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ツァラトゥストラの好きな文章まとめ③

純潔について、友について、目標について、隣人愛について。

前回(51-100)の続きです。

(101)私は森を愛する。都会は住みにくい。そこには淫乱な者が多すぎる。
(102)あの男たちを見るがいい。彼らの目は語っている。この地上で、女と寝るよりましなことを何も知らないと。
(103)せめて彼らが動物として完全であれば良いのだが、動物になるには無垢でなければならない。
(104)君たちは残忍な目をしているようだ。そして悩める者をみだらな目つきで見る。ただ諸君の好色が姿をかえて、それを同情と称しているのではないか。
(105)純潔はある者には徳だが多くのものにとっては悪徳だ。君たちに官能を殺せとは勧めない。私が勧めるのは官能の無垢である。
(106)本当に底の底から純潔な人は君たちより寛大で、好んで大いに笑う。彼らは純潔こそが愚かなことであると笑い、その愚かさを客としてもてなし、自らの心を宿として貸しているのだ。
(107)「私を」と「私は」はいつも対話に熱中している。そして友はいつも第三者だ。その第三者は、ふたりの対話が深みに沈まないようにするコルクの浮きである。
(108)我々の友への信仰は、我々が心の中で何を信じたいと思っているかを曝露する。我々の友への憧れは、我々の本心を曝露する者だ。
(109)友になろうとするのならば、友のために戦わなければならない。そして戦うためには、敵になることができなくてはならない。
(110)友のなかにいる敵を敬わなくてはならない。君は友に近づきすぎて、一心同体にならないでいることができるか。
(111)友のために、どんなに美しく着飾っても過ぎるということはない。君は友にとって、超人の矢であり、憧れであるべきだから。
(112)君の同情は推察であれ。まず友が同情して欲しいかどうか知らなくては。ともすれば、彼の愛しているのは、君の透徹した目と、永遠への眼差しかもしれない。
(113)君は友の、澄み切った大気であり、孤独であり、パンであり、薬であるか。自らを縛る鎖を解くことができなくても、友を解き放つことができるものは少なくない。
(114)君は奴隷か、ならば友になることはできない。君は専制君主か、ならば友と持つことはできない。
(115)女性のなかには、あまりにも長い間、奴隷と専制君主が住んでいた。だから女性はまだ友情を結ぶことができない。知っているのは愛だけだ。
(116)女性の愛のなかには、彼女が愛しない全てのものに対する不公平と盲目がある。そして知的な女性の愛にすらも、光と並んで奇襲と稲妻と夜がある。
(117)諸君、男たちよ。君たちの魂の貧しさ、しわさはどうだ。君たちが友に与えるくらいのものを、私は敵にも与えよう。だからといって貧しくはならない。
(118)仲間内の身びいきはある。だがそこに友情があって欲しい。
(119)ある民族では善とすることが、他の民族には侮蔑すべきこと、恥辱とされていた。ここでは悪と呼ばれることが、他では深紅の栄光に飾られていた。
(120)隣人同士が理解し合うことは決してなかった。それぞれの魂は、相手の妄念と悪意をいぶかしがっていた。
(121)その民族を支配と勝利と栄光に導き、隣人を恐怖させ嫉妬させるもの、それこそがこの民族にとっては高いもの、第一のもの、基準であり万物の意味だ。
(122)人間はみずから己自身に自分の善と悪との全てを与えた。誰かから受け取ったのではない。見つけたものでもない。天の声として降ってきたものでもない。
(123)自らを養うために、人間は事物のなかに価値を置いた。人間が事物の意味を、人間的な意味を与えた。だから彼は「人間」と呼ばれる。すなわち「評価する者」と。
(124)真に評価することは、創造することだけだ。評価することそれ自体が、高く評価されるすべてのものに勝る宝だ。
(125)価値が変わる。それは創造者が変わるということだ。創造せずにいられない者は、つねに破壊をやめない。
(126)はじめは様々な民族こそが創造者だった。後になってはじめて個人が創造者となった。個人というもの自体が極めて近年の産物だ。
(127)群れることの喜びは「われ」であることの喜びよりも古い。
(128)良心にやましいところがなく群れているという場においては、ただやましい良心だけが「われ」を口にする。
(129)本当に、自らの利益のために多数の利益をはかろうとする、狡猾で愛に欠けた「われ」は、群れることの起源ではなくその没落である。
(130)善と悪を創造した者は、つねに愛によって創造した。そのすべての徳の名において。そして怒りも燃えていた。
(131)ツァラトゥストラは多くの国と多くの民族をみた。そしてこの地上において、愛を持って行う者が作り出したもの以上に大きな力を持つものを見出さなかった。その名は「善」と「悪」である。
(132)その賞賛の力、叱責の力は本当に怪物だ。誰がこの怪物を克服するか。誰がこの獣の千の首に軛(くびき)をかけるのか。
(133)今まで千の目標があった。千の民族がいたのだから。だがこの千の首をひとつに束ねる軛(くびき)がまだない。ひとつの目標がない。人類はまだ目標を持ってない。
(134)我が兄弟たちよ、人類にまだ目標がないなら、人類そのものがまだ居ないのではないか。
(135)諸君は隣人に群がってそれに美名を与えている。だが言おう、君たちの隣人愛は、君たち自身をうまく愛することができていないということだ。
(136)君たちは己自身から逃れて、隣人のもとへ走る。そしてそのことをひとつの徳に仕立てようとする。だが私は諸君の「無私」の正体を見抜いている。
(137)「汝」は「我/われ」よりも古い。「汝」は聖なるものとして語られたが「我/われ」はいまだそうではない。だから人間は隣人へと殺到する。
(138)私がむしろ勧めるのは、遠人への愛、来るべき人への愛だ。それは隣人からの逃走であり、物事や幻影への愛だ。
(139)君に先だっていく幻影は、君よりも美しい。なぜ君はそれに己の骨肉を与えようとしないのか。君は幻影を怖がって隣人のもとに走る。
(140)諸君があらゆる隣人に、またその近隣の者たちに耐えられなくなればいいと思う。そうすれば君たちは己自身から、友と溢れんばかりの心情とを創り出さなければならなくなる。
(141)君たちは自分をよく言われたいとき、証人を連れてくる。そして証人をたぶらかして、自分のことを良いと思い込ませる。すると君たちは自分自身をなかなかのものだと思うようになる。
(142)君たちは隣人と交際するときに、自らのことを語ることによって、自分も隣人をも騙すことになる。
(143)道化は語る「人間との交際は性格をそこなう。特に性格のないものはそうなる」と。
(144)ある者は自分を探して隣人のところに行く。ある者は自分を無くしたくて隣人のところに行く。自分自身をよく愛することができないから、君たちの孤独は牢獄となってしまう。
(145)諸君の隣人愛は、そこに居ない者を犠牲にする。君たちが五人集まれば、いつも六人目が血祭りにあげられる。
(146)私は諸君に隣人を教えない。友を教える。友こそ諸君の大地の祝祭であれ。そして超人への予感であれ。
(147)私は諸君に友を、その満ち溢れる心情を教える。だが満ち溢れる心情を持って愛されたいと思うなら、海綿になることを心得ていなければならない。
(148)私は諸君に友を教える。そのなかで世界がすでに完成している。善の受け皿である友を。完成した世界をいつでも贈ろうとする、創造する友を。
(149)もっとも遠い未来こそが、君の今日の動機であれ。君の友のなかで、君は自らの動機としての超人を愛さなければならない。
(150)私は諸君に隣人愛を勧めない。私は諸君に遠人への愛を勧める。

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