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マルコ・ベロッキオ監督映画、共有された悲劇としての『Esterno Notte(夜のロケーション)』

イタリアでは2022年5月にPart1、6月にPart2が劇場で短期公開、11月に国営放送RaiでTVシリーズとして放映されて「最高傑作!」と絶賛された、巨匠マルコ・ベロッキオ監督の『Esterno Notte夜のロケーション)』が、2023年5月7日、イタリア映画祭(東京会場)で公開されるそうです。当時のイタリアで最も政治的影響力があった『キリスト教民主党』党首アルド・モーロが極左武装グループ『赤い旅団』に誘拐されたのは、『鉛の時代』まっただ中の1978年3月16日。45年前のちょうど今頃の季節、イタリアは緊張と恐怖に打ちひしがれ、混乱し、翻弄されました。ローマのカエターニ通りに駐車された赤いルノー4のトランクで、モーロの亡骸が見つかったのは、誘拐から55日を経た5月9日のことです。『Buongiorno, notte(夜よ、こんにちわ)』から20年を経て、ベロッキオ監督が再びアルド・モーロ事件」をテーマに、6つのエピソードで構成した、この330分のオムニバス超大作映画の背景を探ります。個人的には劇場で観て、TVシリーズで観たあと、Raiplay(イタリア国営放送Raiオンラインサイト)で連続して2回観返すほど夢中になった映画です。

フィクションであるからこそ際立つ、悲劇のリアリティ

45年を経ても、イタリアの社会にその傷口が塞がらないほどのトラウマを残した「アルド・モーロ誘拐・殺害事件」については、現在でも歴史家、ジャーナリスト、検察・司法関係者、作家たちの飽くなき追求が続いていますが、ベロッキオ監督は『夜のロケーション』で、虚構現実が見事に融合する高次元の視点から、われわれ鑑賞者をカタルシスへと導きました。それは映画でしか実現できない「多元的」なリアリティの創造であり、事件への芸術的アプローチだと認識しています。

イタリアの70年代の分析において定評ある歴史家ミゲール・ゴトールは、「モーロ事件」を『鉛の時代』における『緊張作戦(la strategia della tensione)』の中でも、最も洗練された「作戦」だとみなしています。ところがそのゴトール がアドバイザーとしてチームに加わる『夜のロケーション』の細部には、史実が散りばめられてはいますが、いくらか暗示らしきシーンがある以外、3回にわたる「政府議会モーロ事件捜査委員会」や夥しい数のジャーナリスト、司法関係者が調べ上げた謀略の存在の可能性に迫る詳細は、ほとんど反映されていないのです。

6つのエピソードの最後には、「すべての登場人物と実際に起きた事実への言及は、すべて制作者の芸術的創造的解釈により再構成されたものです。本シリーズで言及されている人物、組織、新聞、政党、TV番組、行政、そして一般的な公職、あるいはプライベートな登場人物の役どころは、ドラマの構成のために自由再解釈されました。実在した、あるいは実在する人物との関連は、明示的に特定していないため、純粋に偶然にすぎません」との但し書きが入り、たとえすべての登場人物が、実在した、あるいは実在する人物であったとしても、この映画はあくまでもフィクションだ、と定義されているのです。

つまり、この映画は史実に基づいてはいても、いまだ明らかになっていない事件の真実を追求しているのではなく、「オペラー作品」である、と断言しているわけです。いずれにしても、そもそもあらゆるすべての歴史上の人物、その背景は、映画作品、あるいは小説として表現された時点で、もはや現実ではなくフィクションであるには違いありません。

にも関わらず、ベロッキオ監督が、数々のインタビューで「これは再構築されたフィクションだ」、と繰り返し発言しているのは、事件が起きた時代を生きた経緯のある人々にとっては強い痛みを伴う記憶であり、この45年間、いまだ真実が明かされないまま、若い世代を含める多くの人々が、歴史の空白を埋めるかのように、背景を調べ上げて構築した数多く仮説が存在するからでしょう。

実際、大絶賛の影に「史実とは異なる」との批判がいくつか湧き上がったようで、そのうちのひとつである、わりと著名なジャーナリストの批判記事を読んでみましたが、当時首相だったジュリオ・アンドレオッティやフランチェスコ・コッシーガ内相など個々の人物描写やモーロ殺害時の銃痕の有り様が、史実ではない、など現実主義的視点での、作品を芸術としては捉えない批判でした。

と同時に、『夜のロケーション』における登場人物、『イタリア共産党』党首のエンリコ・ベルリンゲルの、やや冷酷な人物描写、脇役的扱いに不満を述べる向きもあったようです。ある世代の左派にとってのベルリンゲルは、イタリア独自の「ユーロ・コミュニズム」を推し進め、『イタリア共産党』の不動の地位を築いた英雄的存在です。

しかしながらベロッキオ監督は、「この映画は(『赤い旅団』の視点から捉えた)『夜よ、こんにちわ』のようにイデオロギーを表現したわけではない。そもそも(事件を巡る、終わりが見えない夥しい数の調査、捜査のような)神経症的なストーリーには興味がなかった新しい形で事件の物語(narrativo)を語ろうと考えた」との主旨の発言をしています。

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