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【エッセイ】「今」を語る文章。

こんばんは。


「現代文」
国語の授業で、評論文や小説を読んで、考える。

noteは面白い。

でも私は現代文が苦手。

特に評論文。
複雑な単語を組み合せた文章を何十分もかけて読み、それを何時間もかけて筆者の真意を紐解いていこうとする。

この時間が長くて、結果分かりにくい。

学校のテストは授業の延長だから、尚更分かりにくい。

模試とテストの点数が合わない。

だから学校の現代文は苦手。


そんな時、ある先生が私の教科担任になった。

その先生は、授業が嫌いだと言う。

授業は文章の解説と、先生の小話が入り混じったもので、内容はあまり入ってこないけれど、話は面白かった。


多くの先生は、目指す姿として、
「わかりやすい」
「主体的な」
時間を共有しようとする。

そんな中で、その先生は特殊だった。

「わかりやすい」でも「たのしい」でもない、「なにか」を共有してくる。


ある日、その先生がこんなことを言っていた。


「現代文って、昭和・平成あたりの文章の寄せ集めだから、全然”今”の文じゃないよねー。」


確かにそうだ、と思った。

たいていの文章は戦後~平成あたりの文章が多い。

戦後不況に苦しむ主人公。
政界の汚職に対する批評。
石油危機、バブル崩壊を題材にした社会への評価。

文章に様々な社会情勢が絡んでくる。
私は当時生まれてすらいない。
これらの出来事を体験しているわけがない。

もちろん、過去の出来事をより知るために、これら文章を読むことは必要だと思う。

ただ、これはあくまで「過去」の話。
「今」の私には、この出来事を受け入れることができても、共感することはできない。

傍観者の立場にしか立てない。

だからこそ、現代文に対して嫌悪感を持ってしまう。


じゃあ、「今」の文章ってなんだろう。

新刊の本?

確かにそうかもしれない。

ただし、これは「加工済み」の文章

筆者の「今」思っていることは、推敲・校正という処理が行われ、本という形で市場に出回る。
そのため、どうしてもタイムラグが生じてしまう。

それが洗練されていて、興味深いのはもちろんそう。
だからこそ色あせない。

ただ、「新鮮な」文章ではない。

新鮮な文章がたくさんある場所、それはどこだろう。


それはここ。
『note』

自分の気持ちを気軽に、すぐに文章として発信できる。

その人が創った文章を、そのまま読むことができる。

「今」を生きる人の文章で溢れた市場。


私は、そういう文章を発信していきたいし、たくさん読みたい。

だから今日もnoteを開く。多分明日も。明後日も。





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