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【対談】渡邊琢磨⇄ジェイムズ・ハッドフィールド『Last Afternoon』

6/20発刊号intoxicateにて掲載された「渡邊琢磨⇄ジェイムズ・ハッドフィールド」対談記事のロングヴァージョンを、noteにて限定公開します!

英語版はこちら

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Cross
“Inner + Viewing”
A symmetric talks before after “ Last Afternoon”
渡邊琢磨 ⇄ ジェイムズ・ハッドフィールド



 ヴィジュアルからサウンド、あるいはサウンドからヴィジュアルを生成し、さらに批評を重ねる。映画史と音楽史を交差させながら、その余白に新たなイメージを見出す。新作『Last Afternoon』を発表したばかりの渡邊琢磨と、国内外の音楽、映画を書き続けてきた評論家ジェイムズ・ハッドフィールドの、投げかけられ、重ねられた言葉が跳ねる。


渡邊琢磨(以下、W):ジェイムズさんは東京にお住まいになられて、20年くらいになりますか?

ジェイムズ・ハッドフィールド(以下、J):近いですね。2002年から日本に住んでます。

W:どこかでニアミスしていた可能性もありますね。スーパーデラックスとかですかね?

J:その可能性はありますね。スーパーデラックス懐かしいですね。

W:大変ざっくりしたお伺いになりますが、その20年くらいの間、日本の音楽シーンはどのように変遷してきたと思われますか?

J:はじめて日本に来たときは、バンドがもっと力があったと思います。いまも日本のバンドやポップスは海外でも人気ですが、私が日本に来たころは、まだ90年代の流れが残っていて、そのとき見ていたバンドなどは、結構凄くて。活動中のバンド自体が音楽の最先端だったと言える時期だったけど、最近は誰もやったことがない音楽をやっているバンドは少なくなったと思います。日野浩志郎さんの〈goat〉〈空間現代〉など、いまでも素晴らしいことをやっているバンドはありますが。個人的にはエレクトロニックミュージックの分野で活躍しているソロアーティストに期待しています。

LP『New Games/Rhythm & Sound』
goat
[EM RECORDS EM-1170LP]
LP『Palm』
空間現代
[Ideologic Organ SOMA032]

W:いまレーベルはメジャーもマイナーも関係なくなって、それは国内に限らず全世界的な傾向ですね。

J:たしかにそうですね。MySpaceが全盛だった頃、海外では大きな効果がありましたが、日本ではそうではありませんでした。まだ多くの人がPCを使っていませんでしたし、CDは依然として売れていました。だから、日本のアーティストがインターネットを活動に取り入れるのが少し遅れたと思います。最近ではネットレーベルが普及し、SoundCloudやBandcampを利用するアーティストが増えてきたことで、日本のソロアーティストが海外で少しずつ注目されるようになってきたのではないでしょうか。彼らは日本での人気を気にする必要はありませんし、主に海外のレーベルから音楽をリリースしています。

W:日本のアンビエントという括りで作られたコンピレーション『環境音楽』など、逆に海外で日本の音楽や特定のコンテクストの再評価が進んでいたりもしますね。

J:確かにそうですね。昔に比べて日本の音楽に触れる機会が増えました。例えば、高田みどりさんのアルバム『鏡の向こう側/Through the Looking Glass』はYouTubeでヒットしました。海外における日本の音楽文化の認知度や知識は確実に向上していると思います。

CD『Kankyo Ongaku: Japanese Ambient, Environmental & New Age Music 1980-1990』
v.a.
[Light in the Attic Records LITACD167] 2CD
CD『鏡の向こう側』
高田みどり
[Bridge EGDS-75] Blu-spec CD2

W:過去作品の再評価は進んでいると思いますが、現状の音楽シーンに関してはどうでしょう? シーン形成などはされることなく、アーティスト個人が各々活動している印象がありますが。

J:どちらかというと一匹狼的な状況ですね。シーンに属さなくても海外でやっていけるというか。

W:ご自身でレーベルを運営されているアーティストもいますからね。

J:そう。だからレーベルを運営しているアーティストは、ある意味自分たちで シーンを作っているわけですよね。例えば〈空間現代〉は京都に移って、自分たちで会場を運営しながら活動していますし、〈食品まつりaka Foodman〉は、名古屋を拠点に活動しています。

CD&LP『やすらぎランド』
食品まつりa.k.a. foodman
[Hyperdub BRC675CD] 7/9発売
[Hyperdub HDBLP058LP] 8月中旬発売

W:ローカルでもネットを使って活動できるようになりましたからね。

J:もう東京に住む必要はありません。好きなところに住んで好きなところで活動できます。

W:アーティストが独自に海外に発信している状況はありますが、日本のレーベルに関してはどうでしょう?

