すべての天体はすでに星座である


 短い記になるはずだと信じて書き始めよう。前回記したとおりの部屋の掃除(最終的には、引越以来なんの手入れもしていないスピーカーケーブルを新たに切って繋ぎ直すほどの些事にまで及んだ)を落着させ、借りたままにしていた図書を読むための余裕が生じた。そのおかげでカルロ・ギンズブルグ『どの島も孤島ではない』の後半に当たったが、第3章「起源の探求──『トリストラム・シャンディ』再読」だけで興奮を抑えきれず、この40ページもない邦訳の章を読み通すのみで本を閉じてしまった。
「起源の探求」という表題だけでは Fate シリーズの魔術師かよとさえ思いかねないが、その内容はいつものギンズブルグらしい犀利な裁断の手つきに支えられて実証的な枚挙と直観的な飛躍の双方を難なく行うものであり、美事としか言いようがない。長々と語る気はないが、日本語圏人であるならばギンズブルグの翻訳書はすべて読まなくてはならない(とくに『神話・寓意・徴候』。今年の夏頃に再読したが、あまりにも徹底された非ユング主義の本であることに今更気付かされた。私もユングに関しては辛い評価しかくだせない側の者だが、ギンズブルグがこの本の主論から註にいたるまで繰り返していたユングdisの苛烈ぶりには到底及ばない)。今回の彼が『トリストラム・シャンディ』を分解するために揃えた道具は、なんと『学説彙纂』とピエール・ベールの『歴史批評辞典』である。要約など一切述べるつもりはないので、ぜひみすず書房刊の本書をお読みいただきたい。
 それと比べて、私が9日前に収録した Prefab Sprout “We Let The Stars Go” 評の道具立てのなんと貧困だったことか! アイルランド系移民でカトリックに属する作曲家の仕事を十字架のヨハネやダンテやイスラーム思想程度にしか接続できないようでは、まだまだ凡庸な評者としか見なされようがない。ギンズブルグも私もある程度実証的な「起源の探求」を旨とする者ではあろうが、本業の歴史家と実作家とでは分析によって到達できる深みに差がありすぎた。そんな当然の事実を興奮とともに受け止めた夕方であった。

 読後の私が差し向けられたのは、不思議なことにA4の紙に印刷された『χορός』全編原稿の修正作業であった。もう数年間ずっと部屋の隅に(文字通り)棚上げされていたパッケージを取り出し、その表面に「私の死後にこの原稿を発見した者へ。お疲れ様。私の死体は通常の衛生観念に従って始末してくれて構わないが、この原稿だけは君の手元に置いてほしい。もし廃棄したら君の親戚にいたるまで呪い殺す。それでは楽しんでくれ」という手紙が貼り付けられていたのを見るに及び、さすがに苦笑せざるを得なかった。その末文には「西暦2021年1月15日」というメモが付されていたからだ。おそらく当時の私は、コロナウィルスの猖獗にインフルエンザの流行までもが加わって、いずれ自分の身も危うくなると観念していたのだろう。2年と1ヶ月前の私へ。お前はこれからも大して体調を崩さないが、その代わり4ヶ月後に新しい音楽プロジェクトのため半永久的に膨大な作業を強いられる。そっちのほうがインフルエンザの高熱なんぞよりも数百倍キツいぞ。
『χορός』の電子版原稿には2種類あり、公式サイトに上がっている.ePub形式のファイルは初出原稿そのままで、カクヨムに章分けされているほうは以降に発覚した細かい誤字・脱字が修正された最新版である。今回修正した紙の原稿は前者のバージョンと同一で、記憶にある限りの誤表記を数箇所訂正したのみだったが、その可憐な作業に私を駆り立てたのはギンズブルグの著書だったのだ。改めて原稿をジップロックに仕舞い、「西暦2023年12月24日。この小説に登場するシオニストの娘とロシア系ユダヤ人の娘のふたりに関連する諸々は、すべて現実化したぞ」と書き足そうかと思ったが、無用の仕儀にもほどがあった。代わりに思い出したのは、2年前(西暦基準)の始めにこの原稿を郵送した唯一の宛先であった編集者のこと。もちろん一方的にではなく、電話で直接連絡を取っての送付だったが、彼がどのような報いをくれたかは書かずにおこう。加えて、その1年後に私が Parvāne の1stアルバムを完成させ、福岡市内のレコード屋に営業(我ながら良心的極まりない営業だった。ヒップホップをやっている者があれほど礼儀正しく・店側に配慮した所作で・一軒一軒地道に臨むなど到底考えられない)をかけ、そのうち委託販売可能の返事をくれた唯一の相手がどのような始末をつけたかも秘す。これら2件は「直接連絡をとったうえでの取引相手が見せた、竜頭蛇尾にもほどがある腑抜けっぷり」という共通の属性を持つのだが、今更振り返るまい。はっきり書くが、あのような扱いを受けて自らの作品を生み出し続ける意気を阻喪しない人間など絶対に居ない。単に私が躁病だから今でも続けられているのだ。世界の細胞たる個々人がどれだけボーッとした態度で眼前の現在形を見過ごし続けようと知ったことではない。その一方で、世界そのものが私の旧作たちの正当性を反映として実証し続けているのだから。もし今更『χορός』を新たに持ち込んだところで、「ちょっとねえ、こういう政治と繋がった音楽の話ですとか、とくにロシアの人とかイスラエルの件とか、あとイスラム教? の話なんかをね、こんな露骨に入れるのはよくないですよ」とでも言われかねないだろう。それら全章の編集が終わり・原稿として刷られたのは西暦2021年始のことにすぎなかったというのに、編集者は稿末に付された「全章執筆日付」の正当性すら疑うだろう。どうでもよい。「拙速は巧遅に勝る」のではなく、「巧速は拙遅に見逃され続ける」しかないのだから。こんな速さで生きている双子座の人間こそが世界の脅威と見做されて当然なのだし、この身体と32年も付き合っている私に異存などあるわけがない。

 さて毎年、この時期になると『ダブリナーズ』所収の『死者たち』(もちろん柳瀬尚紀訳)を読み直すのだが、今年も相変わらず素晴らしかった。この時点でジョイスが『ユリシーズ』に臨む準備は完全に整っていたのだと解る。この珠玉短編は『ユリシーズ』後半と同様に、主要意識たる夫婦を取り囲む「コイノス・コスモス」(共通世界)が夜を迎えて「イディオス・コスモス」(固有世界)に至る流れで編まれている。この世界2分法は、エリオットが『四つの四重奏』のエピグラフとして引用していたヘラクレイトスの辞に由来し、もちろん私の『χορός』第11章『ἴδιος κοινός』のタイトルもここに準拠している。ジョイスとエリオットの初顔合わせが何年頃だったかは忘れたが、100年前の文学史(どころか世界史)の現在形を墨痕鮮やかに書き継いでいた2者が共通の素材としていたのが「コイノス・コスモス」(共通世界)/「イディオス・コスモス」(固有世界)の2分法であった。


〔後略〕


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