っている。

あさが近づくと、巣箱がうるさくなりはじめる。羽と羽がこすりあわされ、冷たい空気に舞う古い羽の破片がひかっている。このあたりは夏がみじかい。外気がすこしずつあたためられる。毛布からとびだした足のさきが、じょじょにてらされていく。ねこの耳がうしろにひきのばされ、つっぱった手足から爪がみえている。腹が繰り返し上下し、口がうごく。寝返りをうつ。髪にちいさなほこりがついた。巣箱から、蜂が何匹か出てきて、近くをとんでいる。遠くまでいった蜂のおしりに花粉がついた。まだだれも起きていない。夜のうちに水道からおちた水がシンクにみずたまりをつくった。ときどき吹いてくる風が窓をゆらしている。みずたまりにうつる棚が、ちぢまり、ひろがる。ねこがおきて、ちいさなひなたで毛づくろいをしている。横になって、目を細めたり、つむったりした。干してある布巾がおちる。ねこの耳が、そちらの方向へ向いた。尾が床をたたいている。耳がもとの向きにもどるとき、せなかの毛皮にすこし力がはいり、すぐにぬける。のどがかわいたのか、誰かがおきてきた。ねころんだねこを踏みそうになり、よろける。えさをもらえるとおもったねこが、顔をあらう人になきながらまとわりつき、足をかんだ。足にはひっかいたような跡がつき、だんだん赤くなり、そのうちに消えた。

 →鈴木一平の詩「雨と部屋」をもとに作成(幾つかの語彙を参照)。
 日記をもとに一部の描写を書いているが、フィクションの度合いが大きい。時間の経過について、細かく見ようとする、想像しようとする(結果、一見変化のないものへの注目がある)。
 いわゆる細密描写に近い書き方。つまり、他の作品よりも描写が占める割合が大きい、にもかかわらず、フィクションの度合いも大きい。わたしは、細密描写とフィクションがつながっている(?)。一方で、例えば「『てつき1』掲載の無題作品2」では、細密描写ではなく文と文(日記と日記)のつながりのレベルでの操作が目立っている


3 風景、肉体、共有

A.「本当のこと」と「書き方」
・以上、3つの分類のもと、振り返った。
 ありふれた話だが、「私」という言葉抜きに小説を書くと、「神の視点」などと呼ばれる「すべてを知っている存在」が、三人称的な語り手として位置付けられる、と考えられがち
 →けれども私の小説の場合、「私」という言葉抜きに書かれてはいるが、かといってそこにあらわれる「語り手」は、神ではない。なにも知らない(わけではないんだけれど、それに近い)存在であり、幽霊的というか、場所の記憶のような語り手。もちろん、単なるhでもない。

・あるいは、こうした「語り手」を基本の視点にした上で、そこから特定の「私」に視点が移っていく、という書き方は、自分にはできる。
 「私と世界の関係」を書く上では、どこかで「私」という存在を出さないといけない(というより無しではそもそも何も書けない)、とも思っている。

・私にとっていちばん大事なのは、ある事柄が「本当のこと」かどうか
 うそのこと、起こっていないこと、本当らしくないことは、書きたくない。
 登場人物に関しても、「この世にいる/いた/いるかもしれない存在」と感じられなければ、書けない(かといって、本当にこの世界のどこかから探し出してきて、存在を確かめる必要は、もちろんない)。
 →とはいえ、一方では、この世界のことを結構信じてもいるので、「私の想像したことくらいなら、この世で起こっているだろう」とも思っている。

・そうした「本当のこと」を、日々のこの私の体を使って、書き、編集した文章が立ち上げる可能性があるとは思える。
 その際に、「私」ではない何かとしての「語り手」が風景や対象を語ったり(風景や対象として語ったり?)、あるいはそこから特定の「私」に移っていったりすることがある。そのつど、私はそれが「本当のこと」かどうかを測っている。
※再度触れれば……「本当のこと=私が感じたもの」を記述しようとするとき、それそのものを「私の感情や抽象的な考え」とともに書こうとすると、うまくいかない。逆に、比較的客観性の強いやり方で「風景」や「見たもの」を書くと、かろうじて表現することができる。一見、私性の薄い文章でもって、しかし「本当のこと=私が感じたもの」を私に喚起した風景や対象を読者に伝えることによって、他者に「本当のこと=私が感じたもの」を伝えることが出来る。私性を消して、でも消さない、むしろ強くするという書き方。