J:私は日本の音楽をいろいろとピックアップしてブログも書いているのですが、そこで取上げているアルバムは海外のレーベルからリリースされているものが多いと思います。そういったアーティストは、自身の作品を国内のレーベルで出すのはちょっともったいないと思うかもしれません。日本のレーベルの多くはBandcampを使っていないし、使っていたとしてもデジタルアルバムをCDと同じ価格でリリースすることにこだわっていたりします。

W:メジャーは音楽産業的に内需で完結できるマーケティングもありますからね。

J:それは何十年も前からそうだったと思います。ただ最近はメジャーアーティストも海外市場を意識するようになってきたと思います。また、数年前までは日本のアーティストも海外に進出しなければならないと思っていたかもしれませんが、ヨーロッパなどにブッキングエージェントを置けばもうその必要はありませんよね。

W:ところでジェイムズさんは映画批評もお書きになられていますが、邦画に関するここ数年の変化はいかがでしょうか? 映画制作は個人で完結できるものではないですし、テーマや制作の成り立ちも音楽とは全く異なると思いますが。

J:ケースバイケースだと思います。日本映画の中には海外向けの作品もあるように感じます。私は美的なポイントが気になる人だから、映像や音楽がしっかり作り込まれている作品が好きです。テレビドラマと同じように作られた映画は、国内向けにしか作られていないことがわかります。日本の大作映画でもテレビドラマのようなものがたまにあります。一方でミニシアターと呼ばれる劇場で上映される作品には、海外の観客や映画祭を意識した作品もありますね。

W:映画は興行も考えざるを得ない場合も多々ありますし、その点、映画を取り巻く状況、例えば邦画のクリティシズムに関してはどう思われますか?

J:映画の要約のようなものが多いと思います。批評ではありません。

W:解説のような感じでしょうか?

J:そうですね。私は90年代にイギリスで育ったのですが「Empire」を熱心に読んでいました。「Empire」は『ジュラシック・パーク』のような超大作映画の特集を組む一方で、ぺドロ・アルモドバルの最新作を批評するような雑誌でした。つまりかなり幅広いジャンルを扱っていましたが、映画の知識が豊富な専門家を対象としたものではありませんでした。また、イギリスの新聞はすべて映画評を掲載していて、その書き手が非常に優秀な場合が多かったです。

W:ジェイムズさんがJapan Timesにお書きになられている映画評をいくつか拝読しましたが、総評としては手厳しい一方、同時にその作品のディテールやコンテクストの深掘りもされていて面白いなと。イギリスは音楽もですが文化批評の歴史がありますからね。

J:それはイギリスに限ったことではありません。私はアメリカの映画評論家もよく読みますが、中には好きな人もいて…。

W:例えばどなたですか? ロジャー・エバートとか?

J:ああ、そうです。先ほどお話した「Empire」もロジャー・エバートに似たアプローチでした。当時はエバートを読んでいませんでしたが、今になってみると、彼は優れた批評家だったと思います。彼は一般読者向けにも書いていましたが、非常に知識が豊富でうまくバランスをとっていたと思います。最近では「ニューヨークタイムズ」 紙のウェスリー・モリスという文化評論家がいますが、彼は「Grantland」というオンラインマガジンで素晴らしいエッセイタイプのレヴューを書いていました。私はそこから多くのことを学びました。彼は映画を深く掘り下げて書いているのですが、プレス向けの試写会だけではなく、公開後に劇場で観客と一緒に映画を見ることもあり、とても雰囲気のある記事を書いていました。試写会でしか映画を見ないで、その世界にずっといると感覚が鈍ってしまうかもしれません。その感覚を忘れないようにすることが大切だと思っています。いつか日本の映画評論家の方とお話して、彼らが何を考えているのかを知りたいですね。

W:イギリスでは、BBCのような公共放送局でもオルタナティブやエクスペリメンタル系の音楽も取り上げる番組やDJホストがいますね。

J:海外のレーベル(あるいは映画の会社)は、日本のようにエディトリアルに影響力を行使することはできないと思います。伝説のラジオDJ、ジョン・ピールは90年代も健在でしたし、アンダーグラウンドな音楽もBBC Radio1で流されていました。イギリスでは日本よりもラジオの影響力が大きいんです。聴いている人がとても多いですからね。一方、日本ではラジオはもっとニッチなものなので、あまり影響力はないと思います。

