Percussion Bitter Sweet (『アメリカン・ユートピア』、ピエール中野、Slipknot


 今回の内容は、先日に弊チャンネル有料サポーター様からのコメントを介して得られた『アメリカン・ユートピア』をめぐる知見にまつわるものです。いやあ適切な時宜というのは在るもので、やはり音楽作品には初めて触れたときには十全に与り知れない時限爆弾が埋められているものだと、自分自身にも再三言い聞かせてきたはずの真実を再認識するきっかけになりました。

 まず私は、以前にスパイク・リー監督:デヴィッド・バーン出演のブロードウェイパフォーマンス記録映画である『アメリカン・ユートピア』を、「アフロビートを利用した北朝鮮映画」として専ら批判的に評価しました。現在においてもこの評に関する訂正必要性は認めておらず、その真意に関しても前回記事のコメント欄にて詳述しておりますので、詳細について知りたい方は各自ご確認ください。
 昨晩その返信を書いた後で、私は改めて『アメリカン・ユートピア』関連チャンネルにアップロードされているパフォーマンス動画を再確認することにしました。正直なところ、かつての私は最初から褒める気満々で Amazon prime video にて『アメリカン・ユートピア』を観たものの、(先のコメント欄で詳述したような)全体主義迎合型のビートを座長たるデヴィッド・バーンが全面的に導入し、かつ(パフォーマーたちを主とする)関係者諸氏がその音楽性・演舞性のまずさをバーンに直接注意することなしに挙行された演目が、記録映画としてアメリカ国外においても大好評を呼んだという事実に打ちのめされ、本編の後半部分にいたってはほとんど麻痺状態のまま観終えたのでした。よって、「自分の記憶内で酷く加工されていたのみで、いま観直してみるとそうでもないのかも」と自身で固めた評価に関して反省の余地があり、断片的なパフォーマンス再検討によって『アメリカン・ユートピア』およびデヴィッド・バーンへの評価を陽性に修正しうると思ったのです。


 その結果は、陽性どころではありませんでした。かつての私が "バーン含めあのステージの演者たちはバッ・バッと四分音符単位で足を動かしながら同じ拍分割のビートを続け、ピッタリのタイミングで止まったところで客が拍手する類のもので、あのパフォーマンスに一番近いものがあるとすればそれは北朝鮮の軍楽隊以外に無い" と評価したパフォーマンスは、より正確には「ひとつのドラムキットを構成するパーツを複数の演者に割り振ったのみで、打楽器的な演奏としてはひとりのドラマーが単独で担いうる程度の内容」でしかなく、改めてそのパフォーマンスに直面した私は「これ、 "わたしだけ立って唄ってるのは非民主的な感じがするから、みんなも個々のドラムを持って一緒に立って踊ってね" って発想だけでやったんじゃないのか? そもそもドラマーという職業に失礼だと思わなかったのかバーンよ? プロ/アマチュア問わず全ての音楽ジャンルのドラマーによ」と低体温な義憤を覚えましたが、それよりも重要なものとして、動画内のパフォーマンスに目を凝らすにつれ明らかになってきたのは、「このパフォーマーたち(バーンも含む)から伝わってくる、圧倒的なまでの自信の無さ」でした。とくに『I Zimbra』の冒頭で出てくる、それぞれ左右に分けられた男女ダンサーの中途半端なユニゾン(このテイクはたぶん映画版とは別の公演だったと思いますが、いずれにしろ『アメリカン・ユートピア』には「群舞によってもたらされるまずさ」が強度・弱度それぞれのレベルでふんだんに盛り込まれています。その詳細については前掲コメント欄をご参照ください)や、理不尽な犯罪に巻き込まれて亡くなったアフリカ系アメリカ人たちを追悼する趣旨であるはずの『Hell You Talmbout』(ジャネール・モネイから引っ張ってきた楽曲。そもそもこの「犠牲者の名前連呼」のボーカライゼーションに巣喰っているグルーヴのまずさについては敢えて詳論しない)ラストにおいて横一列に並んだあとの中途半端な全体(不)制御っぷりなど、あらゆるディテールから伝わってきたのは「ステージにて自身の創造性を活かすというより、依頼された仕事の内容を "ちゃんとできているよな" と小心翼々にこなしているだけの、恐ろしく自信を欠いた人々(バーンを含む)」の様体だけでした。