・「私」ではない語りを経ることで私が書ける。じゃあ、私でない人の「私」を私が書こうとするとき――またそのとき書かれたものを「本当のこと」かどうか判断するとき――、そこにはどんなふうな方法や判断基準が、私にとってあるのか。

☆これまでの方法論をまとめると……
①日記(そのつど見聞きした風景や話やニュースや本の一節)をもとにしつつ、
②特定の「私」ではない「私」(幽体離脱的な私?)のかたちで文章にし、
③さらにそれらを並べたり細密描写を入れていったりする、
④その過程で「フィクションでありながら自分が本当と感じられるテキスト」にしていく。
⑤結果として、「本当のこと=私が感じたもの」を私に喚起した風景が「共有可能な風景」として書かれていく。同時にそうした風景を描く「私」(の動き)もまた文章上に作られる

※もちろん、そうした「共有可能な風景」を目指すとしたとき、危なさもある。例えば「日本人」みたいなものにつながったりとか。私はそこで、人間の「肉体」を頼りにしていきたいと思っている(けれど、どうか)。


B.同じ風景と幾つかの肉体:例えば、今日マチ子『cocoon』
 じゃあ結局、沖縄をどのようにしたら書けるのか?

ex.今日マチ子『cocoon』(2010)
 ひめゆり学徒隊をモデルにした漫画。
 今日マチ子自身は東京都出身。沖縄に縁のなかった作者が、沖縄出身の編集者に依頼されて、ともに取材に行ったりし、作った作品。

 インタビュー「若者世代も読める新しい戦争漫画描く 漫画家・今日マチ子〈AERA〉」を読むと……
 「ひめゆり学徒隊と同世代の高校生や大学生からたくさんの感想が届いた」ことについて、「共感というよりも、『あ、これは私だ』と思ってもらえたことがうれしかった」と話している。

 また、「『cocoon』『アノネ、』など、現代の女の子の視点で戦争を描く漫画家 今日マチ子さん」では、次のように語ってもいる。

戦争の悲惨さを伝えたい、という気持ちも根底にはあるのですが、戦死者の方々はそもそも、自分の人生を「戦争で亡くなった人」として語って欲しくないと思うのですよね。ひとりの個人として「こういう子でした」とか「こういうことがありました」みたいな話から始めて欲しいのではないかと。その子の人生の中にたまたま戦争があって、一番大事な変化の部分に重なっていたかもしれない、と念頭において作品を作っています。

 →史実をもとにしつつ、フィクションを作る。
 本当に作中の彼女たちがいたわけではないし、彼女たちを取り巻く出来事そのものがあったわけではないけれど、「ああいう女の子たちがいたかもしれない」、「それが私かもしれない」と思わせることはできる。
 また、そのように人や風景を描くことによってはじめて、「戦争」というものは描けるんじゃないかとも思う。
 「戦争」をまず描こうとしても、それは具体的な物としては存在していない。「戦争があった」は、「風が吹いていた」などのように言葉にすることはできるけれど、それでは「本当のこと」にはならない
 それを経験する「私」や風景たちを描くことによってはじめて「戦争」を描くことができるんじゃないか。

☆こうして書いてきた上での考えだけれど、ここでの「本当のこと」とは、幾つかの肉体がばらばらに感じたり考えたりすることのできる対象や概念のこと、ではないか。また重要なのは、そのような対象や概念を書こうとする過程で、「みんな」みたいなものは意識にない、ということだとも思う。あくまでそこではこの私が感じたことや見聞きしたことを出発点にしている。
 →同じ考え方になることが第一に目指されるのではなく、まずは「同じ風景の前に立つ」みたいな感じ。同じ風景の前に立った上で、かつ、なにかしらの肉体をもっていさえすれば、例えば私の抱いた感情や考えを、誰かも同じように持つはずだ、と思っている。


