記事を書く前に—「鑑賞」とはなにか

こんばんは。InterFace'87です。

このブログではこれから、作品を鑑賞した感想や批評(のようなもの)も書いていこうと思っています。その前に、私にとって「作品を鑑賞する」とはどういうことか、すこしお話ししておきたいと思います。

断っておきたいのは、ここで書くのは今現在の私の気持ちでしかないということです。様々な本を読んだり、様々な人と話したりしているうちにここに書いたことは自分の中でアップデートされていくと思います。

ですが、ブログを始めるにあたってまず自分の鑑賞態度や視点をある程度明確にしておくことが大事だと思うので、言葉足らずですが、ここにそれを書いておきます。

 「鑑賞」と「作品」

「鑑賞」という言葉の中身を問うてみます。私たちが「鑑賞」をする時、その対象は「作品」と呼ばれます。

では「作品」とは何でしょうか。小説や漫画、映画などを作品と呼ぶことには、疑問をはさむ余地は少ないでしょう。しかし、メモ書きや広告となると、作品と呼ぶことを躊躇してしまいます。

しかしもしかすると、夏目漱石がユーモアを交えて友人に書き置きしたメモがあったとすれば、それは見る人によっては「作品」かもしれません。広告にも、美的感覚に訴えかける芸術的なものはたくさんあります。

「作品」とは何か、という問いはなかなか答えられるものではありません。今現在の私の暫定的な答えは、「作品の作品性は、鑑賞者によって与えられる」というものです。つまり「作品である」ことは内在的な性質ではなく、外在的なものだと考えるのです。私は「見る人がある対象を作品として見るのなら、それはその限りにおいて作品である」としておきたいと思います。

鑑賞という言葉をもう使ってしまいましたが、ここでは、「作品として見ること=鑑賞」と考えます。だとすると、「鑑賞とは作品を見ることである」⇆「作品とは鑑賞されるものである」というトートロジーになります。

では、「鑑賞」という行為と、対象が「作品」になるということ、その二つの関係性を考えなければなりません。ここで、純粋な「鑑賞」という行為を想定しましょう。誰かが作った石像のようでもあり、ただの石のようでもある一つの対象があるとします。その時、「よし、自分はこれを作品だと思うから、鑑賞をするぞ」と意気込んで鑑賞を始めるのではありません。芸術性などといった言葉で表される魅力を対象に感じて見入っているうちに、自分の美的感覚と思考を動員して対象と向き合うようになるでしょう。それがおそらく「鑑賞」という営みです。この時、その「鑑賞」こそが、対象を「作品」にするのだと思います。しかし、この二つは先後関係のある過程というよりは、同時に起こるものと考えるべきでしょう。

まとめると、対象に何らかの魅力を感じて強く惹きつけられ、自らの感覚と思考を通して対象と真摯に向き合うこと、それが「鑑賞」なのだと思います。そしてその行為が対象の作品性を生む。だとすれば、このプロセスが包摂するのは、必ずしも人工物だけではないと言えるでしょう。

おわりに

以上が、私が今のところ考える「鑑賞」というものです。最初の予定から少しずれた話になってしまいましたが、一応テーマには沿って書いたつもりです。

もっと深入りすればもっと考える余地のある問題だと思いますし、自分でもまだ書けそうな内容がたくさん残っています。今回は記事を書くにあたっての心構えに代えて軽めに書いてみましたが、いずれ考えがまとまれば、もう少しきちんとした議論もしてみないなぁ、と思っています。

それでは、読んでくださってありがとうございました。

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