 そして先述のとおり、そこでは複数の打楽器奏者によるパフォーマンスが本来的に備えるはずの「他者と並立しつつも異なったリズム」が(主にデヴィッド・バーン自身の貧困なアフリカ音楽理解に起因して)ほぼ完全に失われているのですから、『アメリカン・ユートピア』のステージ上における貧困は、私が半分麻痺しながら記憶していたものより相当深刻な事態であったことが遅れて理解されたのでした。その貧困を呼び招いた理由は単一の原因に帰されるものではなく、音楽、ダンス、そして何より藝術を行使する際の政治性にパフォーマー全員が無関心(というよりは、 "自分たちは正しいことを正しくやってみせるんだ" という、ボーイスカウト的な連帯感)であった複合状態に起因することは言うまでもありません。
 ブロードウェイで成功を夢見る人々が一般的にどのような精神性を共有しているかについて私はまったく知りませんが、「用意してもらった正しい筋書きを正しく見せる」ことを旨とする演者の職業意識が、アフリカ音楽の理解に関して80年代式の無邪気さでここまで来てしまったバーンのヴィジョンを最悪のかたちで上演する結果になってしまったと、今ではそう結論せざるを得ません(重要なことながら括弧で書きますが、バーン自身がイングランド出身/アメリカで大成という二重国籍人であったことも勿論これらの齟齬を甚だしくしたに違いありません。アメリカ出身ではないけど現在アフリカ系アメリカ人が被っている惨状を打開しようというバーンの意気と、その情熱を無批判に受け取ったパフォーマーたちと、さらにはバーンの演目を直接 BlackLivesMatter に共鳴するものとして繋ごうとしたスパイク・リー、これらの人々の間で各種異なる不幸な愛のすれちがいが在ったのであり、その所在を見ずに済ませられるならば、それはハッシュタグ的なセルフカテゴライズによって政治的な "連帯" を求めるようになった人々や、あるいは歌詞で正しいことを言ってさえいればそれが乗せられている音楽のリズムやハーモニーの構造がナチスドイツや北朝鮮のそれと全く同じであっても構わないタイプの人々によってのみ可能なことです。)


 以上に述べた『アメリカン・ユートピア』再見から直接飛び火するように髣髴とさせられたのは、ピエール中野さんのドラムオーケストラ作品についての記憶でした。現在においても『Animus』のタイトルで視聴可能なそれは、当時ピエール中野さんの活動をそれなりに追っていた(とりあえず凛として時雨のアルバムを全部聴き、単独ライブ演奏も2回観に行き、中野さんのドラム教則DVDも買って観ていた程度の)私は、もちろん当時(2014年8月)アップロードされたこの動画も観ていました。が、その内容はほとんど心的外傷として記憶される質のものでした。夥しい数のドラマーが、指揮によって、絶えず単独のビートを合奏し続けるだけの内容だったからです。
 先に「心的外傷」と書きましたが、これは私なりに最適の表現を選んだものです。どなたにとっても「ふとしたきっかけで見てしまって、強烈に焼きつき、どうしても拭い去れない記憶」が在ると思いますが、私にとっては「人間が音楽(とくに打楽器)の力をキツく行使している姿を見せられたときの記憶」がその類型に相当します。正直なところ、私は人間が射殺されたりインコの羽根が毟られたりする映像を無修正で見せられたとしても「なんて悪趣味な映像だ、こんなもんを作る奴はどうしようもないな」と軽蔑するのみで、その内容から受けた衝撃は数時間で忘れてしまえる自信があります。が、先述した「人間が音楽(とくに打楽器)の力をキツく行使している姿を見たときの記憶」は、今までに何度となく目にした素晴らしい演奏(以前に、人間と音楽が美しく関わっていた情景すべて)と同様に忘れがたいものとして記憶されざるを得ないようなのです。近々では『アメリカン・ユートピア』がそうであり、2014年ごろには中野さんの『Animus』がそうでした。
「なんで複数のドラマーが同じビートを叩いてたらダメなの? 本人たちが楽しんでて、かつカッコよく聴こえたらいいじゃんよ」というレベルの問いにすら答えなければならないのだとしたら本当に絶望的な話ですが、ひとつ『Animus』に関して陽性の評価を与えられるとしたら、動画ラスト付近で披露されるドラムソロの存在に関してのみです。オーケストラとして参加していた他のドラマーが退場し、中野さん単独で行われるドラムスの演奏には、この楽曲でほとんど埋没していたポリリズミックな要素がふんだんに入っているのです。具体的には、最も強いアクセントとして叩かれるクラッシュシンバルの(拍の)位置と、それと同時にロールされているスネアの打音数と細かいアクセントがそれぞれズレることにより、中野さんの両手両足で演奏される音たちが複層的にズレて聴こえ、これは様々な形状のパーツが別々の音域で混ざり合う楽器=ドラムキットが為しうる原初的・根本的な歓びに裏打ちされた素晴らしさであり、ひとりのドラマーとして比類なく卓抜した中野さんの技量を証明するものです(彼はかつて『Telecastic fake show』のドラム演奏解説動画で「キックはジャストでハイハットの位置だけちょっと食い気味にする」ニュアンスについて言及したことがあり、このことからも単独のドラマーによるポリリズミックな演奏の可能性について自覚的な奏者・作曲者であることがわかります)。が、そのポリリズム=リズムの複層性は彼が単独でドラムキットを叩いたときに表出するのみで、ドラムオーケストラの全体性の中では(中野さんを含む)個々のドラマーから悉く奪われてしまっている要素なのです。動画内では指揮者が拍を取り、同時に各ドラマーがヘッドホンを着けてもいるわけですが、ここでもしヘッドホンからテンポを知らせるクリックまでもが伝達されていたらと仮定するだけで、このドラムオーケストラがいかに画一的なリズムの同時演奏以外の何物でもないかがおわかりになるでしょう(実際、あのヘッドホンから流れていたのは自分または基準のドラムキットの演奏を明確に聴くためのモニタリング情報だけだったと思いますが)。


