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”漂幻する駝鳥”@KAAT

冨安由真の初装置ダンス公演に。前の予定が13時半終わり、KAATのマチネに間に合うのか…副都心線→東横→ブルーライン乗り入れの偉業だった。

冨安さんの装置は誰かの気配が漂う、ものをコラージュしていることもあるかもしれない。ものに宿るログが召喚され、人だけ消えた風俗画みたいで。なにかの事後なのか前兆なのか煙のように漂う雰囲気が美しいと思っていた。ともったり消えたりする電灯、魂は電気エネルギーらしい。

そのインスタレ―ションにダンス、以前個展ではダンス公演が行われたことがあったけれど、ダンスのためにデザインされるのは初なのだそうだ。OrganWorksの集客力もすごそう。

物語はどこかの砂漠に迷い込んだ青年と、その青年の母親らしき人物と、砂漠をその青年を背に載せて運んだ駝鳥の物語が、青年の生家らしき部屋と家具や備品らしきものをめぐり展開する。砂漠はユーラシアらしい、装置は東欧のようで旧ロシア領だった地域のようでウクライナも連想させる。旅人だった青年は人に出会い、争いに巻き込まれ、暴力にからめとられていく、詳細は説明されない、故郷の母親が遠くにいる息子の実情を掴めずに悲しむように、観客は不安と暗い顛末への予感に心を揺さぶられる。

青年役はダンサーではなく、俳優が限られた台詞を与えられて演じる。言葉は青年の手紙なのだが、単語に刻まれてイメージに分解されていく。俳優小川ゲンさんの青っぽい声がよかった。若木のような青年が傷つく非情さが伝わってきた。

客席は舞台を見下ろすスタイルで三方からナラクをのぞき込むみたいにダンスを見下ろせる、こんな風に見るなんて、ドガの踊り子。ダンサーは頭の上から体の動きをしっかりみられて油断できないだろうな。装置は舞台に設えた小屋の中に格納され、進行に連れ舞台に出るか、壁が解体されてバタバタ倒れるのか、天井はないので、最初から中を見下ろせる席もある。

駝鳥か老母か、地球にも見える球体の荷物をしょった小柄な女性が出てくるが、この存在に必要なイメージをもれなく盛り込んだ衣装デザインが面白かった。何もない黒い床に白で書かれている四角形や丸や文字の配置図は、やがて何かが置かれるんだろう、と予感させられて現代アートっぽい。バミリだけで、何も置かれなくても、成立しそうだ。

台詞があるから、装置の世界観が強いから、文脈を掴もうとしてしまった。ダンスの演目だから、ダンスの面白さが見どころだということを忘れがち、迷うなと思った。語られそうな物語に期待してしまった。装置の移動は目まぐるしく、ダンサーが踊りながら段取りで動かし、場の空気を薄めないようにするのは難しい。上から見る都合、ダンサーの顔が良く見えるので、顔の表情を注視してしまい、あ、次の段取りを考えているな?と、しらける瞬間があった。ダンスを上から見るって面白いけど、ダンサーにはハイリスクなのかも。
バレエもコンテンポラリーもダンスを観たい理由は、ダンサーの熱を感じて頭の中で自分も踊りたいから。ダンスの観客は少なからず歌舞音曲お祭り好きなのだ。だから一瞬も踊りを忘れないで、醒めないで、と願うのだ。

終演後に装置の見学タイムがあるのは、親切なのか、やりすぎなのか、微妙だった。