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二十六話 とんぼ返り

 南洋庁の指導により、横浜からサイパン・テニアンに向け出航した。
 小野・福原一家と鈴木の親の弟は、この船の中で会う。皆船に乗ること自体初めての上、下手したらもう二度と戻れないかもしれないという不安やあわよくば借金返済からの一攫千金という夢もある。約一週間の船路、早速互いの傷を舐め合う一蓮托生の仲となった。
 夜の船内は真っ暗闇となり、時折起こる渦潮で船酔いに襲われた。胃の中のものを全部吐き、甲板で仰いだ満天の星も気休めにすらならない。寝床は三密で蒸し風呂状態。周囲では、たびたび「今何時?」とか「今日何日?」という言葉が飛び交い、曜日感覚はおろか、日付や時間感覚すら失っていた。誰もが一刻も早い到着を願った。
 
 鈴木の親の弟は、小野・福原の親に「テニアンより東京の方が暑い」と言った。小野・福原の親はホントかなと思ったが、内地は湿気による蒸し暑さがあるし、あながち嘘ではないかもと思い直した。
 が、到着してテニアンの地に降りると、明らか東京より暑かった。
 
 また、予想と異なり、到着したその日から仕事があった。製糖工場での仕分けやさとうきびの伐採である。初日は上長との顔合わせや島内ツアー、互いのレクリエーション的なゆるい交流を期待していただけに当てが外れた。
 
 炎天下で延々続く害虫駆除やさとうきび畑での肉体労働は、非力な小野や福原の親には耐え難いものだった。また、東北育ちの鈴木の親の弟は暑さにやられた。作業中尋常ならぬ汗をかき、いきなり脱水症状に陥った。
 よく考えるとテニアンには四季がなく夏しかない。テニアンがエンドレスサマーであることに気づいた。
 三人は早々根を上げた。

 「思ってたのと違う」
 「バナナやパイナップル畑の方がよかった」
 「いや鰹節工場のほうが海辺で涼しい」
 「もう限界を超えた」
 口々に不平不満が出た。
 しかし、さすがに来てすぐ辞めるとは言えない。
 飛ぼうにも逃げ場がなく、最低三年は働くことにした。
 
 こうして廃人覚悟で仕事を続けるも、途中、小野の親が作業中機械で指を飛ばし、他の二人も病気になったりして不名誉な帰還を果たす。いつの間にか植民不適合の仲となっていた。

 なお、テニアンでは昭和十八(一九四三)年頃から戦況悪化により、民間人の避難が始まる。同十七年、赤道以南にあるガダルカナル島で、アメリカ軍に獲られた飛行場を奪還せんと、日本軍が何度も総攻撃をかけるが失敗。一時は飛行場にある米司令部まで突撃するもあと一歩及ばなかった。米軍は南方の日本の島々を攻略し、飛行場を改修しながら北上してくる。この頃まで我慢すれば、自然に内地に帰れた。
 一方、テニアンの街が気に入ったり、まだ借金が残ってたり、義勇兵を志願したりと、民間人であってもとどまることを望んだ者もいた。五キロ先のサイパンでは三千人を超える民間人が義勇兵になった。
 残った者は総出で陣地構築に駆り出させた。テニアンに四校小学校があったが、六年生になると皆泊まり込みで塹壕づくりに参加。米軍の侵攻が近づくにつれ三年生から参加となり、モッコを持って穴を掘った。
 昭和十九(一九四四)年七月九日、サイパン陥落。民間人死者約一万。
 同年八月一日、テニアン陥落。いずれの島でも追い詰められ、子を抱いて崖から飛び降りる自殺者が続出した。遠因に、欧米人がインディアンや奴隷に行ってきた仕打ちや昭和十二年支那で起きた通州事件などがあり、捕まったらどうなるか想像できていたからである。

 結果論だが、こうしたことを思えば、小野・福原は親に感謝しなければならない。入ったばかりのテニアンの小学校から都内の小学校へ転校すると言われ駄々こねていた。が、そのまま居たら早々モッコを担がされ、その先には壮絶な地獄が待っていた。今頃、米軍の進攻に備え、緊迫の日々を過ごしていただろう。
 それが今、栗巣の口撃、質問攻めにさらされるだけで済んでいた。

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