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「嫌われる勇気」

「誰かに嫌われる」というのは、万人に等しく与えられる体験でしかないが、ここ最近の私は、特定の誰かが私を嫌っていると察した時に、「それはその人の問題でしかない」とつくづく感じるようになっている。人生において誰かに嫌われることは至極当然のことで、ごく自然な流れの一部でしかない。

最近、短期バイトや単発バイトを始めている。予定がなく非生産的に過ごしがちな休日に、数時間でもアルバイトをすることで「お金を稼ぎたい」「有り余るエネルギーを他者や社会に還元したい」「精力的に様々なことに挑戦したい」と、考えているからだ。当然それをするには面接や面談をクリアしなければならないが、当たり前で、採用になることもあれば不採用になることもある。今のところその関門の突破率は五分五分である。採用の連絡が来る度に私は「見る目があるいい企業だ。私の力を最大限に発揮できるに違いない」と感じるし、また、不採用ゆえに連絡が入らなければ「見る目がない企業だ。きっと私の力も活かせないだろう。縁がなくて当然だ」と考える。ともすれば自意識過剰で、自己欺瞞に満ちたナルシストのようだが、自己否定や自己犠牲をやめ、自らの価値を受け入れ自然体で生きれらるようになってからは、こういった思考が自ずと巡るようになっている。

私を嫌う人の多くは、私のことを誤解している。自然体で生きる様子を「能天気で子供っぽい、苦労をしたことがない人」と受け止める人もいれば、その一方で、内観し深く洞察しようと試みる姿を「気難しくて頭が硬い、柔軟性に欠ける人」と捉える人もいる。雰囲気だけで「育ちがいい人」と判断されるケースもあるが、残念ながらそれは後天的に見出した素養でしかない。そういった誤解から嫉妬をされ嫌煙されたり、誤解が生んだ優位性からマウント対象に仕立て上げられるものの、攻撃を交わされ苛立ちを強められる、などなど、こちらの在り方を歪曲した視点で受け止め、各々の内側でネガティブな感情を生成し、回避や攻撃といった行動を噴出させる。私はといえばその様子から、ここまで記した一連の文章を頭の中に想起させている。「あぁ、この人は内側に困難を抱えており、それゆえに私を誤解をしているのだな」と。

こういった思考を吐露すれば、次にやって来るのは「自己肯定感が高い人に対する不快感を示す者達」である。数年前の私もその一員だったので、こういった思考回路は手に取るようにわかる。彼らは自己肯定感が高い人間を目にすると、ひどく落ち込み、愚痴をこぼし、闘争か逃走の態勢を取る。前向きで曇りのない態度、晴れ晴れとした思考を持ち、爽やかな風のように言葉を使う人間に対して、自己肯定感の低い人間は、自分自身の引け目や負い目を丸裸にされたような気持ちになり、近くにいるだけで窒息しそうになる。それゆえに、自分の中に陰りを持つ人間は、そうでない人間を受け入れられない。前向きな言葉を使う度に「でもさ」や「だけどね」などの言葉で会話を続けてくる者は、意欲的な人間に対し脅威を覚え、怯え、臨戦態勢に入っている。それは、心の奥底に隠し続けている闇のエネルギーから、自分自身を守るためにだ。しかし、それらも誤解なのだ。私はそういった人間にとって理解者か、ともすれば救済者にもなれるはずなのだが、彼らはそれを認めることはない。ついでに、こういった書き下し方についても「上から目線」「冷たく突き放している」といった印象を与えてしまうだろうが、そう受け取られてしまうことに対しても、最早どうしようもない。優しく寄り添うことで生じる自他の依存心から、互いを守るねらいもここにはある。

私は自分が心地よくあるためにできることや、柔軟であることを日々心がけている。気に入らない人物を故意に陥れようとか、自堕落に甘えて生きようなんて、微塵も思っていない。しかしそれらが、ある人にとっては攻撃に見えるかもしれないし、ある人にとっては逃げに見えるかもしれない。それらは私にはコントロールできないことであり、私の問題ではない。「誰かが嫌っている」のは「その人の問題」でしかない。彼らの受け取り方に惑わされて生きることは、自分の人生の舵取りを、その彼らに委ねることと同義なのである。


一月十九日 戸部井