W:一頃は現代音楽や実験音楽を流していたラジオ局もありましたが、最近は本当に少なくなりました。今はやはりネットで情報を得ることが多いんでしょうかね。

J:日本に来て最初に感じたのは、インディーズレーベルとメジャーレーベルの間に壁があるということでした。90年代のイギリスでは、マッシヴアタックやエイフェックスツインなど、アンダークグラウンドから渡ってきたアーティストがいましたが、 彼らは人気を得るために音楽を商業的にすることなく、自分たちのやりたいことだけを続けていました。日本のようにメジャーとインディーズの垣根はありませんでした。日本ではインディーズのアーティストがメジャーデビューすると、面白くなくなってしまうこともありますよね。

W:最近、海外のレーベルの場合メジャーがむしろインディーズを求めているようなところもありますね。そのメジャーとインディーズの壁のイシューは依然としてありますか?あるとすれば要因は。

J:昔は雑誌に影響力があったので、メディアの問題もあったと思います。レコード会社とメディアの距離が近すぎたのです。ただ現在は、正直若い人たちがどこで情報を得ているのかわかりません。Spotifyのようなストリーミングサービスが強力になって、 メジャーレーベルがSpotifyと癒着している印象があります。ですから基本的には昔と構造は変わらず、プラットフォームが変わっただけだと思います。

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■アルバム『ラストアフターヌーン』について

W:これは私のデビューアルバムということになっているのですが(笑)

J:そうそう、あれはなんで(笑)

W:リリース元のレーベルオーナーであるエイドリアンが「ヨーロッパでリリースする初めてのフルアルバムだから、デビューで良いんじゃないか」というので(笑)。ただアルバムができてしまうとすぐ次のことに興味が移ってしまうので、いつも未完成品をリリースしているようにも思えます。

J:今回のアルバムは、これまでの作品から完全に脱却していると思いますか?

W:何かしら通底するものはあると思いますが、このアルバムはここ数年弦楽器の演奏者たちと活動してきて、それは私自身の活動だけではなく映画音楽などの仕事も含めてですが、彼らの演奏を念頭に置いて書いた曲集になります。それをパーソナルな作品に落とし込んだ感じです。

J:その、パーソナルな部分というのはどういうことになりますか?

W:今回、自分でアニメーションを作ったのですが(笑)自分が存在しない場所、空間で鳴っている音というアイディアやイメージがあって、作曲に先行してその世界をアニメーションで作ってから作曲するという変なプロセスだったんですけど(笑)

J:つまりアニメーションが先にあって、それから音を作ったということですか?

W:そうですね。

J:すごいな。

W:あのアニメーションの感じが音楽にフィードバックしてたり、色んなことがインタラクティブになった結果といいますか。あとはコンピュータと弦の演奏の関係性を追求していきたいなと…。

J:そのストリングスとソフトウェアの関係性が気になっていました。例えば、アルバムの中で弦楽器のピッチが不安定になる曲がありますが、それが演奏者の演奏によるものなのかソフトウェアによるものなのか分かりませんでした。そのプロセスを話してもらえますか?

W:あの弦のピッチが不安定なのは、各弦奏者が演奏で行っているので、コンピュータで作ったものではありません。

J:そうなんですか!?

W:あれは譜面上の特定の小節内に、微分音で書かれた音と通常のピッチで書かれた音が混在している為に、演奏者の指標性が一時的に失われることで生じる響きですね。要するに、演奏が不安定なんです。音符は譜面に書かれてありますが、演奏者各々の解釈が微妙に異なる。そういう誤差が生じるパートが譜面に点々と書かれてあります。作曲開始当初そういう演奏から派生するエラーのニュアンスと、コンピュータの音響処理の不確定性には、何かしらの親和性があると考えました。その着想を得て、弦楽とコンピュータによるアンサンプルを主旨とした作曲を始めました。

J:何年も同じメンバーで演奏してきたからこそ、そういう演奏が可能になったのかもしれませんね。

W:そうですね。演奏者が作曲者のニュアンスや作品の解釈を明確に把握していると、作品のリアライゼーションが一段と容易になりますし、譜面に過度な書き込みをする必要もありません。逆に指示書きがないことで演奏者の解釈にも余白が生まれます。それはインプロヴィゼーションとは違うけど、各演奏者が独自の解釈を補足する感じというか、記譜された音にアプローチする感じです。最近、僕はピアノを弾かなくなってしまってですね…。

J:え、それはなぜですか? 嫌になったんですか?

