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”お布団”『ザ・キャラクタリスティックス シンダー・オブ・プロメテウス」

 先月半ば、”お布団”の『ザ・キャラクタリスティックス シンダー・オブ・プロメテウス」を観に行った。その前に参加した”円盤に乗る場”のイベントで俳優の立蔵葉子さんが出演されることを知った故。

 前情報なし、タイトルから、プロメテウスといえばコーカサス(黒海とカスピ海の間の地域)80年代にボイジャーが発見した土星の衛星 S/1980 S 27 Saturn XVI か、戦争、武器かエネルギーがらみの話か、アイスキュロスか…燃えカスって?なんだか時世を色濃く入れ込んでいるような。
快晴気温36度の小竹向原をアトリエ春風舎に向かった。真夏のマチネは夏の風物詩めいている。灼熱の外気と冷房キンキンの劇場、温度差頭痛が。

  大筋はSFだった。OEM(オリンポス経済ネットワーク)という架空社会共同体が世界を席巻する未来に、医療施設に収容されていたナゾの人物Pが死亡する。この死亡事件はOEMの根幹をゆるがす秘密につながっていた…合理的に世界を牛耳る明るい神と、不明瞭で薄暗い人間存在の関係にありうる本質的なひずみ。人間はキレイに合理的な存在ではない、ぐにゃぐにゃした正体を承知で内包したまま、ある種の覚悟をもってすっとぼけてことに当たらないと、社会は破綻する。劇は中盤から生真面目なエピソードを連ね、やがて至近距離のチェストパスのようにPの理不尽な悲劇が観客に命中する。新米観客の私は受け止めきれなかった、しかしこれはコメディなのだ、笑え!

 6人の俳優が24役(重複あり)を分担して演じているのも見事だった。それとわかる衣装も特にないので、見た目誰が何に扮しているのかわからない、ところが喋りはじめると、瞭然。一瞬で今喋っている人の立場や役割が立ち上がるように脚本が構成されているセリフ劇の技。俳優の表情、声の調子、話し方は、役をかわるごとにニュアンスがかわるが、大仰な変顔でも声色でもなくて、顔がない木偶に魂が投影されるみたいに。劇が進むにつれ、この人ならこういう役かな、人によって劇中の割り振り(ヒールとかエンジェルとかピエロとかヒーロー)が決まっているのかしら?配役と演者の関係を考えるのも面白かった。

プロメテウスは怒らない、こわっ!

呉茂一のギリシャ神話にも出てきたプロメテウスの物語。世界を制覇したゼウスに対して、古い神様の巨人族だったプロメテウスは力なく、滅ぼされる前にゼウス側につき、自分の一族を虐げ、世界を作るのを手伝った。でも、ゼウスに逆らって人類に火を与えたこと、知恵と予言の力があるがために、最果ての山に磔刑にされ、毎日大鷲に肝臓を食われる、それはヘラクレスが開放に来るまで3万年続いた。

ゼウスが求めたことは、どちらが上かはっきりさせてやるという負けず嫌いと、憂さ晴らしと嫌がらせ、激しい拷問による秘密の告白なのだ。神様だから無茶をする、しょうがない、ギリシャ神話の神様は徳が薄めだ。そうそう人の役に立つ存在じゃないのだろう、自然も。

一族郎党滅ぼされたり冷遇された上に、プロジェクトに協力してやったのに感謝もされず、自分の関係者にちょっと便宜を図ったからといって、死ぬより苦しい目に永遠に合わせるなんて、キレないのが不思議。アイスキュロスの劇(プロメテウス三部作の第一部)では、縛られてから大鷲が来る前のプロメテウスと、関係各位のやりとりが展開するが、プロメテウスは落ち着き払っていて、すべては想定内だった、という。

ゼウスの運命に関して重大情報を握っている、ゼウスはそれを知りたくて磔にまでして、生きながら鳥に食われる目に合わせようとして脅す。でも平然と苦境に受け入れ、脅しに乗らず、教えてやらない優位性、どういう気持ちなんだろうか、プロメテウスの気持ちがわからない。

この劇のPは自分が置かれた境遇の理不尽さに怒り狂っていた。この頃大方の人は激怒しない。理不尽でもどこか自分が悪かったとか、運が悪かったとか思って、気持ちを納める。でも本当は怒るほうがいい。たまりにたまった激情で、陰鬱残虐な事件が起こるのは、発散の問題もあるかもしれない。
アジアのどこかのお祭りで、動物に取りつかれて叫びながら走り回るみたいなものがあるが、日々の言葉にならない鬱積を激しい感情で開放することは、すごくヘルシーなんじゃないか、浄化作用があるのではないかと思う。

最終的には優位性を誇って敢えて仕打ちを受け入れる、ということでもいいけれど、自分のしたこと=人類に火を与えた事=人類をひいきしたことが罰に値すると、支配者の一存で悪として見せしめにされた、ということに、もっと怒ったっていい。どうしてブツブツ文句を言ったり、悲劇に嘆くばかりで、怒り狂うプロメテウスではないのか。彼はもっと怒り狂って、関係各位を味方につけ、徹底抗戦したっていい。そうしないわけは、常軌を逸した境遇に対する怒りの根源を簡単に浄化しないため、感情で浪費せず、鬱々とエネルギーを集積した結果、敵対するものをとことん破滅させるに至るという見通しがあるから、なのだろう。つまり呪いの正体ということ。経験的に言っても、穏やかで怒らない、敢えて負けておく胆力のある人はこわい。