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両親が不登校を認めてくれなくても大丈夫、生きていけます。

わたしは女子高生のときに暗黒期を経験している。普段お茶を濁したり、丁寧に語ることはないので、語るのは今回が初めてである。「両親が不登校を認めてくれた。生きていけると思った。」のあのコピーが、闇に触れてきたのでここらへんで書き出しておこうと思う。

高校中退・編入・大卒芸人

私がピザ好きになったのは、18歳の秋、高校を辞めて、増えていく家事に嫌気がさして「これバイトしたがいいんじゃね?」と思って、近所で働き出したことから始まる。

いきなりドラマティックで恐縮だが、わたしは高校中退して半年後に定時制へ編入し、一年遅れでしれっと卒業した芸人である。そのあと近場の私大へ行ったが、大した理由はない。

15歳〜18、20歳くらいまで闇の時代を過ごしていたので、生きていけないかもと病んでる人のために書き記そうと思う。

高校選択ミス〜高校は偏差値で選ぶな〜

初めの高校はいわゆる地区の2番手高であり、追い越せ追い越せ学校で、福岡県特有の朝課外があるなど、詰め込み教育万歳だったし、わたしの入試スキルは頭の良さではなく、詰め込み努力の賜物であった。つまり自頭的に足りなかった。そしてさらに、この校風とわたしはすこぶる相入れなかった。今でこそ、「決まり切った時間割」や「予定調和」が無理なのだが、いけると踏んでいた。

そして、当時好きだった男の子に追いつこうと思って(でもまあ一番手高に入学した彼に追いつくはずもなく)必死に勉強したが、二番手高がギリギリの偏差値だった。数学だけは好きだったので、理数系のコースを選択してしまった。ここがわたしの誤りである。

入学が決まり、選択は美術にしようとワクワクしていた。ところが、入学ガイダンスのときに、時間の都合上、我々のクラスは「音楽に固定」とのことで、膝から崩れ落ちた。美術系に進む夢をほのかに期待していたからだ。やる気もなくし、夢を抱いてはいけないのかなと、その時点であきらめてしまった。ささやかだが、ティーンエイジャーとしてはそんな単純なもので心折れるのである。

数学はもちろんのこと、まわりはたいへん優秀であり、わたしは速攻で落ちこぼれ…いや、勉強へのやる気をなくしていった。受験勉強で必死に理科科目の点数を上げたが、もともとまるで興味のなかった分野、分野も選択できず、より興味がなくなっていった。洋楽のCDを買っては、通学で聴くのが楽しみなくらいだった。友達はちゃんといた。

そこそこ頑張って通っていたが、2年生の冬、婦人科系の痛みがひどくなり、生理が来るたびにまるで起き上がれなくなった。近所の婦人科で筋肉注射を打っていた。

婦人科のトラブルは毎月1度くるので、本当にしんどい。今でこそ、ホルモン剤のおかげで落ち着いているが、高校生のあのとき、偏見なく薬を飲んでいたら、わたしはどんなに勉強に勤しみ、健全な高校生活を送れたかわからない。

さて、そんな体調不良の冬で、休みがちになって、さらに落ちこぼれは加速した。教科書の読みにくさに「どこの誰がなんのために作ったんだ?」といつも思っていた。参考書がわかりやすいなら、なぜ、参考書は教科書ではないんだろうと疑問に思う。とにかく、どんどんついていけなくなった。

減り続ける体重、主食はりんご、若年性うつ

3年生になると、電車にのれない、朝起きれない、味噌汁が怖い、などがはじまり、体重が165cm/42kgまで落ちた。

世の中の人々は40kg代を崇め奉るが、わたしにとっては地獄だった。あの頃の主食は"りんご"と"薄切りの豚しゃぶ""サラダ"だけで、それ以外は食べたくても吐いてしまうループだった。なので、痩せ体型・40kg代信仰者は、何をもってその数字を理想とするのか問いただしたい。

当時、わたしは、なんでこんなに悲しいのか、学校に行けないのか、体調が悪いのか、まるでわからなかった。17歳、18歳くらいの小娘である。わかるはずもない。周りの大人もわかってる人はいたか怪しい。

