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社会の沈下により私は浮上する

・「メランコリア」初回鑑賞当時のFilmarks
 https://filmarks.com/movies/16844/reviews/68168370

 コロナウイルスが日本中に感染拡大したと報じられてから早3ヶ月が経過し、市場経済は世界恐慌に匹敵するレベルの落ち込みを見せた。都市部では体力のない飲食店が次々に閉店の看板を出し、筆者もその苦しみの一端を感じてさみしくなった。収入が続いている会社員も含め、国全体を鬱々とした空気が覆い尽くしつつある。しかし、不思議なことに筆者自身は以前にも増して活力を取り戻す気配を感じている。批判を覚悟して申し上げるが、自分の気持ちの浮き沈みは世の中の人間のネガポジと相対的な関係を持っているのではないだろうか。

 ラース・フォン・トリアー監督の映画「メランコリア('12)」をご存知だろうか。この映画は前後半の2部で構成されている。金持ちと結婚して何不自由なく幸せに暮らす姉(シャルロット・ゲインズブール)と、腕利きのコピーライターとして社畜生活を送り、ついに結婚という幸せを手にするも鬱に身体を蝕ばまれている妹(キルティン・ダンスト)の姉妹が主人公である。前半は妹の結婚式が舞台となって物語が展開されるが、妹は母のギャビー(シャーロット・ランプリング)と奇行にはしり、式をめちゃくちゃにしてしまうどころか、新郎と周囲の関係をわざわざ引き裂くような言動を繰り返し、前半は狂気的な波乱で幕を降ろす。

 後半は結婚を破棄された妹が姉の豪邸に居候する形で厄介になっている場面から始まる。姉の方は子供も成長し、夫は事業家として何不自由のない未来を約束されている。しかし、地球に奇妙な周回軌道を描く惑星が接近する。発表当初、地球の周回を回って通過する予定だった惑星が、次第に地球との衝突が回避できないものであるとの予報に変わった。姉は絶望、狼狽し、子供は怯える。夫は嫁をなだめつつも真っ先に自らの頭をショットガンで撃ち抜いた。ヒステリックさを極めていく姉に対し、妹は次第に元気を取り戻していく。惑星が衝突する瞬間、妹は喜びとともに地球の滅亡を受け入れ、映画は終わる。

 ここまでが映画の大まかな筋書きである。この映画は、鬱で苦しいから地球ごと人間が滅びてしまえばいいというメッセージではない。もし仮にそうであれば妹自身もまた、絶望とともに地球の滅亡を拒否する姿勢を見せなければ説明がつかない。しかし、彼女は生気を取り戻したのだ。彼女は鬱の苦しみから逃れたい=死への欲求だけでは納得できなかった(浮かばれなかった)のだ。死は生と相対的な存在である。自分が死しても生きているものは必ず残る。自らが鬱の病に負けて没したとは誰にも記憶して欲しくはないのであり、したがって、彼女は他者が生きている限り苦しみ生き続けなければならない。地球の滅亡はこれらの妹のジレンマを一挙に解決する手段として登場する。

 自身が鬱であると公表した監督の目線を想像するならば、「自死は恥ずかしい(=他者の存在を要する)から嫌だ」しかし、「生きるのは苦しい(=自身個人の問題)からやはり嫌だ」と自己矛盾した問題を解決するために得た回答が「じゃあ人類を地球ごとぶっ壊しちゃえばいいじゃん(=全てを無に還す)」だったのではないか。とんでもない弁証である。不謹慎の領域を超えてギャグにまで昇華した理論を正当化して映像化した作品がこの「メランコリア('12)」ではないだろうか。

 さて、現実世界の話に話を戻す。「自死は恥」「生きることは苦しい」これらのジレンマは人生が窮地に陥った時、我々も必ず抱える悩みである。現代ではプラスしてSNSでいつでも身近な人の輝く瞬間を見せつけられ、気持ちの落ち込みに拍車がかかる。

 しかし、コロナ禍下において人々が自らの生活を"盛って"表現できなくなったことが筆者の心の安定につながっている。電子的に精神的に生きた(活きた)情報が死のレベルまで一時的に下がった。地球の破滅を想起する隕石の衝突は望まないが、(自分自身も含めて)加熱された自己顕示欲のフィールドがフラットになったことで、相対的に自分自身が生き生きしている実感がある。社会がこのような惨状になって初めて、僕のような他者の承認を求める卑屈な人間は、誰の目も気にせず自分の好きなものを自己肯定として納得することができるのだ。

 無論、個人的な話だ。

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