W:僕は楽器の練習だけでなく、物事を維持するのが苦手なんですね(笑)ここ数年、映画音楽や作曲の仕事にたずさわるなかで、ピアノを練習する時間が取れないことへの不安があって、そういう不安が持続しているのも居心地が悪いもので、逆にピアノを弾かなくなってしまった(笑)そうしたら、それで全然OKになってしまって(笑)

J:昔はよく練習していたんですか?

W:むかし、というのは〈COMBOPIANO〉をやっていた頃は、メンバーの内橋和久さん(gt)と、千住宗臣くん(ds)が本当に上手くて…。上手いというのは演奏に限らず、インプロヴァイザーとしてもほんと卓越してますし、ステージに立つとスイッチが入るといいますか。だから僕はあの二人についていくのが大変で(笑)

J:(笑)

W:彼らと一緒に音楽を演奏したり作る上では(演奏技術を)保たなくてはと。そう勝手に思っていたんですね。あとはライヴも活発にやっていましたし。それで、そういう練習や演奏から遠ざかったときに、何かしらの経験則の上に成り立つ演奏ではなくて、そのときどきの演奏というのは可能なのか?と思ったわけです。例えば、コンピュータやMaxというソフトウェアが動作している上でマウスをクリックするとかキーボードを押すとか。そういうちょっとした指の動きでも良いなと思ったのです。 あとは一切、音を鳴らさず作曲したいなと。

J:楽器を使わずに作曲する?

W:そうですね。自分の考えていることがスコアに上手く反映されていない作品をつくりたいです。緻密に音を構築していくようなことも好きですが、作った矢先にそれをすべて破壊するようなことも好きです(笑)

J:自分の音楽で驚きたいということですか?

W:それもあるかもしれません。だから先述のアニメーションのコンセプトでもありますが、自分がいない場所で鳴っている音というのも、作曲者が介在していない音楽というか、自分の意図が反映されていない音楽に対するイメージなのかもしれません。

J:自分が作った曲を他のプレイヤーに解釈してもらうと、ご自身が思っていた音と違う音が出てきたりするのでしょうか?

W:期待していたものと違う音が出てきた場合、そうですね…結果的にその音の方が自分のイメージに近いような気がしてきます(笑)以前、大分県で弦楽器の演奏経験が全くない方々と弦楽アンサンブルを作って新作の初演を行うという公演企画を行ったのですが、その際、演奏者に譜面をお渡して、その譜面というのが音符に特化しない方法で音の情報を含有しているような譜面だったのですが、要するにその「譜面」に沿って演奏すれば曲が具体化するということです。それで、当日の公演が始まったら、もの凄い音像というか聴いたことがないようなテクスチャーが立ち現れてきて(笑)

J:(笑)

W:あれはそれまで自分が作ってきた音楽の中で、いやこの場合、自分が関わってきた音楽の中で一番面白かったですね。各演奏者が好き勝手に弾いているわけでも、書かれている通りに弾いているわけでもない。なにか不安定な感じです。観客も演奏者もそして作曲者も何が起こっているのかわからない(笑)

J:(笑)

W:大編成のアンサンブルやオーケストラも、一人一人の演奏者の集まりと考えていますし、なにかこう壮大なスペクタクルのようには捉えていません。演奏者各々の微妙な音や解釈の違いから派生する余白に興味があります。逆に、物理的にも心理的にも空間をすべて埋め尽くすような音楽は、今のところあまり書いたことがありません。近々、イギリスの弦奏者の方々と新作の初演配信ライヴを行うのですが、演奏者が各々の場所で演奏する音を収録して、後日、編集でひとつのアンサンブルに仕上げて作品を完成させるというアイディアです。こういう状況下で発想された企画ではありますが、初演が終わるまでお互いの演奏や音を一度も聴くことがないアンサンブルというのも興味深い(笑)

J:面白くなりそうですね(笑)今回のアルバムは、ディテールにもこだわっていますよね。エレクトロニックミュージックでは細かすぎると音楽の生命力が失われると感じることが多いのですが、このアルバムはそうではありませんでした。ストリングスとエレクトロニクスの組み合わせかがうまくいってるせいか、とても生き生きとしています。曲によっては、最近海外でブームになっているASMRの要素もあるように思いました。