 ファンの方ならご存知と思いますが、ピエール中野さんはジストニア(長時間続く不随意な筋収縮)の影響で演奏活動が不可能になったことを公言しておられた時期があり、同時に突発性難聴への啓蒙の一環として聴覚保護のための装置開発に協力してもおられます。ジストニアに関しては発症原因が不明であることが多いため、中野さんの病因に関して深掘りすることは無礼ですし必要とも思われませんが、突発性難聴の発症が心因性であることが多い事実を考え合わせれば、同時期の中野さんが心因的な事由によっても音楽活動を阻害されていた可能性は限りなく高いと思われます。そして、中野さんが2010年代の後半に音楽活動を休止せざるを得ないほどの肉体的・精神的沈滞があった事実と、その彼が2014年に「単一のリズムによるドラムオーケストラ」を主催していた事実は、間違いなく関係があると私は考えます。ポリリズム的でないドラマー合奏企画のせいで彼は病気になったなどと言っているのではありません。拍の分割によってリズムを構成する職業=ドラマーにとっては、多数のドラマーによって単一のリズムを補強するような演奏の実行がそのまま肉体的・精神的危機に繋がりうるのであり、個人として病を患う際にはそのような危機的徴候が前もって現れている可能性がある、という事実を明らかにしているのです。音楽の演奏や上演を、単に楽しんで行うだけのものとして通り過ぎると必ず見逃してしまう落とし穴がありうる、ということを『アメリカン・ユートピア』との関連で論じるために、私はこの記事を書いたのです。

 現在、ピエール中野さんがいち演奏者として復帰され、凛として時雨の名義でも素晴らしいアルバムを発表できるようになったことはたいへんな安堵感をもたらしてくれます。しかし同時に、(主に打楽器によって)人間の存在自体に働きかけるリズムの力、その陰陽こもごもの作用の凄まじさを考えることができなくては、私が賛否さまざまに述べてきた作品たちの意義も解離的に見過ごされてしまうだけでしょう。ここには、「コロナ前までは好きなようにライブできたんだけど、ああなってからみんな気持ち的にまいっちゃったよね」のように安易な紋切りを許さない、2010年代中盤あたりからすでに進行していた、いやそれどころか人間が音楽と関わるようになってから常にあったのかもしれない祝いと呪いの両面を明らかにする智慧が仕込まれているように思えてなりません。


〔後略〕



 スリップノットの "複数の打楽器奏者を擁する彼らの演奏が、あくまで軍楽隊的な単独リズムの補強から外れることがなかった" 袋小路についての言及も含む全文は、 Integral Verse Patreon channel有料サポーター特典として限定公開される。


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