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百二十話 多勢に無勢

 河南作戦の道中、浅井は、祖國日本を客観的に見ることが出来た。
 占領した市街地に入ると、塀や建物の壁に「侵略國日本」とか「鬼畜日本」など、墨汁やペンキで大書してあるのが目につくようになる。日本は「東洋平和」とか「八紘一宇」と言っているが、相手の支那が日本を「侵略國」と呼んでいるとは思ってもいなかった。

 日本軍は、国民党副総裁だった汪精衛(兆銘)を擁立して新政権を作らせ、儲備ちょび券という紙幣も発行していた。しかし、日本に負け続け、支那奥地の重慶に逃げ込んだ蒋介石政権の紙幣=法票(法幣)の方が人気があった。浅井はこのことを不思議に思っていた。
 また、その蒋介石政権も共産主義の毛沢東政権相手に戦っていた。ところが、両者は日本と戦うため休戦協定を結ぶ。よって、以後、日本軍は、国府・共産の両軍を相手に戦うことになった。これだけでも敵地で、一対二だが、さらに言えば、国府軍を欧米が、共産軍をソ連が援助している。多勢に無勢だった。
 
 昭和十九(一九四四)年四月十七日の夜半、黄河を敵前渡河して始まった河南作戦は、五月十一日、漢口に集結することになっていた。
 その三日前の七日午前二時頃、聯隊の前衛第三大隊は、河南省許昌市から約八十粁米km南下した同省遂平すいへい県城の北方六粁米km地点で、頑強な敵に出くわした。
 國府軍の県城は、堅固な城壁に囲まれ、外側に深さ四、五、幅二十くらいの戦車壕がある。今までの県城とは比べてものにならないほど強固で、城壁の外は一面麦畠。敵は無防備な日本軍に、バンバン迫撃砲やチェコ銃を撃ち込んでくる。そのため、夕刻までは近付くことも出来ずに居た。
 聯隊は、単独で行動しておらず、師団の一角として行動を共にしている。故に、何がなんでも遅れるわけにはいかない。遅れることは、先行く友軍の死を意味する。なぜなら、友軍が予定の戦力・作戦で戦えなくなるからだ。

 そこで、聯隊は、第三大隊を北方から、第一大隊を東方および南方から、第二大隊を西方から包囲する態勢をとった。夜半、四一式山砲を二門発射する。それを合図に、浅井らも城壁を乗り越え、城門に突入。迫りくる銃弾を躱しながら突進した。
 守る國府軍は、新編第一師団を基幹とする約千五百名。激戦の末、多数の死者を置き去りに、逃走して行った。
 一方、我が聯隊は、この日珍しく将校の死傷者なし。損害は、下士官兵五名だけだった。

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