W:あぁ、聴覚の…

J:そうですね、いくつかの曲からそんな雰囲気を感じました。去年、フェリシア・アトキンソンとアキラ・ラブレーと一緒に作ったアルバム『まだここにいる』を思い出しましたね。私は完璧すぎる音楽が好きではないのですが、10年前の日本のエレクトロニックミュージック・シーンには、そのようなものもありました。すべてがオーケストラ的でとても洗練されていましたが、美術館にある音楽のように感じました。

W:あえてというかそういう美学もありますからね。

J:そうですね。だから日本画のような。むかしの日本画を見ると不思議なエネルギーがありますが、20世紀に入ってから少し堅苦しい印象になってしまって、その本質を失っていると思います。日本のエレクトロニカも少し似ている問題があるかもしれない。繊細になりすぎると音楽が前に進まなくなるのかもしれません。ただ、琢磨さんのアルバムはそうではなかった。おそらくランダムな要素が入っているからだと思います。アニメーションと一緒に聴いてみると…(Zoom越しに驚いた様子)。ピクサーのレベルには達していませんが(笑)

W:(笑)

J:でも、魅力的な世界を作っていると思いました。ノートパソコンで見たときは「うわーっ」って感じでした(笑)本当に旅をしているようでした。

W:僕はゲームも好きでして、あれはゲームエンジンを使って作ったアニメーショ ンなのですが。

J:あぁ、なるほど!ちょっと思ってたのは、最近映画音楽の仕事をやっていたから自分でも作りたくなったのかなと。

W:基本はやはり音ですね。ただイメージが先行しても良いし、サウンドが先行しても良いと思いますし、このアニメーションも作曲の延長上にあるような気がします。個人的に、映画音楽はテーマやメッセージに必要以上に寄せることはなくて、所感というか、まずは映像や質感などを重視して考えます。例えば友人でもある、冨永昌敬監督の映画『ローリング』などは最初に台本を読んだとき、正直どういう映画かよく分からなかった(笑)私の読解力の問題もあると思いますが、それくらい個性的な映画だったということです。ただ、映像を観たり監督の演出意図などをお伺いしていくとクリアになりますね。

J:先日、吉田大八監督にインタヴューをしたのですが、その準備として『美しい星』を初めて観ました。あの映画のサントラはご自身の音楽とはかなり傾向が異なるのではないでしょうか? あれは監督から何かクレイジーなサントラを作ってくださいと頼まれたのでしょうか?

W:あの映画の中で一番クレイジーな音楽は、橋本愛さんとリリー・フランキーさんが海岸で覚醒するシーンだと思いますが、音楽を入れる前段階のラフ映像には、冨永監督の『ローリング』の劇伴がテンプトラック(仮音)として当たっていたのです。自分が別の映画で作った劇伴なので先入観もありますし困ったなと(笑)ただ逆にそのテンプトラックがあったことで天邪鬼的に思い切り振り切った音楽をつくろうと思いまして(笑)そうしたら、ああいうハイパーハードコアテクノのような曲になってしまいました(笑)

Blu-ray&DVD『美しい星』
監督・脚本:吉田大八  原作:三島由紀夫 音楽:渡邊琢磨 出演:リリー・フランキー/亀梨和也/橋本愛/中嶋朋子/佐々木蔵之介ほか
[ジェイ・ストーム GOBS-1572 (BD)GODS-1574(DVD)]
DVD『ローリング』
監督・脚本:冨永昌敬  音楽:渡邊琢磨 出演:三浦寛大/柳英里紗/川瀬陽太ほか
[スタイルジャム SDP-1152]

J:そうそう(笑)最近の海外の映画を観ると、サウンドトラックとサウンドデザインが重なり合っていますよね。そういったサウンドトラックについてはどう思われますか?

W:例えば、アメリカの映画音楽の仕事は基本すべて分業ですよね。作曲は作曲家、編曲は編曲家という様に。個人的には作曲も編曲もしますし、アレンジを他の人には基本任せたくないですけどね。そのアレンジのなかにサウンドデザインの要素も含まれているのが、昨今の映画、特に現代のアメリカ映画に顕著な傾向かと思います。分かり易く比較するならジョン・ウィリアムズとハンス・ジマーでしょうか。ジョン・ウィリアムズはスコアが何となくイメージできますが、ハンズ・ジマーの音楽というのは…。

J:(低い声で)ブォーン!(笑)