かかりつけのお医者さんが、「うつかもしれないね」と、心療内科を紹介してくれて、わたしは「若年性うつ」と診断された。

当時、うつは、中年男性がかかる病気と言われていて、花の女子高生がうつにかかるとは誰も思っていなかっただろう。一般家庭だった家が、まあ険悪な雰囲気になったし、育て方云々みたいな話もしていたと思う。当時うつ病は保険対象外だったので、両親は本当に大変だったと思う。

でもそんなことよりも、わたしは死にたかったし、死ねなかったし、何がしたいのかさっぱりわからない日々だった。こんなに苦しいのに家族に気をつかうなんて無理である。本当は誰からも隔離されて入院したかった。

学校にいっても、友達はいるし、(負のオーラが出てたので人は寄ってこなかったけど)激しく嫌われたりとかはなかった。いや、危害を加えられると思われてたのかもしれない。まあ、そこそこ楽しく過ごしたのも事実だ。

回復期から学校を辞めるまで

高校3年生の初夏だったと思う。薬のおかげで、夜眠れるようになったが、合わない薬があったので止めたところ、メンタルが悪化してまた学校に行けなくなった。

みんなが最後の体育祭の準備をする中で、わたしは何もした記憶がない。なんか走って大ゴケして保健室で手当てを受けた覚えはある。

音楽劇をやることになって「班に分かれたからいんとぅシナリオ書いてよ」と、飛行機の整備技士を目指してる男の子にパイロット(視力の関係でパイロットにはなれないと言ってたから)、クラス一の秀才に女装でスッチー役を演じてもらい、その飛行機がハイジャックされるラブストーリー「ギュッと!LUCK」を書いたのはいい思い出である。やることはやっている。さかのぼるが、2年生の修学旅行の日光東照宮で大凶引いた。あれは許さない。

それでもそれは調子の良い日であり、調子の悪い日は、いつも夜泣いていたし、朝になって眠った。

「明日、目が覚めないのでは?」「明日もまた電車降りて吐くのでは?」「なぜわたしは学校に行けないのだろう?」

そんなふうに思っていたし、夜にベランダに出て「死ねるかな」と思ったこともある。その日は父が部屋に入ってきて、「どうした?何してるんだ?」と様子を見にきた。親というのはすごいと思った。

9月くらいに担任から電話があり、「英語の授業あと一つでも休んだら留年だがどうする?」と言われ、退学を決めた。友達は「うちが近いからうちから通いなって」といってくれたが、辞めるのは初めて自分でした決断だったと言える。退学の手続きのときに、担任はうっすら涙を浮かべていて、学年主任はニコニコしていた。

両親は、自慢の娘が中卒になった事を嘆いていたし、泣いていた。

引きこもりに飽きて、一ヶ月で働く女

1ヶ月ほどたち、わたしの生活は劇的に改善した。
今思うと、わたしのうつは、ただ、「学校を辞めたい」と言えなかっただけかもしれない。「辞める」「自分に合わない」と言えなくて、その後どうしたらいいかも分からなくて、そうなったのかと思っている。

わたしは昼に起きて、NHKの教育テレビを見ながら過ごし、洗濯物を干して、風呂を洗っておく、そして寝る、このくり返しですごした。ある日、任される家事が増えてきて、だんだん嫌になり、近所で働くことにした。

なぜか雇われ、生きていける自信があったので、当時両親が中卒にこだわるのが理解できなかった。それよりもわたしの体を心配しろよ、と思っていた。もちろん、ちゃんとしていたとは思う。

アルバイトは2社面接し、1社受かった。それが冒頭のピザレストランである。後々「なんで受かったんだろう」と思ったが、中卒の社員さん、定時制に通う高校生、フリーターの人たち、バリバリの大学生などがいて、なんかほっとした。わたしは昼の時間帯だったので、主婦の人たちと仲良くなってすごく良くしてもらった。

最初は重くておぼんもピザ皿も持てなかったが、ピザやパスタのまかないがおいしくて、体重も50kg代になり、体の調子も良くなった。同級生が食べにきてくれたのもよく覚えている。

