見出し画像

『ラストマイル』の感想─彼はそんなものを“欲しがった”か?

この記事には、現在公開中の映画『ラストマイル』のネタバレが含まれるほか、観ていないとわからない内容が含まれています。

また何か書けそうなら追記しますが、ひとまず取り急ぎメモ程度の感想を書いておきたいです。

はじめに


私は『ラストマイル』という映画を「テロが社会に良い変化をもたらしてしまう」という、けして肯定すべきではないが、否定もしきれないような事態」を描いた作品ではないか、と考えています。

今日(9/8)の夕方ごろに観たのですが、そのあと別日に同作を観た人と「なんかスッキリしなかったよね!」「モヤモヤしますよね……」という感想を交わしました。面白い映画ではあった。……あったけれど、微妙に喉がつっかえたまま終わったこともまた事実です。それはなぜか。

いくつかの論点が存在すると思いますが、特に個人的な関心が強いトピックについて書こうと思います。

「テロ」の扱い

まず「テロ」の定義についてはここでは触れません。ただし、2022年に発生した安倍元総理の狙撃事件が「テロ」であるかそうでないかについて論争が巻き起こったように、作中で発生した連続爆破事件についても、これが「テロ」であるか、そうでないかは議論の余地があるでしょう。とはいえ、作中で当該事件が「テロ」と名指されている以上、本稿でもその考え方を踏襲したいと思います。

しかし、それ以上にここで問題としたいのは、あの連続爆破「テロ」が「“成功した”テロ」であるという点です。

ちょうど前述した狙撃事件もそうでした。あれをきっかけに、統一教会と自民党の問題、信者から教会への高額な献金問題、霊感商法の問題といった諸々が盛んに議論されたことは記憶に新しいです。これについて「狙撃事件の犯人の目的が達成されてしまった」、すなわち「犯人のテロが成功した」と考えることもできるでしょう。

そして「彼のやったこと(殺人)は良くないことだが、これまで無視されてきた社会問題に世間が目を向けるきっかけになった」と肯定的に主張する人は少なくありません

一方で「たとえそのようなきっかけになったしても、テロを1%でも肯定的に捉えるべきではない」と反論する立場も存在します。

銃撃には確かに不幸な背景があっただろう。孤独で行き詰まった人々の包摂は必要だ。しかしそれでも、私たちはまずはテロは断固許さないという決意を繰り返し表明し続けるべきである。

AERA 2022年8月8日号 より

今回『ラストマイル』の劇中で発生した一連の爆破事件もまた、結果として多数の死傷者が出ました。しかし同時に、配送業界における無理のある労働環境、5年前に起きた自殺未遂……の皮を被った労災があらためて明るみにされたのも事実です。

おそらくエンドロールのあと、劇中世界では連続爆破事件の背景にある労働問題が盛んにニュースで取り上げられるでしょう。そしておそらく、「彼女のやったこと(連続爆破テロ)は良くないことだが、これまで無視されてきた社会問題に世間が目を向けるきっかけになった」と考える人も多くいるはずです。

そして、映画を観たひとのなかにも

「事件は解決したし、センター長は岡田将生に変わって労働環境も改善されそうだし、阿部サダヲたちもストライキとかして不満を訴えられるようになったし、良かったじゃないか!」

と感じるひともいるのではないでしょうか。

しかし、その「労働環境の改善」をはじめとした、作中終盤で示唆された「良い変化」はすべて「連続爆破テロ」によってもたらされたわけです。

この事実をもって、私は作中で発生したテロを「成功したテロ」だと考えます。しかし、いくら良い変化がもたらされたからといって、そのきっかけはテロです。これを肯定してしまえば「良い結果が生じるのであれば、手段としてテロを用いても構わない」と考えることと等しい。

では、あのまま中村倫也の自殺未遂が黙殺され、運輸産業界が何ら改善されることがなくても良かったのか?それも違うでしょう。

……とこのように、作中で起きた事件とその結末について、肯定も否定もできかねる……というのが『ラストマイル』を観終わった私のなかに生じた「モヤモヤ」「スッキリしなさ」の正体なのだと思います。そしておそらく、作り手はそれが生じることについて意識的に制作しているのではないでしょうか。