W:そうそう(笑)あの音は譜面に書く必要はないと思いますし、ああいう重低音は基本サウンドデザイナーの仕事だと思います。ただそれもハンス・ジマーの演出意図として劇伴に組み込んでいるのかもしれない。だから一長一短だと思いますが、現代の映画音楽においては、体感的なサウンドの要素として自然と求められるのかもしれません。自分の場合、フィルムスコアという概念が好きなので、例えばジェリー・ゴールドスミスのように、スコアやオーケストレーションの中にミュージックコンクレートを取り込むような実験は大変面白いと思います。武満徹さんの映画音楽にもありますね。いわゆる映画音楽専門の作家ではないアーティストが作るサントラも面白いですね。ミカ・レヴィとかジョニー・グリーンウッドのような。ハンス・ジマーの音は、やはりお金がかかってそうで…。バストロンボーン20人とか(笑)それに自分はトランペット1本で対抗したいですね(笑)

J:それはいいですね。確かに、最近は面白い(映画音楽をつくる)アーティストがたくさんいますね。私はサックスを演奏するので、コリン・ステットソンはとても尊敬していますし彼も映画音楽を作っています。それから、ハクサン・クロークもそうですが、彼はどちらかというとサウンドデザインに近い。典型的なサウンドトラックではありませんね。

CD『ヘレディタリー/継承』
[Milan Records MIL369522]

W:映画音楽は、映画作品ごとに発見というか発明をする必要があると個人的には思っていて、そういった点で独自の活動を行なっているアーティストにはアドバンテージがあると思いますし、その発見をすることが、映画音楽という仕事の醍醐味でもあると思います。

J:でも(映画制作の)スケジュール的に毎回まったく新しいものを考えるのは難しいですよね。

W:そうですね。サントラの仕事が終わると虚脱状態というか(笑)私的にはそういう感じも嫌いではないですが(笑)音楽家は映画の撮影現場に立ち会う機会が少ないじゃないですか。制作進行上はポスプロ的というか。だからハッとするような発明が必要というか。そういう意味で、サウンドデザインも発明ですよね。映画の個性や独自の演出効果を作り出すわけですから。

J:たしかに。

W:僕は若いころは、マジシャンになりたかったので

J:え? えっ!?マジックですか?

W:マジック。えーと…手品師!

J:そうなんだ。ああ、これですべてがわかりました!(笑)

W:(笑)だけど人前で手品を披露したときに失敗してしまって、要するにステージフライト(舞台恐怖症)で。それ以来パフォーマンスよりも手品セットをつくることに専念したんです。手品セットを箱に入れて部屋に飾ったりして(笑)そのことと、いまの自分がやっていることは何か似ていると思います。

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■ジェイムズ・ハッドフィールド
James Hadfield イギリス生まれ。2002年から日本在住。おもに日本の音楽と映画について書いている。『The Japan Times』、『The Wire』のレギュラー執筆者。

■渡邊琢磨
Takuma Watanabe 宮城県仙台市出身。高校卒業後、米バークリー音楽大学へ留学。帰国後、国内外のアーティストと多岐に渡り活動。07年、デヴィッド・シルヴィアンのワールドツアー、28公演にバンドメンバーとして参加。14年、弦楽アンサンブルを主宰。自身の活動と並行して映画音楽を手がける。近年では、冨永昌敬監督『ローリング』(15)、吉田大八監督『美しい星』(17)、染谷将太監督『ブランク』(18)、ヤングポール監督『ゴーストマスター』(19)、岨手由貴子監督『あのこは貴族』(21)、横浜聡子監督『いとみち』(21年6月公開予定)、堀江貴大監督『先生、私の隣に座っていただけませんか?』(21年9月公開予定)、ほか。


琢磨くんのジャケ写

CD&LP『Last Afternoon』
Takuma Watanabe
[SN Variations/Constructive CN1CD(CD)CN1(LP


■渡邊琢磨映像作品展『ラストアフターヌーン』

会 期 2021年10月23日(土)- 10月31日(日)
時 間 10:00 - 17:00
会 場 由布院アルテジオ(http://www.artegio.com/)
住所/大分県由布市湯布院町川上1272-175
入場料 1,500円(企画展1,200円+常設展300円)
問合せ oitaartcollective@gmail.com

オープニングイベント
10月23日(土)同会場
開場/開演:14:30/15:00
出演:千葉広樹、渡邊琢磨
料金:2,500円

※新型コロナウイルス感染状況により、やむを得ず開催内容が変更になる可能性があります。あらかじめご了承ください。


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