体重が戻ったのは、みんなが受験真っ盛りの12月とかくらいだったと思う。同じ時間軸とは思えない、パラレルワールドのような気持ちだった。

しゃあない、高校は出とくか

あるときの休憩時間、中卒の社員さん(高校辞めて結婚して家族を支えている)から、「俺は高校とか大学、ちゃんと行きたかった。おまえさ、行けるなら高校はせめて出とけよ、仕事絞られるんだぞ」と、その人が作ってくれたまかないピザを食べながらわたしは「ん〜、戻れるなら、高校に戻ろうかなぁ」とゆるく決意した。

心の奥底に「働きたくねぇな」という気持ちもあった。そして、定時制に編入している子たちに話を聞いたり、人に会うようになった。

定時制高校の編入試験を面接で受けれる事を知り、なんか書類を取りに行ったかで前の学校に顔を出した。卒業式の後だったかもしれない。みんなが制服の中で、わたしは黒いTシャツにジーパンで髪は染めてたかも。

なお編入は面接で無事合格した。「ダメだったらテスト対策するからな!」と担任が言ってくれたので、全力で面接に挑んだ。「前の学校でテスト対策はいやだ」、そういう気合が面接官に伝わったのかもしれない。倍率は高かったので不安だったが、名前があって、ほっとした。確か朝の部の編入合格者は2名だけだったと思う。担任のおかげである。

バイトの卒業と編入した学校生活

こうして、高校生に戻ることになったわたしは、バイトを半年で卒業することにした。やはり体調にムラがあったので、学業を優先する事を選んだ。

中卒の社員さんは、わたしの編入をすごく喜んでくれて、「がんばれよ!」と背中を押してくれた。料理長とその社員さんに挨拶して、2回目の高校生活を迎えることになった。

2回目の高校は「自由とは責任を伴うものである」みたいな、よくできた定時制の学校だった。なお県立である。

制服はなく、授業も自分で選び、コースもいくつか分けられている。一応クラスはあるが、週一のHRで顔を合わす程度で、授業が一緒とか趣味が一緒とかそういう部類で集まる、とてつもなく大人な高校だった。年齢も様々で、普段働いている人も、おばあちゃんもいた。

中学の同級生が先に編入していたので、まあ、馴染めないことはなく、友達もできた。校風も自分に合っていたので、中3の学校選択の時に「お前は希望の進学校ではなく、この学校の方が向いてると思うぞ」とやんわり言ってくれた塾の先生を思い出した。わたしは初めからこのルートに進んでおいた方がのびのび実力を発揮できたかもしれない、と後悔した。

目的や職業が明確な子は「専門学校」に、あんまない子は「大学」に行っている印象で、「大学かぁー、県立受けて、あとは貿易学科でワインとチーズでも輸入すっかな」と受験した。県立は落ちたので、近場の私大の貿易学科に進んだ。

親の許す範囲内と、割と好きなものからチョイスした無難な選択である。大学にはまるで興味がなく、「働く」か「勉強する」かの二択なら、「大学生になったほうがみんな喜ぶからそうした」「大卒じゃないと仕事がないと言われたからそうした」といったところである。わたしは、幸せだとは思っていなかった。

選択肢は知っている人だから選べるもの

わたしの目の前の選択肢に、"大学へ進んで就職する"以外の道筋が見えなかった。他の道は存在しなかった。本当は他にも合ったと思うが、働くか結婚するか大学へ行くかしか見えにくい。当時はまだ体のムラも多く、すぐに働くのは難しいと思っていた。彼氏も学生だったので、おんぶに抱っこはあんまりである。

わたしは当時、美術系に進む最後のチャンスだったにも関わらず、怖気付いて進まなかった。親に「お金にならんでしょうよ」と言われたときに、言い返せなかった。ガチのクリエイティブはちゃんと稼いでいるし、世の中が知らないだけで本当に必要な仕事である。よく調べもしなかった。

