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【エッセイ】創造、感動、そして絶望。

こんばんは。



創られたものに触れること。

音楽や、映画、アニメ…。
世の中には創作物であふれている。

それを今や 画面を通じて届けられる。
「触れる」ハードルが下がりつつあるのだ。


そして、創るものには、必ず向こうに人がいる。

私もここでは「創る」1人である。
まだまだ未熟ではあるけれど。

とはいえ、何かを創り出すのは楽しい。
形は違えど、過去に「創る」をしてきた。

結局 どれもうまくいかなかったり、飽きてしまった。
そんな私は 今や文章の街に流れついたというわけだ。

「思考を形にしたい」という私の文法は、十数年生きても変わらないみたい。


こうして今日も なにかしら作品を摂取している。
五大栄養素に次ぐ、新たな栄養素となりつつある。

創作物なしでは生きられない。

それを手に取ることで、私の生活は豊かになるから。
けれども、どこかで人生に失望している私もいる。

創造物に触れるたび、その二面性に心を掌握される。



この二面性は、音楽だとわかりやすい。

音楽を生きがいとしている人はたくさんいる。

YouTubeを開いてみる。
そこにはアーティストだけでなく、歌い手もいる。

己のセンスを磨いてきたアーティスト。
歌唱力おばけの歌い手。

動画をクリックすれば、簡単に触れることができる。
心が踊る。


その反面、心の余裕がそぎ落とされる感覚。

「透き通った歌声…!(でも、私にこの声は出せない。)」


画面の中で広がる、才能の輝きを見る。
それに希望をもらえる。
けれど、
「自分にはできないな」
という絶望も受け取ってしまう。



文章でも同じ。

読み手として、
「この人面白い!」
「この人の繊細さが好き」
と感じる。

その反面、
「私には こんな文章がかけないな。」
とどこかで思う。


書き手としてはどうだろうか。

「そうやって生きていけばいいんだよ」
「こうすればいい」

これを与えられる書き手に憧れている。
では、今 私の書いていることはどうなのだろう。

「どう生きるのが正解?」
「こうするべき?」

迷いがある。

私と他のnoterさんでは、濃度が違う。

それが 読み手に「希望」を与えるどころか、より「絶望」を与えるものとなっているのではないか?

書いていて思う。
そうして、下書きのまま凍結した文章がいくつかある。

触れた誰かを傷つけてしまうような不安感。
かといって、プラスな話はどうしてもうまく書けない。
それがダミーなら 何の意味もないから。

マイナスを文章にするといっても、どこまで読み手にマイナスを与えていいのか、迷ってしまう。

画面の向こうのステキな人達は、カシウスの槍を用いて、読み手に希望を与える。
読み手の悩みのコアに、文章という槍を突き刺す。

私はどうだろう…?
ロンギヌスの槍を振り回しているだけな気がしてきた。

ときどき他人のATフィールドを打ち破ろうともしてしまう。


何かを「創る」ということ。
それに触れること。

それが自分と誰かのハッピーになれば、万々歳なのかもしれない。

果たして、今の自分はハッピーなのだろうか。
…おそらく「いいえ」だ。

ハッピーになれない。

他人の生き方に感動して、絶望してしまう。
その二面性に踊らされている。

それじゃ足りない。

文章の中の私が、今だに見いだせない。

槍の形を変える前に、槍の使い方を知る。
それが「マイナス」を活かす近道なのだろうか。





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