C.制作プラン(2020.12.21時点)
・恐らく、戦争中の若い人(女子学徒隊や鉄血勤皇隊など)を主要モチーフにする。
・ただ、主たる語り手がかれらになるわけではない。かといって現代の私になるわけでもない。
・関係する資料と、沖縄訪問時の自分の日記をもとにする。
・時系列は常に飛ぶだろう。戦争中の風景や人の振る舞いを書きながら、それがそのまま戦争後に生き残った人の話になったりなど。
・読み書きしている現在の私がそのつど触れたもの(海外のニュースなども含む)が、随時混入することにもなるだろう。最終的な読後感としては、例えば「ひめゆりについて書いた作品」のようにはならないかもしれない。より広いところになるのではないか(これまでの自作と共通するものではあるが、「人間のばかばかしさ」が中心になるかもしれない)。


おわり



おまけ:島尾敏雄引用

 そういうもの〔古謡〕が琉球弧のそれぞれの島々、奄美・沖縄・宮古・八重山に、たくさん残っている。これは記載されているものは少ない。もちろん、最近では記載されています。民俗学が非常に盛んですので。ぼくは奄美にいるとき図書館に勤めていたので、夏休みなどたくさん学生諸君がやって来ました。ぼくは夏休みは名瀬市の観光係だと言ってましたけれど、いろんなことを調べにやって来ます。島に伝わっている口承の文学を採集しようとする人たちも来るわけですけれども。オモリという呪詞的要素の強い歌謡が奄美にありました。現在もあるんです。そのオモリはいままで文字化するのが非常にむづかしかった。旧藩時代、薩摩藩士で奄美に流されてきた〓名越左源太〓ルビ:なごやさげんた〓(一八二〇−一八八一)という人が嘉永の頃の奄美の状態を記録した『南島雑話』という本があります。その中にすこし入っているのが、古いものでは唯一ではないでしょうか。その後も、オモリというものはあるんだということは知られていて、オモリ自体を知りたいとみんな思っていたものの、文字化することは難しかった。ノロ――島言葉ではヌルといいますが――という土俗信仰の司祭のような人は、まつりをしている間に神さまになってしまうような性格の女の人のことですが、ある地域に一人いるのです。このノロが、先代のノロから口伝えできく。もちろん紙に書いて覚えるわけではない。だから、わけのわからない言葉があります。そのままにのみこんで、覚えこむ。そして伝わっているわけです。このノロから聞きだすことがたいへん困難だった。一つか二つしか伝わっていなかった。伝えた人が死んでしまったりすることもあり、また、むやみに人に伝えることはできないからです。
 ところが、ぼくが奄美に行ってからのことですが、ウィーン大学の大学院生がひょっこりやってきました。彼は日本の神観念のことを調べに来たんです。日本人がどういう信仰の体系を持っているのかをテーマにしていた。いろんな文献を見ていると、奄美のノロというのは沖縄と同じ構造を持っているんですが、沖縄のほうは若干調べがついているものの、奄美のほうは二、三の学者が調べただけで、ほとんど手がつけられていない。そこに目をつけて、まだ十分調べられていないところを調べたら、彼は自分の学問として博士論文をとりやすかったのかどうか、それは知りませんが、来日して東京からまっすぐ奄美へやってきた。目のつけどころが面白いですね。それで加計呂麻島のいなかの部落に入りこんでしまったのです。ウィーン大学には昔から日本研究所のようなところがあったらしく、そこで日本語を習ってきたのですが、最初は日本といえば桜の下で武士が切腹しているイメージがあった、と言ってました。奄美へ行って、その部落でノロのおばあちゃんと仲良くなって、オモリを簡単に七つもテープに吹き込んでしまったんです。ノロのおばあちゃんは、島の人たちに教えるのはもちろんいけない。本土の学者が行ってもなかなか言を左右にして教えない。けれどもウィーンから目の青くて――なんでも目の青い、というのはジャーナリストの慣用文句ですけど――色の白い、可愛いぼうやが行ったら、七つぐらいテープに取ってしまった。
島尾敏雄『琉球文学論』幻戯書房、2017年、47-49ページ

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