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20世紀最大の覚者『あるがままに ラマナ・マハルシの教え』

20世紀初頭に生きたインドの聖者ラマナ・マハルシ。

エックハルト・トールをしてもっとも偉大な覚者のひとりをいわしめる人物。

マハルシは真我探求と呼ばれる瞑想法を推奨したことで知られます。「わたしとはだれか?」という問いで自己の源を探っていくアプローチ。

自己のなかに降りていき、その最奥部にたっすると、自己というものなど存在しないと気づく。そうマハルシはいいます。

しかし自己は完全なる空なのではなく、エゴが溶け去ったのちに、それは一者たる「神」とひとつになります。

こうして達成されるものが真我であり、悟りの意味するところであると。

仏教を思わせるアプローチですが、一者たる神と自己の同一性を説くところはヒンドゥー教の伝統をそのまま継いでいます。

エックハルト・トールの体験と通じるものが非常に多いです。トールを読んでいればマハルシのいうことがすっと入ってくる。マハルシを読んでいればトールの言うことがすぐに理解できます。

もっとも、理論的に理解しただけでは悟りの境地には遠いのですが。

マハルシやトールの言葉というのはただの哲学や思想ではなく、実体験した事実をそのまま報告したものだから強いんですよね。


マハルシは著作を書きませんでした。代わりに弟子が彼の言行を記録にとどめ、それが今日でも残っています。

本書『あるがままに』はデーヴィッド・ゴッドマンによる編集。マハルシの教えをバランスよく整理した本として世界中で評価されている名著です。

はじめてマハルシを読むならここから入るのがおすすめ。

テーマごとに編者による2~4ページくらいのざっとした解説があり、そのあとにマハルシと質問者の対話が十数ページ収録されるという構成になっています。

ありがたいことに日本語訳のクオリティも高いです。

以下、印象的だったマハルシのことばをいくつか引用してみます。

無知は次から次へと起こり、至福である純粋な真我にヴェールをかけてしまう。ただ誤った知識である無知のヴェールを剥ぐことだけを試みればよい。誤った知識とは、真我を身体や心と同一視することにある。この偽りの同一視がなくならなければならない。そうすれば、ただ真我だけが残る。

(『あるがままに ラマナ・マハルシの教え』福間巖訳)

あなたは純粋な「私」と、「私」という想念とを区別しなければならない。後者は単なる想念であるため、主体と客体を知覚し、眠り、目覚め、食べ、考え、死に、そして生まれ変わる。だが、純粋な「私」は純粋な存在、永遠の実在であり、無知や想念の幻想から自由だ。

(同書より)

いかなる執着もなく、ただ真我のなかだけにとどまった純粋な存在状態、それが沈黙である。その沈黙として、永遠に、あるがままに在ること、それが真の崇拝である。

(同書より)

人々はシッディ(引用者注;超能力のこと)よりもはるかに奇跡的なものごとをたくさん見ている。だがそれらには驚きもしない。なぜならそれらは毎日起こっているからだ。

(同書より)

無知が存在する限り、輪廻転生は存在する。本当は、輪廻転生などまったく存在しない。いまも、いままでも、そしてこれからも。これが真理である。

(同書より)

宇宙の至高の創造者であるイーシュワラ、人格神は本当に存在している。だがこれは、まだ真理を実現せず、個我の実在性を信じている人びとの相対的な見地から見たときに限った真実である。賢者の絶対的な見地からすれば、無形の一者である、個我を超えた真我以外には、他のどんな存在もありえない。

(同書より)

イーシュワラ、神、創造者、人格神は消え去るべき最後の非実在の姿である。唯一、絶対的存在のみが実在である。それゆえ、世界だけでなく、自我だけでなく、人格神もまた非実在なのである。

(同書より)

誰もが真我を知っている。だが、明確には知られていない。あなたはつねに存在している。その「在ること」が真我である。「私は在る」(I AM)が神の名前である。

(同書より)

真我や一者を「人格神を超えた存在」としているところが印象的。

神々や天使、上位の宇宙人とかが本当に存在しても、それらは悟りの境地からみればわれわれと同格の幻影にすぎないと。

こうしてみると仏典のなかで仏陀が神々を超える存在として描かれているのも合理的に納得できる気がします。

もし仮に天使や宇宙人が人類の目の前に現れる時代がきたとしても、彼らを崇拝しないように気をつけなくてはいけませんね。


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