そして、わたしは、日本で大量生産されている、モラトリアムけだるい大学生になった。

天気がよいので学校でカプリコ食べてた

目的のないわたしは、せめて好きだった美術部に所属して、マクドナルド→某チョコレート店でアルバイトをした。

1年生の前期はちゃんと単位を取っていたのだが、チョコレート店の接客のバイトが楽しいし、授業がつまらなくて、天気の良い日は外で本を読んでいた。そのときは三島由紀夫にはまっていたのと、ビレバンに置いてある本を読んでたと思う。

雨の日は、部室にいて「軍鶏」を読むか「ジョジョの奇妙な冒険」を読むか、絵を描いてはいなかった。ポケモンを育てとにかく寝てた。先輩とどこかにあるという伝説の「めだか池」を探しに行ったこともある。

新しい彼氏もでき、きちんと幸せな恋愛をした。勉強は適当に、ゼミや興味のある授業、活動以外は努力などしていなかった。アルバイトはバレンタイン期にモールのブースを任せてもらい、3週間で550万売れた。350万予算だったので他所の店舗から商品を回してもらった。翌年は予算600万つけてもらった。これだけは就活で使った。

3年生のみんなが黒髪転換する頃に、オレンジに染めてたし、就活がなんかとにかく嫌でたまらなかった。ので、スタートも遅く、決まったのは秋だった。4年生の前期に40単位取り、無事卒業を勝ち取ったが、「実は単位が足りてない」という夢を未だに見る。

そして、友達にその話をすると「あんた卒業式一緒でたじゃん」「写真あるでしょ、筒あるでしょ、筒」と笑われる。

親は、大学を出たことを心から喜んでいた。

後でやめるなら最初に入らなければいいのに

あるとき、その高校に入りたかった子から「後でやめるなら最初に入らなければいいのに」と声をかけられたことがある。

そのつもりで入学したわけではないんだけど、わたしの辛い筋肉注射の話や、味噌汁の匂いだけで気持ち悪くなる経験とか中卒になったのをその人に話したところで、「その席は自分が欲しかったのに」という溝を持ってる人には不十分な回答だろう。

その人はその人で辛い思いをしたのだろうから、「ごめんね」というので精いっぱいだった。わたしは美術の学校に進む席か、数学の能力がある人の席が欲しかった。それと同様で、その人もこの席さえあればもっと自分を活かせたのにと思ったのだろう。

わたしの人生の中でうつや学校を辞めたのは、ドラマでもなんでもなく、ただほとんどが意味もわからず苦しい時間だった。

わたしはわたしであるだけであり、その"病気を経験した・復活した・いまはちゃんと働いてる"は当事者の希望でいたいが、わたしの全てではない。これから先、別の病気になるかもしれないし、大成功・大失敗、平和に暮らしました、などなど、どういうオチが付くかわからない。

また、うつを甘えだとよく聞くが、甘えではない。あれはしんどい。ただ、うつを特別だと、うつにかかった自分に酔ってマウントしてくる人に対しては、結構わたしはドライに「高校生の時わたしもなったよ、辛いけど大丈夫だよ」と早めの罹患マウントを取っている。見えない世の中に負けないで欲しいから。

両親も最初から親じゃない

自分の親は親として生まれてきたわけではない。
少年少女時代があり、ある程度自分と同じ過程を踏み、それぞれ家族トラブルや置かれた環境下で生き抜いて、二人の男女が出会って子供ができて必死に育ててきたのである。

親が不登校でなければ、不登校になった子の気持ちを理解するのは難しいと思うし、身近にそういう人がいると意識していない「学校に行くことが正義だマン」だと、お互いしんどいかもしれない。

こどもが不登校だから、学校辞めたからって、100%親の責任とは言えない。わたしの場合は、わたしがそこそこ勉強し、校風と自分がマッチしないこと、偏差値で選んだこと、両親に進学校のイメージがなくわたしに合うかジャッジできなかったこと、受験制度に合わなかったせいである。

だが、人は、結果だけを見る。
結果だけをみて、安易な原因を探し、それで落ち着く。その課題を抱えるのがストレスだからだ。だから「親が悪いとか、他の子に悪影響が〜、〇〇のくせに〜、それをされる方が悪い」とかいうのである。なので、相手をしなくていい。

