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「推し」が「毒」になる/③境界線を引く

※この記事は【②承認欲求とドーパミンの罠】の続きです。

【③境界線を引く】
視聴していた「サバ番」は大団円を迎え、私が応援している「推し」もSNSのアカウントを開設した。私自身でも推しを応援する為のアカウントを用意し、ファンイラストを載せたり、改めて番組や参加者を振り返るような投稿を続けていたが、自分がこのような習慣を手放せず、日々与えられる他者からの反応で満足してしまっている事態を、薄っすらと懸念してはいた。「ドーパミンの永久機関」を作り上げてしまった私は、その快楽装置を手放せず、短期的報酬で自分自身を誤魔化していたのだ。

「FOMO」と「JOMO」という言葉がある。
「FOMO」は「Fear Of Missing Out」の略で、「取り残される恐れ」を意味し、「JOMO」は「Joy Of Missing Out」の略で、「取り残される喜び」を意味する。この二つは対義語だ。
SNSから距離を置いてしまえば、周囲から取り残され、情報を逃し、チャンスを失ってしまうと思いがちだが、実際はそれ自体が苦痛を生み続ける原因となっている。フォーカスするほど不安や焦りを大きくさせ、その不安や焦りを解消するために、またスマートフォンを手に取ってしまう。これが「FOMO」だ。
一方で、そういった恐れを真に解消するために、境界線を引き、実生活にフォーカスすることが「JOMO」である。スマートフォンなどの電子機器の使用は必要最低限に留め、目の前にいる人間との交流や、自分自身の生産的な活動を優先させる。そこにある充足感や幸福感に目を向けることができれば、SNSで心をすり減らすことの無意味さに気が付ける。

私は思考の片隅で「このままではいけない」と感じていながら、不定期に更新される推しの投稿に喜び、そのことについて思いの丈を発信し、閲覧者からの反応を楽しむ、といったサイクルから抜け出せなくなっていた。そういった日常を、今となっては「怠惰だった」と感じているが、同時に「仕方がなかった」とも思っている。そんな日々から目を背け、私の心は徐々に曇りがかっていった。
外出時に電波状況が悪く、推しのSNSをチェックできなかった際、私はひどく苛立ってしまい、自分の「執着心」を目の当たりにした。目の前にいる人間よりも、画面の中の推しを優先し、イライラした態度を出してしまう場面さえあった。また、不規則に更新される推しのSNSをしきりに確認する習慣には、自分の「依存心」を感じ取っていた。更新がなければ肩を落とし、場合によっては不安感さえも引き起こす。私の状況はあまり良くなかった。

自分の在り方を見直すために、決め手となった体験がある。推しが、ファンが描いた似顔絵をSNS上にシェアしたのだ。それを見た私はひどく嫉妬し、そのことで強く葛藤した。それは悲しいことに、私も推しに見つけてもらいたい、私の絵も沢山の人に見てもらいたい、といった「承認欲求」でしかなかった。推しを利用して私は、自分自身の心の隙間を埋め続け、空虚な感情を肥大化させ、愛の対象を「推し」から「自分」へとスライドさせてしまっていたのだ。「推しを応援したい」と思い描き続けていたイラストは、次第に「自分を見せつけたい」という道具に成り代わり、発信した内容から得られる反応や、そこから生じる同志との交流に現を抜かし、私は自分でも気付かないうちに「薬」だったはずの推しを「毒」へと変化させてしまっていたのである。
そのことに気付き自分自身を恥じたのと同時に、私は自分の心を守るため、そして推しを毒にしないために、その日から推しのアカウントに限らず、SNSそのものを見るのをやめた。アプリを起動してしまえば、「おすすめ」などを通して、対象の情報に触れてしまうからだ。更にそれに伴って、私は推しに関する一切の投稿も控えるようにした。反応を得てしまえば、蟻地獄のようなドーパミンの罠にもう一度はまってしまう。その危険から身を守るからだ。
日々のルーティンと化していた推しのアカウントのチェックも、一日、二日と我慢すれば気にならなくなっていた。最初こそ取り残される不安に苛まれたし、少しだけ見てしまおうか、という魔も差しかけたが、インプットと同時にアウトプットを控えたことが吉と出たのか、それらに充てていた時間をそっくりそのまま「仕事」や「読書」に置き換えられ、むしろ前向きな気持ちで生産的な時間を過ごせるようになっていった。

ファン対象であれ、ファン同士であれ、そういった心の境界線を引く勇気が必要だと、私は思う。自分の状況を客観的に捉え、「FOMO」を「JOMO」に変えていく必要があるのだ。私のケースは極端であったかもしれないが、対象との心理的距離が縮まりやすい昨今の事情においては、こういったパターンも珍しくなく、多くの人が陥りやすい罠ではないかと感じる。また、ファン同士の交流においても同様のことが言えるのではないだろうか。対象への熱意を「愛」と称し、それを競争や優劣の道具にしてしまう品位のないファン達と、密接に関わる必要などないと思うのだ。ましてやそういったファン態度が「基準」となっている環境であれば、即座に距離を取り、自分自身を守る必要があると感じる。争いの絶えないような、不健全なファンダムなのであれば、そこから離れて構わない。それは「ファンをやめること」と同義ではない。そしてこれらは、インターネット上の交流だけでなく、プライベートや実生活についても等しく該当する。
そのようにして、自分の心を第一に守り、健全なファンであり続けることこそが、対象への恩返しで「愛」なのではないかと、私は思う。これらが私の出した「答え」だ。

健全な態度を示すこと、「品位あるファン態度」を保つことは、決して簡単ではない。個々に抱える問題が解決しなければ、ファン同士の問題に巻き込まれることを許し、ファン対象への執着や依存を強めることを許してしまうであろう。
「好き」を「好き」であり続けることや、「楽しい」を「楽しい」のままにしておくには、そんな自分の心との対話が必要となる。周囲に流されず心を強く持つには、英雄的態度で、様々な選択をしていかなくてはならないのだ。

私は「推し」のアカウントを、当分の間は見られそうにもない。私の気持ちが弱いことが一つの要因だが、それよりも、優先すべきこと、もっとやりたいことが沢山あるのだ。
私も推しのように夢を追いかけ、他者を利用することなく自分を表現し、真に「私」で在り続けたいと、そう考えている。何よりその視点を持たせてくれたのは、そのように生きる「推し」であったのだから、私はもう二度と、彼を「毒」にはしない。それをここに誓う。

六月十九日 戸部井