UDIラボの役割

いやいや、テロはダメでしょ!別に作中でもテロは否定的に描かれているし、観客もあれを悲惨で良くないことだと感じているよ!と思う人もいるでしょう。もちろん、そのような側面もあります。しかし、やはり作中では意図的に「テロ」の悲惨さや残酷さを印象づけないようにしているのではないでしょうか。そのキーパーソンとなるのが、今回の映画の世界観を共有するドラマ『アンナチュラル』からゲスト出演した不自然死究明研究所、通称UDIラボの存在です。

彼らはその名の通り「不自然な死」の究明、警察や民間から持ち込まれた死体の「本当の死因」を探ることをその任務としています。そのため、彼らは死体に慣れている。たとえ完全に炭素化した黒焦げの死体であっても、彼らは意に介しません。そして、本作で爆破テロの被害に遭った死体がはっきりと登場したのは、彼らの研究室でした。もちろん、彼らはそれを見たからといっていちいち悲鳴を上げたり、悲壮な表情を浮かべたりはしません。ただ淡々と作業を進めていく。だから観客も、そこに映っている死体をあまり悲惨なものとして見ない。

本来、サスペンス映画でテロ事件が発生し、その死体がスクリーンに映されるときの描写はそのようなものではないはずです。その死体は事件の悲惨さや残酷さを強調するために映され、なんなら悲しげなBGMが流れたりもする。しかし、今作では違います。正反対です。

私はここに、観客を「テロ」の被害者に感情移入させまい、本作での「テロ」を単なる悪人の所業としては捉えさせまいという作り手の意図を感じます。反対に、「テロ」実行犯の自死の描写は実にドラマチックに描いています。爆炎に塗れ、皮膚が焼けただれる様子をスローモーションで撮っていました。

ただし、本作はけして「テロ」を矮小化したり、その犯人を美化しているわけではないでしょう。おそらく、特に何の工夫もなく物語描いた場合、多くの人は普通にテロの被害者に感情移入して可哀想だと感じるし、犯人は悪だと考えるはずです。そうならないため、わざわざ先のような工夫──つまり「観客が「テロ」を肯定も否定もし切れず、モヤモヤする」という感覚を持つようにしているのだと思います。

誰が責任を取るのか

この映画がモヤモヤ、スッキリしなさを抱かせる理由に、犯人が死んでしまっているという点も当然あります。テロを起こし、その結果大勢の犠牲者を出し、そして(どこまで犯人がそれを意図していたかは別として)社会への問題提起を成功させてしまった。

そんな犯人はもうこの世にいません。ですから捕まって法の裁きを受けることはない。ありていにいえば、犯人は「勝ち逃げ」したのです。もし、犯人の代わりに責任を取れる人間がいるとすれば、それは植物状態になっている中村倫也です。

もちろん、責任の所在と因果関係を混同すべきではありません。中村倫也の存在が事件を引き起こしたのは事実だけれど(因果関係)、彼にそのような意図があったわけではないし、事件を償うべきというわけでもない(責任)。

けれど彼が仮に目覚め、ことのあらましを全て知ったすれば、深い責任を感じるのではないでしょうか。チームマネージャーとしての激務をこなし、自殺未遂に至るまでとなった真面目な彼が「恋人がやったことじゃん!俺には全然関係ないよ〜」などと考えるはずがない。

おそらく、彼の恋人だった犯人は、すべて彼のことを思ってやっていたはずです。犯人とっての「マジックワード」があるとするなら、全ては彼のために──Lover centricでしょう。

しかし、彼はそんなものを望んで(Want)いたのか。おそらくそうではないはず。

本稿で、作中のテロを「成功したテロ」と表現しました。しかし、そのテロがLover centricを掲げて行われたものであるとするなら、失敗だったとしか言いようがない。私はそう考えています。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?