本当は何が原因なのかを分析したり、疑問をもつほど、他人は暇ではないし、優先順位をつけて生きているだけだ。本当の原因をわかっておく必要があるのは、自分だけである。

死にたいと思っても、どうか生きてほしい

わたしの人生の春は、大人になって、好きな仕事を見つけたこと。"若い無知な女性”として扱われなくなったこと。ある程度の収入を得たことで、ようやくやってきた。

ここで、死にたいと思う原因は、自分のやり方や生き方、考え方や環境がマッチしてないにも関わらず、それを望まれていたり、人からやいやい言われたり、思うように生きられないときに、発動するのかと思う。

金銭的にその方向を選択できない、環境として許されない、その立場でその振る舞いを望まれない、様々な制約がある。それから背くと批判される、変わり者扱いを受けるが、表面ではにこやかである。そのギャップが繊細な人は苦しいのかもしれない。

詰まってしまったときに、ループから抜け出せなくなったときに、その気持ちは襲ってくる。わたしは年齢を重ねて、生活できるお金を手にすることで自分のやりたいようにできるようになった。

その県その町その村しか知らないのと、いろんな環境を経てその場所にいるのとでは大きく違う。その家庭でのルールが、その学校でのルールが、その会社での、その国でのルールが全てではない。ちょっと外に出ると、ルールや"恥"の基準は場所によって異なることに気づく。

生きやすい環境をみつけて、そこで正当な報酬を稼ぎ、自助で生活し、人と助け合うことが幸福の鍵なような気がしている。

世の中の人に苦労と苦悩をせずに生きて欲しい

わたしの人生が誰かの役に立つとすれば、両親に不登校を認めてもらえなくても、両親が悲しんだとしても、「死ぬよりは生きる選択をしてね」「いまは悲しませても、生きることで後で喜んでくれる日が来るよ」「他人がなんだ、他人はお前なのか」ということだろうか。

子が生きることを望めない親もいると思うので、そういう親に当たってしまった人にいいたいのは「都合のいいことばと脅しの言葉、その人の行動に注意して逃げろ」なので、「いのちをだいじに」が一番のキーワードである。そういう親になってしまった人にいいたいのは、子供は正当なところに預けてまず、自分の心のケアと、安易な逃避や発散は選ばないでほしいということだろうか。

わたしは四角四面猪突猛進タイプなので、あのときドロップしたことは、人生経験としてすごく良かったと思う。そりゃあ辛かったし、個別には話したくもない。

友達にも親にも心配してくれた人たちにも何もできなかったけど、元気になればそれだけで人は喜んでくれるものだ。

コピーを読んで傷ついたあなたへ

今回のコピーの件は、コピーというのはどうしても、ある特定の層というより、多くの人に課題として気付いてもらうようなものが話題を生む。

今回のターゲットは親であり、「あの子不登校らしい」というような「不登校」を一括りにしている層へ向けられている。「不登校」に対して本質を理解してない人に向けたものだ。

広告を出したご本人も不登校を経験されているので、わたしの独白の数千倍読みやすくわかりやすいはずだ。

普段は意識していないものを意識させるための言葉なので、不登校を認めてくれない親を持つ子からすると、あの新聞や話題は「自分の不幸を感じさせる加速器」になりかねない。あのコピーがいい悪いではない。言えない子もいて、認められない親もいる、それだけである。

あのコピーは世界に課題としてアピールすることで、議論を生み、「親は不登校を認めて良い、不登校は悪いことではない、そういうこともある」とアップデートするためにある。

だから、コピーを読んで傷ついた人は、不幸を感じる必要はなく、大丈夫だよと言いたい。

それに、我が両親は当時不登校を認められなかったと思うし、わたし自身、自分が不登校になったのを認められなかった。それでもわりかし幸せに生きているし、喉元を過ぎればなんとやらってやつである。

オシャレでイケてる生き方ではないかもしれない。なんかそっと距離を取られることもある。人に"ふつうではない別の生き物"として見られることもあるけど、うっかり同じ道を踏んでしまう人が死なない・迷わない・自分らしく人生を歩むための道標になることができたらいいな。

休んでも腐らないでね。強く生きていこうぜ兄弟。

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