百七十九話 芳枝
浅井の母・芳枝は、息子の帰りを待ち侘びて居た。
しかし、戦時中はその思いを外に出せない。が、戦後となると訳が違う。終戦が隠忍の念に風穴を開ける。芳枝は、感情を爆発させた。
また、隠忍への風穴は、芳枝だけではない。一億総決壊である。
先ず、ラジオが帰還情報を流すようになった。
「本日どこそこの港に復員船が着きます。何年か振りに故國の土を踏んだ帰還兵が㐂び勇んで列車に乗って居ます。各々故郷に向かっています」
原稿を読むアナウンサー。声は弾み、下手したら復員兵以上に㐂んでいる。その放送を街頭に出て皆で聴いた。
復員船が帰港するのは、初め、舞鶴や敦賀といった日本海側の港が多かった。出港地も葫蘆島など一般的に聞き慣れぬマイナーな場所。それだけに芳枝は地図と睨めっこし、懸命に浅井の出所を推測した。その熱量たるや、老眼になり、同じく新聞紙の広告にあったハズキルーペを注文するに至る。
来る日も来る日も芳枝は情報を漁った。情報の鬼となった。
その中で、毎日港に日参し、岸壁に立つ猛者がいることを知る。息子が乗っているかどうかも判らない復員船をただひたすら待ち続けているのだ。
上には上がいる。負けてられない――芳枝は焦ったが、流石に港への日参まで出来ない。そこで、せめて息子の消息だけでも知りたいと思い、品川駅通いを始めた。
復員列車の終着駅・品川――途中に故郷のある者はその最寄り駅で降りる。しかし、東京より北に故郷がある者は品川で乗り換える。品川はターミナルレートだった。
芳枝は暇さえあれば、己がカッティングシートで自作したプラカードを持ち、ホームに駆けつけた。そして、当日到着する復員列車を待ち続ける。
更にそれだけでは物足らず、新聞紙半頁ほどの半紙に、息子の姓名を書き、「もしこの者の消息をご存知でしたら御教え下さい」とサブタイ添えて練り歩く。
ある日芳枝は、半紙を両面に貼り、掲げれば、二倍の効果があることに気付いた。復員列車から降りて来る帰還兵たち。その間を来る日も来る日も飽きることなくプラカード行進する芳枝は、いつの日か歩く広告塔と呼ばれるようになる。
が、芳枝の奮闘虚しく、基本復員兵は自分のことで手一杯。他人に構ってられる余裕はない。ただ、中には立ち止まってプラカを見てくれる仁もいるにはいた。彼らは決まって浅井が所属していた部隊を尋ねる。しかし、芳枝は部隊に関して珍紛漢紛。全くの無知で話が通じない。土台、芳江にとって無理な話だった。
が、それでも子思う親心。世間体もあり、芳枝はなお品川通いを辞められずにいた。
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