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百二十一話 実戦のリアル

 遂平すいへい県から敵影がなく、聯隊は、黄河渡河から二十日目の五月十一日、京漢線沿いにある日本軍占領下の都市に着く。許昌市からさらに南へ約百粁米km、河南省確山県だ。
 なお、支那の行政区分では、県より市や区の方が大きい。支那の県は、日本の県よりずっと小さく、日本で言えば「群」程度の規模だ。さらに、県より小さい「郷」や「鎮」などあったが、これは強いて言えば「村」や「町」に当たる。農業人口が多いのが「郷」で、非農業人口の多いのが「鎮」だった。

 それにしても、この二十日間、毎日のように敵と戦い、内十日は白兵戦だった。
 白兵戦といっても、日本刀や青龍刀、肉体がカチ合うだけでなく、銃弾や手榴弾が飛び交う。海戦では、敵兵と身を接してり合うことはまずないから、陸戦ならでは。陸軍、特に歩兵の本領だ。
 闘いはもちろん恐い。だが、始まったらそれどころではななかった。恐いとか考える余裕は一切なく、最早条件反射の世界。一陣の二百人が戦って、交代で二陣向かう関ケ原みたいな乱戦もあったが、敵は何人単位で戦っているのかまったく判らない。多かったり、少なかったり、部隊の人数は、年中変わっているように見えた。 
  
 浅井は、いざとなったら闘うために入隊したので、戦闘に対して、いいとか悪いとか辛いとかない。ひたすら歩く行軍より全然楽だった。
 ただ、軍隊の運動量に比べて、戦域が広すぎるとは感じていた。

 また、戦場で嫌というほど実感したのが、命の軽さだ。
 となりで話していた仲間が一瞬で死ぬ。真に一先は闇ならぬ死で、死が手ぐすね引いて待っている。油断したら死、気を抜いたら死、遅れたら死、居てはいけない場所にいたら死・・・死のヒットパレードだ。
 死ねば人はその瞬間から物となり、さらには数量に変わった。この人命を数量として扱うのが、愚劣な政治家やマスコミ、意識高い系で、数字こそすべてばかりにマウントをとってくる。彼らは、現場の実態を知ろうとしない。故にタチが悪いことこの上なく、彼らが諸悪の根源であることは、誰しも理解できた。
 
 確山県では、すでに中支の第十一軍より宮下兵団一個師団が北上しており、我が二十七師団長の竹下義晴中将と劇的な握手が交わされた。
 これにて、大陸縦断(打通)作戦の第一章である河南(京漢)作戦が終結。以降、二十七師団は、第十一軍隷下に入り、第二章湖南(湘桂)作戦に参画する。
 
 振り返れば、黄河北岸、済源県中馬頭を出発して以来、許昌、臨頴、郾域、西平、遂平を攻略して来た。敵第一戦区軍を殲滅する機動作戦をひたすら続け、約四百粁米kmに及ぶ道のりを僅か二十一日で突破したことは、世界史に残る快挙と言って過言ではない。

 しかし、大陸縦断作戦はこれからが本番である。聯隊は、休む間もなく出発。数日後には、誰がも予期せぬ強大な敵に遭う。そして、壮絶な惨劇に見舞われるのだった。

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